散歩に出かけたままの、北条氏政が帰ってこない。 彼が出かけた頃は晴れていた空に、灰色がかった雲が広がり、その色を黒に近づけていく。 風魔小太郎は、縁側で見る間に変化していく秋の空を見上げた。 氏政が出かけてから、どれくらいの時間が経っているだろうか。少し首をかしげて、太陽の位置を確認する。雲に覆われた太陽は光を滲ませて、地上から姿を隠していた。 やがて、ぽつり。ぽつり。 雨粒が庭に落ちて土の色を試し書きのように変えてから、地上をその色に染めようと決めたらしく、勢いよく天から次々と落ちてきた。 ざぁ、と雨の帳が世界を覆う。 空は燃え残りの炭色に染まり、次々と雨粒を撒き散らしてくる。ゴロゴロと、野太い猫が喉を鳴らしているような音が響き、雨音はさらに強まり、稲光が走った。 氏政が出かけた時刻は、雨など降りそうな気配は無かった。夏よりも少し遠く、よそよそしくなりはじめた青空に、ぽかりぷかりと綿雲が浮かんでいた。それがゆったりと流れていくように、氏政は散歩に行くと歩いていった。 誰も連れず。ただ、一人で。 小太郎は納屋に行き、傘と蓑を二人分、身に着けた。そうして雨の中、氏政を探しに出かけた。 探すといっても、あてがあるわけではない。氏政の散歩はいつも足の向くまま気の向くままで、予測がつかない。けれど、知っている道をすべて行けば、必ず行き着くはずだと小太郎は一寸先も見えなくなるほど、激しい雨煙の中を進んだ。 川のそばを通れば、ごおっと唸りを上げて水が流れている。そばと言っても、小太郎ほどの忍であれば常人がその音に気付くよりもずっと遠くで、音を拾うことが出来る。もし、氏政が川原でのんびりと休んでいたときに雨が降り始めたのだとしたら。 ぞくりと心臓をつめたい手になでられて、小太郎は足を急がせ氏政がいつも座る岩のある川べりへ進んだ。 どどどどど――。 濁流が、唸りを上げて暴れている。流れる、という形容詞が似合わないほどに、川は荒れていた。渦を巻いて、水が獣となって暴れている。 氏政がいつも座っている岩は、濁流からの激しい張り手に堪え、しぶきを上げてその場に留まっていた。かろうじて頭が見えているその岩の上に、氏政の姿は無い。流されたのだろうか。いや、ここには来て居なかったのだろうと、小太郎は違う場所を探すことに決めた。 次に小太郎が向かったのは、青々と育った稲の並ぶ田園だった。豊かな米は、国土の潤いとなり人の命を育み守る。一般的に領土の石高はいくらと言われるが、実質の生産量とは違っていることが少なくない。その年の天候や、土の具合。耕す者の器量などによって、米の出来は変わってくる。氏政は、膨らみ始めた稲穂を眺め、それが国土の民に十二分に行き渡るだけの量があるかを、散歩の途中で確かめ眺めることがある。 いつもの氏政の散歩の道順に沿って、氏政がよく里の営みを眺める大木にたどり着いた小太郎は、そこにも姿が無いことに、そっと息を吐いた。その息が吐ききられる前に、雨音が地面へと叩き落す。大木の根元もずぶぬれで、雨宿りなど到底出来そうに無い。もしかして、と小太郎は思いつき、里の家のどこかで雨宿りをしているのではと、民家に近づいては気配を探ってまわった。 けれど、すべての家をめぐっても、氏政の気配は無かった。 他に、氏政が行きそうな場所。 考えて、街道の里に近い茶屋を覗いても、景色の良い小高い丘の上に足を向けても、城内の茶室に居るのではと戻って覗いてみても、氏政の姿は見当たらなかった。 やはり、川原の岩の上に居て、流されてしまったのではないだろうか。 ぶる、と身が震えた。そうして、小太郎は自分が何故震えたのかと首をかしげた。 どうして、氏政が川に落ちて流されたと考えれば、胸がひやりとして震えが走ったのだろう。 どうして、そうでなければいいと願ったのだろう。 ごろろ、と空がうなって雨煙が晴れていく。だんだんに炭色の雲が色を薄め、厚みを薄めて去っていく。ぽたり、ぽたりと笠から落ちる雫と、空から落ちる雨粒が同じくらいの量となり、やがて消えた。 小太郎は雨が降っている間に夕茜に化粧直しを終えてしまった空を見上げ、二人分のかぶっていた笠を外し、とぼとぼと水溜りだらけの土を踏んで歩いた。 むせるような緑の香りが、土の香りが舞い上がっている。濡れた笠と蓑を干そうと厩へ進んだ小太郎は、ふと足を止めた。 気配が、ある。 厩に、人の気配がある。 小太郎の足が軽くなり、一足飛びに厩へ寄った。ひょいと氏政の馬の尻に目を向ければ、はたして氏政の姿がそこにあった。「おお、風魔」 にこにこと、干し藁の上に座っていた氏政が立ち上がり、歩み寄ってくる。「なんじゃ、風魔。おぬし、ワシを探しに出てきてくれたのか」 風魔の手には、二人分の笠があり、彼の背負っている蓑は、一人分にしてはふくらみすぎている。風魔は否定も肯定もせず、笠を吊るし、蓑を脱いで干した。「あの豪雨の中を、探しに来てくれたんじゃな。難儀じゃったろう。すまんかったなぁ」 しみじみと頷きながらねぎらう氏政に、小太郎は目を向ける。「おお、足がずいぶんと濡れてしまっておるぞ。すぐに拭いて、熱いお茶でも飲んでおけ。秋の雨は、体を冷やすからなぁ」 小太郎の身を案ずる氏政は、少し着物を湿らせた程度だった。出かけていったときのまま、飄々としている氏政に、小太郎はほっとした。わずかに変わった小太郎の気配に気付いたのか、氏政が目じりのしわを深くする。「ワシは大丈夫じゃ。心配をかけたのう」 風魔はゆるくかぶりをふり、首をかしげた。「ん? おお。そこの先を見てみぃ」 氏政が示したのは厩の軒先で、そこにはツバメの巣があった。「雨が降り出して、ツバメがどうしておるだろうと気になったんじゃ。それで、様子を見に入った途端に、雨足が激しくなってのう。間一髪じゃったわい」 ひょっひょっひょっと笑う氏政が示したツバメの巣には、一羽の気配もない。「飛び立ってしもうたんじゃのう」 小太郎の横で、ツバメの巣を見上げる氏政がしみじみと、寂しそうに懐かしそうに呟いた。「もう、そんな時期なんじゃな」 えさを求めて鳴いていた雛が、大人となり遠い場所へ旅立つ季節になっていた。「風魔よ」 ツバメの巣から氏政に目を向けた小太郎は、そこに見えた笑みに寂しさのようなぬくもりを感じた。「宵闇の羽のと、姫巫女にあだ名をされておるらしいのう」 ひょっひょっひょ、と氏政が意味深な光を目にたたえた。どうしてそんな目をされるのか、小太郎にはわからない。「風魔も、旅立ちたくなれば、遠慮なく羽ばたいて良いのじゃぞ」 包み込みながら突き放すような笑みに、小太郎は突風に吹かれたように意識を揺らめかせた。 にっこりと笑みを深くしてから、氏政はもぬけの殻となったツバメの巣を見上げる。小太郎も、巣を見上げた。 巣立ったツバメは春が来れば、前年に子育てをした場所に戻るという。そうして新しい命を育み、また旅立つ。 氏政は、黒い羽を持つツバメと、宵闇の羽というあだ名をつけられた小太郎を、重ねていたのだろうか。豪雨の中、どんな思いで空虚となった巣を眺めていたのだろう。 氏政に目を戻し、小太郎はひょいと彼を抱き上げた。「おおっ?」 驚いた氏政は、恐ろしいほど軽かった。そして、長くこの世に生きてきた人間の匂いがした。 いつか人の世から旅立つ者特有の、人の晩秋の匂いがした。 それは泣きたいほどに優しくて温かくて、小太郎は深くその香りを吸い込んだ。小太郎が今まで手にかけて無理やりに命を途切れさせた誰とも違う、偶然にも自然の終焉を迎えようとしていた老人に居合わせたときとも違う、形容しがたい香りだった。氏政にだけ感じる、香りだった。 懐かしいような、新しいような、目の奥が熱くなり、喉の奥が詰まるのに何かがせり上がってくるような。 胸が苦しくなり、息が鼻から抜けなくて、小太郎は短く口から息を吐いた。いつかこの香りは、土の匂いと混ざり消えてしまうという確信が、どこからともなくやってきた。諦めのような苦しさが、小太郎の胸を締め付ける。それと同時に、ふわりと包み込むような芳醇な秋の森の気配に似たものが、体の隅々にまで満ちた。 踏み出した小太郎の足が、わずかに水をはねさせる。それに気付いた氏政が、うむうむと納得をした。「ワシが濡れないように、運んでくれようとしておるのじゃな」 そういうつもりで、小太郎は氏政を抱きかかえたわけではなかった。けれど、どういうつもりだったのかわからず、きっと氏政の言うような理由で、自分は彼を抱き上げたのだろうと思った。「屋敷に戻れば、風魔が足をぬぐい着替えておる間に、熱い茶を用意させようかの。茶菓子は、何か良いものがあったかな」 肩に乗せた氏政のつぶやきを聞きながら、優しく遠い彼の香りに、気付かぬままに意識を甘えさせた小太郎は、ふとツバメの巣を振り向いた。 もしも自分がツバメであるのなら、巣はきっと氏政だろうと、思うともなしに思って首をひねる。 どうして、そんなことを自分は思っているのだろう。「風魔。早く足を拭かんと風邪を引いてしまうぞ」 促され、小太郎は止めた足を動かした。 そうして屋敷に戻る彼の姿は、小太郎が氏政を抱えているというのに、祖父に手を引かれて甘える孫のようであった。2013/09/02