チカ、と何かが目の端で光り、風魔は足を止めた。 チカリ、チカ―― それは明らかな信号であった。が、何を意味しているのかがわからない。風魔はあたりを見回し、信号の傍へ近づいた。それは大きな屋敷の、天井裏にしつらえてある窓から放たれているものだった。 気配を消して様子を伺う彼に、声がかかる。 「待ってたよ。燕さん」 完全に気配は断っていたはずだ。 「驚かせてごめん。千里眼を、僕は持っているんだ」 風魔の心中を察したような言葉が、かけられた。 いぶかりながら、様子を探る。室内には一人分の気配しかない。殺気も感じない。それどころか、親しげな空気が漂っている。 風魔は、警戒しながら窓から身を入れ、自分に信号を送ったらしき人物を見た。 年の頃は元服をするかしないか、くらいだろうか。上等な着物を着ている。服装からして公家であろう。手に鏡を持っていた。それで風魔に信号を送っていたらしい。 ふっくらと丸みを帯びた頬に浮かぶ人懐こい笑みは、こちらも思わずほころんでしまいそうなほどに邪気が無く、愛らしいと言えただろう。――――両眼が不自然に落ち窪み、空洞のようになっていなければ。 「僕は、千寿丸。燕さん、お名前は?」 鏡を置いて、千寿丸は両手を伸ばす。風魔は、ただそれを眺めていた。風魔が居ると思しき場所へ、千寿丸は手を探るように動かしながら膝で進む。足が萎えているのか、と目を向けた風魔は、膝から下の布に膨らみが無いことを見た。 片膝をつき、手を掴む。ふわりと蕾が開いたように、千寿丸は吐息を漏らした。 「燕さんの手は、大きいな」 形を確かめるように動く指を好きにさせていると、握りしめられた。 「お願いがあるんだ」 無いはずの眼球で真っ直ぐに見つめてくる千寿丸の願いを、風魔は叶えてやる事にした。 千寿丸の願いは、風魔にとっては赤子の手をひねるようなものであった。彼が見えない目で見たもの――貧しく困っている家に、彼が所有している細工ものや玉を届けるというものであった。質素な彼の部屋には、様々な高値の品が転がっている。それを見繕い、届け、礼として一部を貰い受ける。それが、依頼の全てだった。 一度きりのつもりであったが、懇願され、風魔は幾度となく任務の合間に彼を訪れ、依頼を受けた。 ――東の二つ向こうの村に売られそうになっている娘がいる。 ――西の村は日照りで年貢を払えるほどの収穫が無い。 ――北の山村で薬の買えない家族がいる。 ――南の地で飢えている子どもがいる。 そのような話を聞いては、風魔は細工や玉を金に変え、千寿丸の望む場所へ届けた。確かに届けた証として、自分で見繕った報酬を千寿丸の手に握らせてから受け取る。それは、いつしか自分でも気付かぬうちに、風魔の楽しみに変じた。 そうして何度も出入りをしているうちに、知りたくなくとも忍の耳には彼の処遇が届く。 もともと農民であった彼は、千里眼の為に買われてきたのだということ。 足は、万が一にも逃げ出さないようにと切り取られたこと。 目は、不必要なものを見ないためにえぐられたこと。 彼の千里眼で、この家は没落から復帰を遂げたこと。 彼からの報復を恐れて、彼が奪われるのを恐れて、屋根裏に隠していること。 彼の部屋にあるものは、彼が視たものへの礼品の一部であること。 彼が、自分の――自分の家族のことは視ることが出来ないこと。 最後の部分は、彼にとっての唯一の救いではないかと風魔は思う。彼は自分が売られたことによって、家族が幸せにつましく暮らしているのだろうと考えていたが、千里眼の血を自分達の血族に入れんが為に、彼の母と姉はこの屋敷で公家達の浅ましい欲に服従させられ、邪魔な父親はすでに亡き者とされているのだから。 「燕さん」 呼び掛けられ、風魔は千寿丸の手を握る。ほっとしたように唇をゆるめるのを見るのが、嫌いではなかった。 「いつも、ありがとう」 かまわないと言うつもりで二度、手の甲を叩く。 「忙しいのに、ありがとう」 そして彼はまた、風魔に願いを託す。 そんな事が続くと、彼が誰かと通じているのではないかという疑念を持たれるのは当然の事であった。部屋にある細々とした宝物が減っていっているのだ。気が付かないほうが、おかしい。 最初は、彼の世話役がくすねているのだろうという話になったが、そのような証拠は何もない。屋敷の家人の立ち会いが無ければ誰も彼に近付けないとしても、宝物は減る。理由もわからず首を捻る家人たちは、話し合いを行った。 「あいつが死んだら、そっくり家のものになるはずだったのに」 「私、それまであの珊瑚の簪は我慢をするって決めていたのよ」 「私は、あの螺鈿の櫛。あれも無くなっていたんでしょう」 「窓を開け放っているから、烏にでも取られたか」 「なれば窓を閉めてしまえばいい」br> 「しかし、窓をふさぐと千里眼は使えないと言うておった」 どうしたものかと顔を突き合わせて唸ってみても、原因がわかろうはずもない。 一人が本人に聞いてみようと言いだして、全員がそれに納得をし、屋根裏に主と息子二人が向かうことになった。 そのような事になっているとは知るはずも無い風魔は、戦場で旋風となっていた。風魔とその部下以外に立っているものがいなくなった場所で、空を――千寿丸のいる方角に顔を向ける。嫌な予感がして、風魔はその場を後にした。 ただの屋根裏になってしまっていた部屋で、風魔は立ちすくんでいた。床や壁に、ふき取りきれていない血の痕がある。そこに居た、風魔を燕と呼んでいた少年の姿は、屋敷の何処にも見当たらなかった。痕跡をたどり、行方を捜す。ふと、家人の声が耳に入って足を止めた。 「だから、どうして殺してしまったのか聞いているの」 甲高い苛立った女の声に、同じ調子の男の声がする。 「あんなにモロいとは思わなんだのだ」 「これから、どういたせば良いのですか父上」 「誤魔化しながら、千里眼を持つ子どもが早く出来るようにするしか、無いだろう」 気配から、中にいるのは五人と察する。少年がどうなったのかも、風魔は察した。音もなく室内に入り、オロオロとしているだけの男の首を、まずは跳ねる。勢いよく噴出した血に、同じようにオロオロとしていただけの娘が布を引き裂いたような悲鳴を上げて気を失う。そこで、言い争っていた男二人と女一人が気付き、血を噴出し終えて倒れた息子の姿に息を呑む。その背後に、風魔は立っていた。 「ひっ、ひぃいぃいいいい」 ムカデのように、風魔に背を向けて悲鳴を上げながら地を這い逃げようとする女の髪を掴み、引き寄せる。 「た、助けてぇえ! ああ、あ、ぁあああっ」 目を見開き、首を振りながら懇願する女の胸に、ゆっくりと時間をかけて小刀を埋める。しばらくバタバタと暴れていた女が、大きく痙攣をしてから動かなくなる。ゆっくりと女から顔を上げると、腰を抜かした家主と、失禁をしている息子の姿があった。 「か、金ならやる。だから、だから――殺さないでくれっ」 上ずった声で懇願してくる家主を無視し、失禁をしている息子の顎を掴んで持ち上げる。ぎりり、と力を込め続けると真っ赤に顔が膨れていく。 「あ、ああ、ぁあああ」 それを眺める家主は、震えるだけで逃げようとはしない。人は過度の恐怖を感じると逃げられなくなるものだと、風魔は識っていた。 掴んでいる腕に、質の違う重さがかかる。事切れた男を無造作に投げて、涎と涙を垂らしている男を見下ろすと、順繰りにクナイで四肢を床に縫いつけた。 「ひっ、ひはっ、ぁ、ひ、ひぅあぉおお」 痛みと恐怖で言葉を無くしながらも首を横に振り続ける男の眉間に、仕上げのクナイを投げつける。ぐるり、と白目をむいた男は、ゆっくりと床に沈んだ。それを見届けてから気を失っている娘を一瞥し、風魔はその場を後にした。 しばらくの後、風魔は無造作に屋敷の裏の林に投げ捨てられている千寿丸の姿を見つけた。体を丸め、しっかりと拳を握り締めている彼の顔には、大きな痣があった。このままにしておけば、夜には野犬が肉を食い散らかすだろう。風魔は固く、冷たくなった彼の体を抱き上げた。ふと、握り締めている手の中に、根付の紐があることを見止める。一度下ろし、死後硬直も済んでしまった手からなんとかそれを抜き出して見ると、それは蝙蝠が羽ばたいている姿の象牙の根付だった。この前交わした会話が――と言っても、風魔は一言も話さないのだが――蘇る。 『次の先見で、燕さんに似合いそうな根付がもらえるらしいんだ。次のお礼は、それを用意しておくね』 言っていたものはきっと、これなのだろう。痛めつけられながらも、どんな想いでそれを握り締めていたのか。 風魔はそれを腰につけ、再び千寿丸を抱き上げた。木々の上を走り、沼地に降りる。蓮の花が――極楽で咲くことを赦されている花が咲き誇るであろうその場所は、今は枯れて何もない。 鳥がさえずる静かなそこは、並の人の足では来ることが適わないだろうと思われた。回りには獣道はあれど人の通った道は、見当たらない。 風魔は足を水面に伸ばし、中央まで歩く。そこで、ゆっくりと水面に千寿丸を横たえ、その姿がゆらりゆらりと沈んでいくのを見つめた。見えなくなっても、見つめ続けた。 2011/07/10