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子ぎつね佐助―ぶわんぶわんな春先に

 ぶるり、と腕の中の小さくあたたかなものが震えて、真田幸村は眠りから意識を離した。重いまぶたを上げて、まだ眠りに浸ったままの声で話しかける。
「――佐助?」
 ぴる、と耳を震わせた腕の中の子ぎつねが、もそもそと寝返りを打ち幸村の胸に体を寄せてきた。
「寒いのか?」
 梅が咲いたとはいえ、まだまだ冷える。ふさふさのあたたかなしっぽを持っている子ぎつね佐助は、幸村よりもずっと寒がりだった。だから震えたのだろうと、だから身を寄せて来たのだろうと、幸村は小さくあたたかな佐助の体を抱きしめる。
 ふうっと眠りの中に戻るために息を吐いた幸村が、再び寝息を立て始めてから、子ぎつね佐助は目を上げて、眠る幸村の鼻先に顔を寄せ、呼気がもれてくるのを確認し、ほっと胸をなでおろした。
「旦那」
 起こさぬように気を付けて、小さな声で話しかける。手を伸ばし、触れた頬はあたたかかった。それに再び安堵したように息を漏らして、子ぎつね佐助は瞼を閉じた。

 夜が明けて、朝の鍛錬に励む幸村を縁側に座って見つめながら、佐助はその向こうに咲いている庭の梅に、蜜を求める鮮やかな鳥が現れたのに気付いた。
 春、か――。
 ちいさく心の中でつぶやいて、子ぎつね佐助は息を吐く。ぱふん、ぱふんと緩慢にふかふかしっぽを動かして床を叩き、じんわりと肌を撫でるような親しげな春の気配をうっとおしげに、憂鬱そうに受け止める佐助の心根など知らぬように、世界は――子ぎつね佐助を包む世の中のすべてが、春の足音に浮かれている。
「――っふ」
 空気を切り裂く音をさせ、佐助の大好きな主、真田幸村が槍を振るう手を止めた。ゆっくりと腕を下して呼気を変え、剣呑なそれから穏やかなものに気配を変えた幸村に、ぽんと縁側から飛び降りた佐助は手ぬぐいを差し出した。
「朝餉の準備、出来てるよ」
 寝起きの運動だと、幸村は顔を洗い身支度を整えると軽く体をほぐしてから、槍を振るう。その間に佐助が朝餉の準備を整えて、彼の朝の鍛錬が終わるのを待ってから、共に食事を摂るのが日課だった。
「ああ、すまんな」
 手ぬぐいを受けとり汗を拭う幸村は、なんだかいつもよりうれしそうに見える。魂萌え出ずる春に、彼の魂もふっくらと梅の花のようにやわらかく開いているようで、佐助はぶるりと身を震わせた。
「佐助には、まだ寒いか」
 気づいた幸村が、少し首をかしげて問うのに佐助が首を横に振りかけて、縦に動かす。
「まだ、冬の名残があるからね」
「おまえは、本当に寒がりだな」
 腕を伸ばして佐助の頭を撫で、そのまま抱き上げた幸村が、にっこりと佐助の心まで温めるように微笑んだ。
「共におれば、寒くは無いだろう」
「うん、まあ……そうだけどさ」
 そうだけど、さ――。
 心の中で繰り返した佐助が、拗ねたように唇を尖らせる。
「なんだ。子ども扱いのようで、気にくわぬのか」
「見た目はこうだけど、俺様は旦那よりもうんと長く生きているんだぜ」
 自分の言葉に、ぞわりと怖気を浮かべた佐助は、身震いを隠すために寒さを堪えるように幸村に身を寄せる。
「俺が幼き頃より、佐助は今の姿であったな」
 自分に確認するような幸村の言葉に、じわりじわりと佐助の足元から暗い影が這いあがり、全身を抱きすくめようとして来る。それから逃れるように、佐助はますます幸村に体をすりよせた。
「寒い」
 震えの理由をごまかすように呟けば、幸村は軽く佐助の背を叩き、部屋に上がる。朝餉の膳を用意している部屋には、長火鉢があった。その傍に座った幸村は、膝の上に佐助を乗せたまま二人の膳を引き寄せた。
「ならば、温かくなるまでは、こうして触れあておればよい」
「――うん」
 こっくりとうなずいた佐助の髪を撫でれば、ぱたんぱたんと佐助が尾を左右に動かし、幸村の足を叩く。それに包み込むような愛しみを込めた目を向けて、幸村は箸を取り佐助も朝餉を食べ始めた。
 うつむいている佐助の表情を、幸村は知る術がない。佐助の気持ちを察せるものは、彼の耳とふかふかのしっぽの動きだけだった。
「……何か、嫌な事でもあったか」
「えっ」
 驚き振り向く佐助に、幸村が得意げな顔をする。
「ごまかしているつもりだろうが、俺が佐助の事に気付かぬはずが無いだろう」
 わずかに胸を反らす幸村に、心中で「普段はうんと鈍いくせに」とぼやきつつ、佐助は不思議そうな顔を作って首をかしげた。
「何で、そう思ったのさ」
「尾が、いつもよりもしぼんでいる。それに、耳もいつもよりも少し下がっている」
「気のせいだよ」
「俺が、佐助の尾の具合がわからぬとでも思っているのか」
「旦那が、俺様のしっぽが大好きなのは知ってるけどさ……湿気てたときとか、膨らみ具合がいつもと違う時だって、あるだろ」
「まぁ、そうだが」
「それに、今日は雲っているから、十分にしっぽをふかふかに出来ていないだけだよ。耳が下がっているように感じたのも、俺様が無意識に、しっぽの具合に満足していないことを、示しちゃってただけだろ」
「――そうか?」
「そうだよ」
「ぬぅ」
 得心が行かない顔で、けれどそれ以上追及する言葉が出てこないらしい幸村から、ふいっと顔を逸らして佐助は食事を再会する。幸村も、茶碗を持ち上げ全身から納得がいかないという気配を発しながら、食事を進めた。
「……やはり、何かあったのではないか」
 ことり、と茶碗を置いた幸村の問いに
「もう。旦那の気の所為だって」
 つとめて呆れたような声を出し、佐助は空になった膳を持ち上げ部屋を出た。廊下を進み、角を曲がったところで足を止め、ふうっと息を吐き出す。しっかりと元気に立ち上げてた耳が垂れ、しっぽも力なく下がった。
「旦那ってば、妙な所で鋭いんだから――」
 察してほしいと思っている時や、誰でも気づくだろうとおもっような事柄には、とんと気が付かないくせに、気付いてほしくないと気を張っている時に限って、気付くのだ。
「ほんと、難儀な人だよね」
 つぶやき、佐助は再び足を動かし廊下を進んだ。

 ひんやりとした冬の名残を、春の日差しがあたためている。ぶわぶわと寒天を温めたような肌触りのする春の初めの気配に、佐助は眉根に皺を寄せて、春の訪れを歓迎している人々を、屋根上から眺めていた。
 晴れやかな顔をして、皆が立ち働いている。里も作付けの準備などで、どんどんと活気にあふれていくだろう。
「……はぁ」
 そんな気色とは対照的な顔をして、吐息を漏らした佐助は自慢のしっぽを日に当て毛づくろいをしながら、物憂げに春の初めの日差しを浴びていた。
 ――俺が幼き頃より、佐助は今の姿であったな。
 佐助の耳に、今朝の幸村の声が響く。
 佐助は、ただの子ぎつねでは無かった。
 神の眷属であったはずが、どういうわけか一族とはぐれ、一人でこの先の山の中で自分が何者かわからぬままに、生きつづけていた。
 佐助が親しく思うものは――木々以外の生き物は、あっという間に年老いて命を終えて土に還る。佐助よりも後に生まれたものも、佐助よりも先に命を終える。どのくらい、あの山で出会った獣らの生と死を眺めて来ただろう。佐助が初めて目にした獣から何代目の命が、春の訪れに冬を越すための巣穴から顔を出しているのだろう。
「――ふぅ」
 息を吐き、毛づくろいの手を止める。じわりじわりと毛穴から黒い影が佐助の中に沁みこんで、ゆっくりと底の無い暗闇に魂を覆い尽くされるような感覚に、佐助はぶるりと身を震わせた。
 春先になると、必ずこの感覚が訪れる。ぶわぶわと優しげで不快な温もりに包まれて、全ての感覚が侵食されていくような――これは、この感覚はまるで死を体内に迎え入れているような、そんな気がしてくるのはきっと、子ぎつねのままの佐助を、死にゆく獣たちが何の感慨も示さぬ目で見続けて来たからだろう。
 虚となっていく、光を失っていく瞳を、佐助は数えきれないほど目にしてきていた。そのたびに、今襲い来るような奇妙な心地よさと怖気を混同させた泥のようなものが、ゆっくりと肌から骨へと染み込んでくるような心地になった。
 春先の、冬の気配を見つけられるような時節になると、その感覚が爆発するようにふくらんで佐助の足を、腕を掴んで意識を飲み込もうとして来る。ところ構わず突然に、佐助の意識を襲ってくる。
 ぶるり、と身を震わせた佐助は怖気の走った両腕をさすった。
「ゆぅきむるぁあぁあぁあああ!」
「ぅおやかたさむわぁあぁあああ!」
 びりびりと、激しく強い声が佐助の耳を打つ。力強い、死の影などかけらも無い雄々しい声に、佐助の唇にくすりと小さな笑みが乗った。わずかに、不快なぬくもりが佐助から遠ざかる。
 でも――。
 和んだ佐助の顔は、すぐに曇った。
 ――俺が幼き頃より、佐助は今の姿であったな。
 佐助が初めて幸村と出会ったのは、彼が弁丸という幼名で呼ばれていた頃だった。
 弁丸は子どもで、雪山で迷っていた。屋敷に案内をしてやれば、佐助を共に来るかと誘った。あの子どもが欲しくて、佐助はうんとうんと頑張って、人の里で生活できるようになった。そうして訪れた先で、弁丸は大人になり、幸村という名前になっていた。
 ぞわ、と子ぎつね佐助の毛が怖気に逆立つ。
 幸村の命の時間は、他の佐助が看取ってきた獣たちと同じで、佐助よりもずっと短い。それが何を意味するのかを、佐助の記憶が望んでもいないのに教えてくる。
「旦那」
 ぽつりとつぶやき膝を抱え、幸村の大好きなしっぽを体に巻き付けて、佐助は硬く目を閉じた。
 幸村も、佐助よりも先に老いて、命を消してしまうのだ。梅の花がほころび、しぼんでしまうのを幸村が眺めているのと同じくらいの時間で、自分は幸村の命が咲いている時間を受け止めて生きなければいけないのだ。
「――やだ」
 呟き、痛いくらいに膝を自分に抱き寄せる。幸村と共にいられない時間など、考えられなかった。想像すらも、したくなかった。じわじわと足元から訪れる暗いぬくもりは、佐助が目にした死にゆく獣らが受け止めた”死”のかけらだ。
 それが、幸村にも訪れる。
「絶対に、やだ」
 拒んだからといって、幸村が佐助と同じ時間を過ごせるようになれるわけではない。なれたとしても、幸村はきっとそれを望まないだろう。敬愛する武田信玄や、佐助の大嫌いな幸村の好敵手、伊達政宗と同じ時間を過ごせなくなることは、きっと幸村にとっては佐助が今感じている辛さを味わうことになる。
 幸村の時間を引き延ばせる方法があったとしても、大好きな彼にこんな感覚を味あわせたくなどない。
「旦那ぁ」
 情けない声を上げ、佐助は鼻の奥がツンとしてくるのを誤魔化すように、膝がしらに目を擦りつけた。
「旦那ぁ」
 泣き声になった佐助だけが、季節が巡ることを恐れていた。
「やだよぅ――俺様、旦那のいない頃に戻るなんて、やだよ…………」
 ぽろぽろと涙がこぼれて膝を濡らす。
「ひとりぼっちは、もう、やだよ――旦那ぁ」
 幸村と共に過ごすようになって、孤独というものを覚えてしまった。戦に幸村が出て行ってしまったときの、あの何とも言えない寒く心もとない感覚が、幸村の命がしぼんでしまった後は、ずっと続くのだ。それを抱えたまま、佐助は生きつづけなくてはいけないのだ。
「やだよ――旦那ぁ…………俺様が、旦那と同じ時間になれたら、いいのに」
 つぶやき、自分の口から洩れた言葉に佐助は驚き顔を上げた。
 俺様が、旦那と同じ時間になれたら――?
 そんなことが、可能なのだろうか。神の眷属である佐助が、人と同じ時間を持つことは、可能なのだろうか。
「俺様、はぐれ者だし――」
 できるかもしれない、と思った。神の眷属であるはずが、一匹だけ知らぬ間にはぐれて山の中にいたのだから。あやかしであることから、はぐれることも出来るのかもしれない。
「佐助! 佐助――共に茶をしよう」
 鍛錬を終えたらしい幸村が、佐助を呼ぶ。涙を拭い立ち上がった佐助は、ぶんとしっぽを振って膨らみ具合を確認する。
「今行くよ!」
 声を返し、子ぎつね佐助は不快で心地よい闇の気配から抜け出すように、全ての闇を払しょくするような笑みを浮かべる幸村の元へ、飛んだ。
「佐助!」
 両腕を広げ、屋根上から飛び降りてくる佐助を幸村が待っている。まっすぐに腕の中に飛び込んだ子ぎつねは、幸村の首に腕を回し頬を摺り寄せ尻尾を振った。
「なんだ。ずいぶんと、機嫌が良いな」
「ん? 久しぶりに、しっぽがふかふかにできたからだよ。旦那、ふかふかの俺様のしっぽと一緒に昼寝をするの、大好きだろ?」
 ふふんと鼻を鳴らして佐助が言えば、幸村が目じりを和らげる。
「佐助の尾と、ではないぞ。佐助と共に昼寝をするのを、好んでおるのだ」
 きょとんとした佐助が、ぱっと頬を赤らめて目を逸らし、ぎゅうっと幸村にしがみつく。
「まったく。旦那は俺様がいないと、駄目なんだから。仕方がねぇよなぁ」
 ぶぶんとご機嫌にしっぽを振り回す佐助の髪に頬を寄せ、幸村が柔らかな声を出す。
「ああ――幼き頃より、佐助には助けられてばかりだ。これからも、よろしくたのむぞ」
「わかってるよ、旦那」
 これからも、という言葉を胸に大切にしまい込んだ子ぎつね佐助は、ほんの少しだけ、憂鬱であたたかな春先の気配を、好きになれそうな気がした。

2013/03/01



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