じりじりと火の焙られているような日差しを避けて、子ぎつね佐助は道を進んでいた。 道、と言っても通常の道では無い。いわゆる獣道と呼ばれるものであったが、人でも獣でも無い神の眷属になりそこなった子ぎつね佐助には、人の行く通常の道と何の変りも無く行けるものであった。「旦那、心配してるかな」 大好きな主―これは人間の、真田幸村と言う名の武将であったが、その主は常に自分の事を気にかけ心配しているような節がある。なので、佐助はいつも幸村に心配を掛けられぬよう、わが身を大事にすることを心掛けていた。 佐助が自分の事を気にかけるのは、すべて幸村の顔を曇らせぬためであった。「旦那の悲しい顔は、すっごく苦しくなるし、見たくないもんな」 神の庭に戻ることも、獣の間で生活をすることも叶わぬ佐助に手を差し伸べ、居ても良い場所を作ってくれたのは、存在をしてもいいのだと示してくれたのは、幼き日の約束を覚え、成長せぬ佐助の姿を嫌悪せずに受け入れてくれた、幸村だった。だから佐助は、その気持ちを、うれしくて、あたたかくて、心の臓がくすぐったくてむずむずする気持ちを、そこから湧き上がる笑みを、幸村に伝えたくてしかたがない。 ざん、と草が音を立てて、佐助は飛びあがり頭上の枝にぶら下がった。音を立てて現れたのは、小ぶりな猪だった。「親離れしたばっかりかな?」 仕留めて土産にするか、このまま知らぬ顔で先に進むか。 迷う佐助の脳裏に、幸村の顔が浮かぶ。目の前の猪がまだ未熟で獣の理を知らぬと知れば、幸村はきっと「やめとこ」 懐の手裏剣に伸ばした手を、佐助は外に出した。くるんと尻尾で反動をつけて枝に乗り、今度は木々の間を飛んで進む。きらりきらりと木の葉の屋根から洩れる光に目を細め、とんとんとん、と警戒に進んだ佐助がふと、見知った気配に足を止めた。「あれ?」 どうして、この気配が傍にいるんだろう。首を傾げ、子ぎつね佐助は見知った気配に向けて、飛んだ。 さらさらと、清い水が流れている。岩に囲まれた川は、いかにも涼やかだと言いたげに、光の粒を受け止め流し、魚の背を閃かせていた。 木の上から川を見下ろした佐助は、くん、と鼻を動かして気配の場所を探る。それは、大きな岩と岩の間にあった。身を放り投げるようにして岩の上に降り立った佐助は、ひょいと逆さに顔を覗かせ、岩の隙間に笑いかけた。「よっ! ひさしぶり」「っ、きゃぁああぁああああ」 物思いにふけっていたのか、まったく佐助の気配に気づかなかったらしい、岩の隙間にいた者が高く響く声をあげた。そんなに驚かれるとは思わなかった佐助は、高い悲鳴に耳を貫かれ、こちらもやはり驚いて、ぽろりと岩の上から落ちた。 ざぱん、と水しぶきが上がる。「はっ!」 冷たいしぶきに冷静さを取り戻した、岩の隙間に小さくなっていた者が這い出て川面を覗き込んだ。「ぷはっ。ひっでぇなぁ、かすが」「なんだ。オマエか」 へらりと佐助が笑えば、プンと顔をそむけたのはイタチのかすがだった。「あーあ、ずぶぬれ」 岩場に上がった佐助が着物を脱いで下帯姿となり、ぎゅうっと水を絞る。「急に声をかけるからだ」「あんなに驚くとは、思わないだろ」 絞り終えた佐助が、ぱんっと着物をはたいて岩に広げる。これほど暑い夏日ならば、すぐに乾くだろう。「軍神のことでも、考えてたんだろ」 自慢のしっぽが濡れてしぼんでしまったことを、気にしながら言えば「あいたっ」 ぽかりと頭を叩かれた。「なにすんのさっ」 振り向いた佐助は、しゅんとうつむき膝を抱えたかすがに、怒気を収めた。「かすが?」「私の事は、ほうっておけ」 そう言われても、寂しげにする彼女を置いておくわけにはいかず、佐助は横に胡坐をかいた。「帰らなくていいのか」 かすがが、膝に顔をうずめて聞いてくる。「かすがは、こんなところにいて、いいのかよ」 ぎゅ、とかすがが膝を抱える腕に、力を込めた。「あの方は、今は私のことなど……」 心細げな声に、ああと佐助は心中でうなずいた。 かすがは、佐助と経緯は違うが、人の傍に自分の居場所を見つけている。イタチのかすがは旋風となり軍神こと上杉謙信に斬りつけようとしたところ、御仏のような穏やかで荘厳な笑みに心を奪われ、その身の刃を軍神の刃として使うことに決めた――らしい。 よくはわからないが、子ぎつね佐助はイタチのかすがも、自分と同じような気持ちを、主と決めた人間に向けているのだろうと思っていた。そして、かすがの主である謙信もまた、幸村が佐助を大切に思ってくれているように、かすがを大切にしていることは、傍目からでも一目瞭然だった。 それなのに、かすがが不安になる理由。 それは、佐助の主である幸村の主、武田信玄しかなかった。 信玄と謙信は、自他ともに認める好敵手で、他の誰に対峙しても見せることなど無いであろう、二人にしか通じぬ笑みを交わしあう。それが、置いてけぼりにされているような気に――本人らはそんな自覚など、全くないのであろうが、させるのだ。 俺様だって、と佐助は瞼を閉じて、大嫌いな伊達政宗の不敵な笑みを思い出す。むかむかと腹の奥が熱くなり、胸が冷たくなった。それは、政宗が幸村の好敵手であり、二人もまた、信玄と謙信のように、二人にしか通じぬ笑みを交わしあうからだ。 けれど、佐助はかすがのように、一人ひっそりと寂しさを堪えるようなことを、したことがない。「かすが」「私に、かまうな」「いつから、ここにいるのさ」「関係ないだろう」「心配させたいの?」「えっ」 顔を上げたかすがに、小首をかしげてみせる。「軍神を、心配させたいんなら、ずっとここにいたらいいんじゃない」「どうして私が、謙信様を心配させたがるんだ」「だって。軍神は、かすがの姿が見えなくなったら、心配するだろ」 任務で遠くへ行かせたのならば、傍にいなくなる。けれど、そうではないのなら「傍にいないことを、不思議に思って心配するだろ」 幸村は、佐助が呼んでも来なければ心配をする。過保護だと思うほど、心配をする。佐助はそのたびに、俺様がいないとだめなんだから、と生意気な口を聞いてみせている。けれどそれは、佐助を不安にさせぬための、素直では無い佐助を甘やかすために、わざと頼ってみせているのだと知っていた。「軍神が、かすがを呼んでたら、どうするのさ」「あの方が、信玄と一緒にいる時に私を呼ぶなど――」「あり得ないって、言いきれんの?」 かすがが、口をつぐんだ。まだ生乾きの着物をつまんで、川面に目を向け魚影がきらめくのに目を細め「寂しがってたなんて、知られたくないだろ。川に魚を取りに行っていましたってことにして、帰ろう」 大好きな、主の所へ。 差しのべた佐助の手に、かすががおずおずと腕を伸ばした。「ああ、かすが。どこにいっていたのですか。わたしのあいらしく、うつくしきつるぎ」「謙信様。あの、謙信様はお酒をお召しになられるかと思い、魚を……」「おお。これはおいしそうな……かすが、わたくしのために、これほどに」「謙信様」 抱き寄せられたイタチのかすがの頬が、赤く染まる。見つめ合う二人に笑みを浮かべ、佐助は二人で捕らえた魚を焙りに、台所へと足を向けた。「佐助、遅かったではないか」 帰って来たと誰かから聞いたらしい幸村が、台所に顔を覗かせ鼻を引くつかせる。「あ。旦那、ただいま」「文を届けるだけというのに、ずいぶんと遅いから心配したぞ――魚?」 近づいた幸村が、佐助の手元を覗き込んで腹を鳴らした。「むっ」「あはは。たっぷり、かすがと獲ってきたからさ。いっぱい食べてよ」「かすが殿と、川魚を獲っていたのか」「大将も軍神も、大酒呑みだからさ。魚、いるかなぁって」「そうか」 ほこらしげに、幸村が佐助の頭を乱暴に撫でた。「ちょっと、旦那。焙ってるんだから、邪魔しないで」 照れくささに邪険にすれば「むう。すまぬ」 ふてくされたように、幸村が謝罪する。くすりと、佐助の心が微笑んだ。「旦那」「ん?」「あとでさ、お部屋で一緒に食べよう」「うむ。夏の星を見ながら、共に食べよう」 大好きな気持ちが、魚を通じて幸村の腹の中に納まりますようにと、佐助はくすくすと笑う胸の心地を伝えるように、魚を焙った。 声に出さない大好きが、きらめく夏の星空のように、旦那の上に降り注いで通じますように。2013/07/26