ふわ、としっぽが海風を受けて膨らんでいる。湖とは全く違う香りに、鼻をひくひくとさせる子ぎつね猿飛佐助は、船の上に居た。「おう、どうでぇ。海の風はよぉ」 背後から声をかけられ、舳に居た佐助は「ま、悪くは無いよね」 くるりと振り向き、しっぽを一振りした。「はっはぁ! そいつぁ良かった」 大柄な男は腰に手を当て、満足そうな顔をした。 彼の名は、長曾我部元親と言う。西海の鬼と称される彼はなるほど、呼ばれるにふさわしい体躯をしていた。けれど ――うちの大将ほどじゃ、無いよね。 主の主、武田信玄と比べて、佐助は思う。彼の主、真田幸村が敬愛してやまない信玄は、子ぎつねである佐助からすれば、大きな岩のようであった。元親も負けてはいないが、体から発するものの大きさが、信玄と比べれば ――まだ、小さい。 のであった。 威圧、というのではない。度量というか、何というか……主の幸村と比べれば、元親は立派だと思う。諸国をめぐり、情勢を窺う折に見てきた領主と比べても、群を抜いていると言っても過言ではない。しかし、なんとはなしに ――大したことない。 と、思いたがっている自分に、佐助は気付いておらず、無意識に、類を見ないほどと称される、名実ともに実力大名の上位に上がる武田信玄と比べていた。 佐助が元親の船の上に居るのは、信玄の使いに来ていたからであった。子ぎつねである佐助は、変化の術が得意で、人の間にもぐりこむことが得意であった。長曾我部領に行くには、警戒心の強い毛利元就の治める領地を通らねばならず、それゆえ、佐助が適任だろうと白羽の矢が当たり、こうして元親の所へ来ることとなった。 ――それにしても。 佐助は思う。四国へ渡る船を捜している最中に、まさか本人に出くわすとは、思いもよらなかった。 佐助が目星をつけた農村で、それとなく四国に渡りたい旨を匂わせていると「ぼうず、おまえは運がいいな」 どちらが正面かもわからないほど日に焼けた、塩焼けで髪色が抜けている男が、真っ白い歯を見せて、佐助の頭に手を乗せた。「これ以上ないってぇぐれぇ、立派な船で、安心して渡れるぜ」 船は、大きいほうが安定する。佐助を見て、海慣れをしていないと判断した男は、小舟では船酔いをしやすくなるからと佐助の身を案じ、なるべく揺れないような船がいいと思ってくれたらしい。 瀬戸内海は陸地に挟まれ、波は比較的穏やかではあるが、それでも慣れぬ者には辛いだろうと、漁船でも大型のものに彼を乗せてやれないかと男が他の者に声をかけたところ、良いものが見つかったらしい。「ありがと」 にこりと子どもらしく笑って見せれば、男は目じりを下げて何度もうなずきながら、佐助を撫でる。佐助としては ――早く、手ぇ離してくんないかな。 なのだが、それを言うわけにもいかない。主の幸村にされることは、面映ゆいとは思うが嫌では無い。けれど、佐助は基本的に、むやみに触れられることは、嫌いであった。「じゃあ、その立派な船に乗せてもらえるよう、頼みに行こうな」 佐助と同じくらいの年ごろの子どもがいるらしい漁師は、まるで佐助が自分の子であるかのような顔をして、翌朝、佐助を伴い隣の村へと連れて行った。 隣、と言っても随分な時間がかかる。船で行けば近いのだろうが、四国まで慣れぬ船で過ごす佐助の身を案じ、それならば徒のほうがまだ良いだろうと判じた男に連れられて「うわ」 隣の村にさしかかる前に、沖に停泊している尋常ならざる大きさの船を見止め、声を上げた。「富岳って、言うんだぞ」 得意げに男が言うのに「ふがく」 反芻し、聞き覚えのある船の名に、まさかそんなと思いつつ昼前に村に入り、一番大きな家へ連れて行かれて「兄貴!」 うれしげに男が呼んだ男は「うそだろぉ」 四国に向かう理由であった、長曾我部元親であった。「アンタが四国に渡りてぇって、ぼうずか」 大きな体を折り曲げて、佐助と同じ目の高さに顔を下した元親は、好奇心旺盛な子どものような目をしていた。「ああ、うん――まぁ」「なんでぇ。歯切れが悪いな。男なら、しゃんと胸を張って言えよ」 もろ手を広げ、抱きとめようとしている。――そんな気配を全身にありありとさせる彼に、佐助は戸惑い、あわてた。元親の人となりがどういうものかは、人づてに聞いている。民の間に入り、上も下も無く接する大柄な男だと。しかし、西海の鬼と称されているのだから、民の間に入るといっても、どこか一線のようなものが敷かれている状態であろうと、思っていた。が――「何の為に、渡りてぇのかは知らないが、安心しな。富岳は、ちょっとやそっとじゃ、御目にかかれねぇぐれぇのシロモンだからよ。大船に乗ったつもりで、何も心配せずに乗り込めば良い」「兄貴。つもり、じゃなく本物の大船ですぜ」「おっと、違ぇねぇな」 豪快に、朗らかに笑いあう姿には身分の隔たりなど一切見受けられず ――ちょっと、旦那みたいかも。 忍を忍として扱わず、人として扱う幸村を思い出して、少しだけ元親に好感を持ち ――懐の深そうなところは認めるけど、まだまだ、大将ほどじゃないよね。 信玄と比べて、圧倒されそうな自分を留めた。「よし、そんなら昼飯を食ったら乗り込むとするか。――ぼうず、何処に行きてぇんだ? 一番近い港に、行かねぇとな」 自然体すぎる彼の申し出に、佐助は見透かされているような戸惑いと、だましているわけでは無いが、それに近い状態であることへの罪悪感が湧き上がり「え、と――」 常に無く落ち着かない様子で、目を逸らした。「ん?」 笑みをたたえたまま首をかしげる元親は、どう見ても似ても似つかぬのに、甲斐に居る幸村を思い起こさせて「アンタに、用があるんだよ」 人目をくぐるように、そっと彼の耳に声を送り込む。 佐助の動きに大きく目を開いた元親は、すぐにその目を細めて「ただのガキじゃ、無ぇようだな」 声を落として、言った。 それに、忍の顔をしてチラリと武田の家紋入りの印籠を見せると「船に乗ったら、船内を案内してやる。それに、着いてこい。途中で俺の部屋に入るから、そこで話を聞こうじゃねぇか」 人を統べる顔になった元親に、佐助はわずかに頷いた。 そうして元親の部屋で信玄の手紙を見せ「それじゃ、俺様はこれで」 港に着けば、すぐに帰ると告げると「急ぎの用でも、あんのか?」「別に、急ぎじゃないけど。返事、大将に届けなきゃなんないから、遊んでらんないし」「そんなら、土産でも持っていけば良い」「土産?」「甲斐は、海が無ぇだろう? 海の幸を、ぞんぶんに持たせてやるからよ。クジラの干し肉なんて、そっちじゃ珍しいんじゃねぇか」 言われて頷く佐助の脳裏に、珍しかな食べ物を目にして大仰すぎるほどに驚き、次いで食しながら猫のように目を細めて美味だと言い、とろけるような笑みを浮かべて佐助にねぎらいの言葉と礼を言う幸村の姿が浮かんだ。 その心地が、思わず顔にでてしまったらしい。「たっぷりの土産を持って帰って、アンタの主に褒められな」「えっ」 佐助の幸せな気分が移ったような態の元親が「甲斐までは送れねぇが、一番近い港までは、連れて行ってやるぜ」 だから、安心しなと力強く告げられて「それじゃ、お言葉に甘えちゃおっかなぁ」 船旅ならば、陸路よりもうんと早く幸村の元へ向かえる。その喜びと、先ほど浮かんだ幸村の笑顔と、元親の気安いを通りこし永年の知己であるかのような扱いに、うっかり油断をしてしまった佐助の耳としっぽが飛び出てしまった。「あっ」「おっ」 あわてて耳を手で抑えるが、もう遅い。幸村の大好きな自慢のしっぽが、うなだれるように垂れてしおれる。「なんだ、狐か」 忍が使い、ということで直接会う事を厭う者の方が多い。ましてや、それが物の怪でもあるとなれば、主への心証を害されることになりかねない。普段は絶対と言っても良いほどにしない失敗に、頭の回転が速い佐助は打開策を見つけようと、目が回るほどの速度で様々な事を思い描く。「心配すんな」 ぽん、と大きな掌が佐助の頭に乗せられた。「子ぎつねのアンタだからこそ、甲斐からこっちまでの長旅を、してこられたんだろう。普通のガキじゃあ、こなせねぇはずだ。その上、あの武田信玄がこの俺への使者にと選んだアンタを、無礼だなんだというような料簡の狭いことは、しねぇよ」 顔を覗き込むようにして、噛んで含めるように言われた。「むしろ、そういうことをしねぇぐれぇ、海のようにでっけぇ男だと思われたってぇ事を、誇りに思うぜ」 ぐりぐりと、乱暴に――優しく佐助の頭を撫でて「山のようにでっかくて、懐が深ぇって言われている相手に、この世で一番、海の似合う男だと認められたんだってな」 やわらかな声音に、安堵以上の温もりを、佐助は胸に浮かべて頷いた。 耳もしっぽも、隠すのには多少なりとも気を張るんだろう、と元親に言われ、それほどでもないけどと答えた佐助に、なら出していろよと告げられて、驚く。「海の男は、そんな些末な事、気になんてしねぇんだよ」 らしい。 そういわれて、頑なに拒絶をしなければならない理由も見つからず、耳としっぽを出したまま甲板に戻ると「なんだ。子ぎつねだったのか」「隠すなんて、しなくても良いんだぜ」 そんな言葉に目を丸くして「しかし、りっぱなしっぽだなぁ」 との声には「俺様自慢の、旦那のお気に入りだからね」 思わず、胸を張って答えてしまっていた。 そうして快適な船の旅を終えた佐助は、たっぷりの土産を運ぶのに、港で馬と荷を運ぶ男まで元親に雇ってもらい「書状の件、了解したって伝えてくれよ」「これだけの土産をもらったら、誠意は十分すぎるくらい、大将に伝わると思うぜ」 じゃあなと手を振り船に戻る元親に、佐助も小さく手を振りかえす。小舟で富岳へ向かい乗り込むと、元親をはじめ船乗りたちが佐助に手を振り、今度は大きく振りかえした。 そうして、珍しかなものや、この地からすれば高価な海産物と共に戻った佐助を信玄も幸村もねぎらい、長旅のつかれを癒すよう、しばしの休みを与えてくれた。 けれど休みを与えられても、佐助は特にしたいこともなく、ただ幸村の傍にいた。 潮風を浴びたしっぽの具合が、いつもと違い、少し重たい気がする。私室で文机に向かう幸村を背に、濡縁に坐して日を浴びながら毛づくろいをしていると「どうした、佐助」 声をかけられた。「何が」 横に坐する主を見ながら言うと「いつもより、入念ではないか」「そっかな」「そうだ」 少し考えるそぶりをして「ちょっと、潮風にあたったから」 主からしっぽを隠すようにした。「ふむ」「うわっ」 小首をかしげた幸村が、ひょいと佐助を膝に乗せ、隠したはずのしっぽを掴んで顔をうずめる。「ちょ、旦那」「ふむ」 匂いを嗅ぎ、納得の声を出した幸村は「磯の香り、とはこのことなのだな」 にこりとして、再び佐助のしっぽに顔を寄せた。「さまざまの海産物がある場に居れば、このような香りがするが――なるほど、海とは、このような香りであったか」 しきりに感心している主の姿に、しっぽの具合が変わるのも、たまには良いかと目を細め、久方ぶりの主の匂いと柔らかな陽気に、佐助は一つ、あくびをもらした。2012/06/20