セミの声が、かしましい。 ぴこり、と耳を立てて夜具から身を起した子ぎつね佐助は「う〜んっ」 伸びをして、しっぽを一振りし「よし」 寝癖のついていないことを確認してから身支度を整え、小屋を飛び出し「旦那ぁ」 主、真田幸村の寝所に顔を出した。 屋根裏からすとんと褥の横に降り立って、覗き込む。幸村はまだ夢の中のようで「旦那、朝だよ――ほら、起きて、旦那!」 ゆさゆさと、肩を掴んで揺すってみれば「ん――ぅう」 ゆっくりと、長い睫毛が持ち上がり、栗色の瞳が佐助を捉え「おはよう、佐助」 寝起きの、少しかすれた声で笑んだ。「おはよ、旦那」 まぶしそうに、くすぐったそうに佐助が返して「ほらほら、起きた起きた」 ぺしぺしと、幸村の胸を叩いた。「うむ」 むくり、と起きた幸村の、長い後ろ髪は乱れもつれて「はい、じっとして」「うむ」 まだ覚醒しきっていない幸村の背後にまわり、懐から櫛を取り出して、丁寧に整える。それが気持ち良いのか、薄眼になり口の端を緩める主の姿に、佐助も嬉しくなってきて「ふっふ〜ん」 鼻歌を歌いながらしっぽを揺らし、彼の髪を結わえた。「はい。出来たよ、旦那」「うむ。すまぬな」 立ち上がる彼の着替えを手伝い、共に部屋を出て井戸端へ向かい、顔を洗う。そうして幸村を部屋に送り返し、二人分の朝餉を取りに台所へ向かうのが、佐助の日課であった。 二人は、いつも向かいあって食べる。 幸村の食事は膳に乗っており、佐助のものは盆に乗っている。けれど内容は同じものであった。これは、幸村が彼の忍である子ぎつねも同じようにせよ、と伝えたもので、はじめ佐助は嫌がっていたのだが、自分を重用してくれる主の心根にうたれ、今ではすっかり、当たり前のように同じものを食すようになっていた。「佐助」「なぁに、旦那」 それでも量は、幸村の方がずっと多い。彼の半分よりも小さな佐助は、食べる量も半分より少なかった。「今日は、暇か」「旦那の用事が、俺様の最優先事項だよ」「そうか」「そ」 少し胸を張って「だって、俺様は、旦那専用の忍だからねッ」 誇らしげな子ぎつねがしっぽで床を叩くのに「そうだな」 幸村は頷いて「では佐助、今日は俺につきあえ」 厳しい顔で言われ、居住まいを正した佐助に「山へ入るぞ」 何か重大な任務であるかのように、伝えた。 食事を終えてすぐに支度を整えて、一人と一匹は屋敷を出立した。幸村は徒歩で向かい、佐助はその少し後ろを付いて行く。幸村の手にはいつもの愛用のものよりも、ずっと簡素な細身の槍があり、腰には皮袋が三つ、下げられていた。中身は、細い縄、傷薬、火打石が、それぞれ入っており、懐には小刀があった。(一体、どんな任務なんだろう) 佐助の腰には、飛びクナイと通常のクナイ、手裏剣などがあり、懐には煙玉が入っていた。 幸村は何も言わずに山道を進んでいたかと思うと、ふいっとけもの道へ足を向けた。 いよいよ、身を隠して任務に着くのかと緊張をしたが、幸村はそのまま猟師も通らぬような道を進み、大きく深い滝壺へと出て、おもむろに着物を脱ぎ出し下帯姿となった。「えっ、えっ?」 何がはじまるのかわからず、左右の耳をくるくると違う方向に動かす佐助に笑みかけ「待っていよ」 言うと、幸村は槍を手に、広い滝壺へ飛び込んだ。「ちょ、旦那――ッ」 佐助の声は、水しぶきの音のかき消されてしまった。 しばらく泳ぎ沈んでいく幸村の姿を見つめてから、辺りを窺い脱ぎ捨てたままの着物に目を止めて「いったい、なんの任務なんだろ」 ぽつりとつぶやきながら、それに手を伸ばしてきちんとたたみ、置いて行かれた皮袋もそろえて大木の、地面よりむき出しになった根の上へ置き(待っていろって、言われたし) ちょこんと座って、幸村が上がってくるのを待った。 しばらくして、水面に水の泡が浮かんで、佐助は耳としっぽを立てて走り寄った。見ていれば、ざばりと幸村が顔を出し「佐助」 ひょい、と何かを投げてよこした。 あわてて手を伸ばして受け取ると、それは立派な川魚で「焙る用意を、しておいてくれ」 言い置き、再び水中へ沈んでいく。それを呆然として見送り、手元の肴に目を落とす。「さすが、旦那」 魚は、エラの脇からひと突きで、仕留められていた。 佐助が木の枝を集めて火を起し、次々に幸村が放ってくる魚のワタを取って焙っていく。香ばしく、魚の油が焼ける香りが立ち上り「泳ぐと、腹が減るな」 水を滴らせた幸村がたき火の傍に寄り、座った。「はい」「ん」 焼けた魚を差し出せば、豪快にかぶりつき「うまい」 あっという間に一匹を平らげて指に着いた油を舐める。「これも、焼けてるよ」「うむ」 手を伸ばし、かじりながら「おまえも、食せ」 言われ、佐助も手を伸ばして「そんじゃ、いただきます」 美味を楽しんだ。「ね、旦那」「ん?」「いったい、何の任務なのさ」 問うてくる佐助に、少し首を傾けた幸村が「俺と、川遊びをするという、任務だ」 いたずらっぽい顔をした。「えっ」「こう暑くては、かなわんだろう」 言いながら手を伸ばし、佐助をひょいと抱き上げて膝に乗せ「山の中ならば涼しいし、こうして触れておっても、問題無いだろう」 ふか、と佐助自慢の、幸村が大好きなしっぽを撫でる。「おまえは、暑いのは苦手だからな」 ふか、ふか、と佐助のしっぽを楽しみながら「俺の体は、人よりも温度が高いらしいし」 少し、非難がましく「触れては、表立ては言わぬが、嫌がるのではないかと思ってな」「――旦那」 意外そうに、佐助の耳が震える。「俺様のしっぽに触っていいのは、旦那だけなんだから、遠慮なんてしなくていいのに」「なれど、そのために不快にさせるは、本意ではない」「だからって、わざわざこんなところにまで来なくても、いいだろ」「それだけが理由ではない」 佐助が、首をかしげた。「先日、里を見て回った折、おまえほどの年の者が、楽しげに川遊びをしておったのだ」 ぽん、と佐助の頭に手を置き「俺の忍として、おまえは年ごろの子どものように、遊ぶことはかなわぬ」 ぐりぐりと撫でて「息抜きをせよと言うても、先の事を思い描き、準備をしておこうなどと言っては、休まぬではないか」 唇を尖らせた幸村が「こうでもせんと、遊びに出ぬだろう」 ため息を漏らした。「まあ、俺が遊びたくなった、というのもあるが」 佐助を脇に下して立ち上がり「どうだ、佐助。ともに泳がぬか」 言えば「ついでに、夕餉のオカズも手に入れば、一石二鳥だしねぇ」 仕方が無いと言いたげに、肩をすくめた佐助の頭を軽く小突いた。「俺と遊ぶは、好まぬか」「主様のご所望とあらば、いくらでも遊んで差し上げますよ」「ぬぅ」 小生意気な口を利く子ぎつねを抱え上げ「えっ、ちょ、何――ちょ、うそ、待って、まっ――ッ!」 水の中に放り投げる。すぐさま自分も飛び込んで「ぷはっ――ちょっと、もう、信じらんない! 俺様の着物、ずぶぬれじゃないさ!」「木の枝に干しておれば、すぐに乾く」 水面に顔を出して抗議する佐助に言い、潜った。「もう――とんでもないお人だよ」 ぷくりと頬を膨らませた佐助は、うれしげであった。 さんざんに川遊びを楽しみ、捕らえた川魚を侍女に預けた二人は、幸村の私室の縁側で、たそがれ時のあかね空を見つめていた。「楽しかったな、佐助」「うん、まぁ――疲れたけどね」「疲れたか」「疲れるよ。旦那の体力に、付いて行かなきゃいけないんだもん」「はは――それは、すまなかったな」 全く悪びれもしない様子の幸村があくびをし「ふぁ」 佐助にもそれがうつり、どちらともなく重たくなった瞼を下し始める。 しばらくの後、夕餉の支度が整ったのに、佐助の姿が現れぬので様子を見に来た侍女が「あら、まぁ」 折り重なるようにして眠る二人の姿に、口に手を当て目を細めた。 その寝顔は、遊び疲れて眠る赤子のように健やかで、侍女は足音を忍ばせ、掛け布を二人の上に被せて、その場を去った。 夏の、降るような星空が見守る中、友のような主従が夢の中でもはしゃぎ、遊んでいる――。2012/07/21