欲しい、と思った。 雪山で迷う人の子を。 泣き出しかけたその子の前へ姿を現し、誘うように尻尾を振れば、子どもは涙を引っ込めて追いかけてきた。それをそのまま誘導し、子どもの屋敷の目の前で姿を見せる。 黄金色の毛並に目を輝かせ、手を伸ばしてくる子どもに鼻先を近づければ太陽の香りがした。撫でてくる手のぬくもりが、心地よいと思った。「共に、くるか?」 とび色の瞳が、佐助の言葉を拾おうと覗き込んでくる。口を開いても、佐助は彼に通じる言葉を持ち合わせていなかった。 すん、と鼻を鳴らせば鼻づらを撫でられた。「おれは、弁丸と言う」 弁丸――。 その言葉を、大切な宝物のように繰り返しながら、心の宝箱に仕舞った。 弁丸――。 きらきらとした響きのあるその音に、佐助は目を細める。 ひとしきり佐助を撫でた弁丸は「いつでも、参れ」 佐助を無理やり連れて行こうとせずに、立ち上がり「案内、いたみいる」 まじめくさった態度で頭を下げて、屋敷へ駆け戻った。 屋敷の中から人が出て、子どもを迎え入れる。 弁丸――。 子ぎつね佐助は、この子どもの事を前から知っていた。 時々、里に出ていたずらをするときに、見かけていた。 きらきらと目を輝かせ、獣のように動き回る人の子ども。 山に入れば目についた動物に声をかけ、他の人の子どもと違い距離を測りながら近づいてくるのに、好感を持った。 大きな口を開けて笑う姿に、ふと寂しさのようなものが見えた気がした。 弁丸――。 佐助は、あの子どもが欲しいと思った。 だから、彼を屋敷に返した。 彼の住まう世界に、自分が出向くために。 子どもが入った屋敷を眺め、佐助はくるりと背を向ける。 飛ぶように駆けて山の奥の奥――山神の居る谷へ向かい、高く飛んでくるりと回った。 谷底の水に、そっと顔を映す。 そこには、狐の姿があった。 まだ、人の姿にはなれない自分に、耳が垂れる。 佐助は、並の狐では無かった。神の眷属のはしくれ――天狐の一族であった。 どういうわけか、気が付けば同族とはぐれ、たった一匹でこの山に住み着いていた。 他の狐が大人になり、子を設け、老いて果てるというのに佐助はいつまでも童のままであった。 そんな佐助を山の獣は気味悪がり、彼の傍には誰も居なくなった。 自分は、何者なのか。 わからずに過ごす中で、山の神の住まう場所に、偶然にたどり着いた。そこで、佐助は自分がどの獣より――人よりもずっと長く生きる、天狐であると知った。 そう知ったからと言って、誰も、佐助に天狐としての技を教えてくれない。 佐助もまた、そんな技を知ろうとは思わなかった。 弁丸を見つけるまでは――。 人は、人の中でしか生きられない。それならば、人の中に入ることのできる自分が、人の中に交じる技を覚えていけばいい。 そうして佐助は山の神に、天狐の技を教えてくれと頼み、修行に明け暮れるようになった。 弁丸――。 彼が、自分に名を与えた。 名を与えると言うことは、それだけの想いを向けてくれたと言う事だ。 弁丸――。 早く、彼の傍に在りたい。早く、彼の笑みを受けたい。早く、早く――。 望む佐助は、水面に舞う光のような弁丸の笑みを思いながら、ひたすら修行にうちこんだ。 そうして、やっと人の姿になることのできた佐助は、喜び勇んで山を駆け下りた。 弁丸――。 雪山で迷う彼を案内してから、人の姿になれるようになるまで一度も彼を見に行かなかった。その時間を修練に使い、人の姿になるどころか、どの獣よりも早く駆け、大きな烏を従え、人の言葉も操れるようになり、十二分に天狐として名乗れるほどになってからと、決めていた。 弁丸――。 佐助は、駆ける。 彼は、忘れていた。 自分の時間と、他の獣の時間の流れは違うということを。 弁丸――。 必死で駆けた佐助は、屋敷の屋根に向けて身を投げ、くるりと回って人の姿となり、屋根の上に落ちた。鼻をひくつかせ、忘れようと思っても忘れられぬ弁丸の香りを探し、屋敷の裏庭に向かって跳躍し、降り立った場所に居た人の姿に目を丸くした。 とび色の瞳。やわらかな栗色の髪。ふっくらとした頬。日向のような香り。 それら全てを持ち合わせている目の前の人間は、佐助の頭よりもずっと、高い位置に目が合った。(あ――) そこで、佐助は思い出す。今までに自分が出会った獣たちが、驚くほどの速さで老いて朽ちる姿を。自分の時間と、他の生き物との時間とは、ずいぶんと流れの速さが違うということを。 佐助は、弁丸とおなじくらいの童姿であった。弁丸は、青年となっていた。 ぶる、と衝撃に身を震わせた拍子に、隠していた耳と尻尾が現れた。それに目を丸くした弁丸だった青年が、少し目を丸くして歩み寄り、目の高さを合わせてくる。「狐の子か」 声音に滲む温もりに、佐助の胸は膨らんだ。残酷な時の流れに涙が出そうになった。 人は、幼いころの事を忘れてしまう。一度だけ、佐助に話しかけてくれた雪山の日のことなど、忘れてしまっているだろう。 人の姿になれば、弁丸の前に出て雪山で案内をした狐は自分だと、告げるつもりでいた。そうして驚く弁丸に、彼が武家の子だと言うことは知っている。忍として自分が傍に仕える、と申し出る予定だった。 弁丸ならば、何処にも居場所のない自分を、受け入れてくれるのだと信じて疑わなかった。自分の居場所になると、思い込んでいた。 欲しい。 居場所が、欲しかった。 けれど弁丸は大人になってしまった。人の大人は分別というものを身に付け、物の怪などに対して一切信用をおかず、祓おうとしてしまう。佐助の言葉など、信用してはくれないだろう。(どうして――) 自分には、居場所を手に入れることなど、出来ないのだろうか。 そう思った矢先、ぽんと頭に大きな掌が乗った。「え――」「そのような顔を、するな」 ぽん、ぽん、と優しくたたかれ目を瞬かせると「懐かしいな」 弁丸だった青年の口から、驚くような言葉が漏れた。「昔、子どものころに雪山で迷ったことがあった。その時に、ちょうど、このような尻尾に招かれ、無事に帰り着くことが出来たのだ」 懐かしそうに、弁丸だった青年の手が佐助の尾に触れる。「別れ際、その狐がどうしても欲しくなってな。――だが、無理強いをして、山に住まう者を人の中に入れてはならぬと言われておったゆえ、共に来るかと誘った」 覚えている。弁丸だった青年は、あの日の事を覚えていたのだと、足の裏から喜びが立ち上った。 弁丸は、大人になっても弁丸のまま――大人の分別という、佐助からすればよくわからぬもので身を覆い尽くした人間には、なっていなかった!「べん、まる……」 まだ扱いなれていない、ぎこちない人間の音を発すれば「今は、幸村だ。真田源次郎幸村と言う」「ゆきむら……」「そうだ」 力強く頷かれ、佐助の顔に笑みが浮かんだ。「おまえは、あの折の狐の子どもか? 人に化ける技を手に入れ、俺の元へ来てくれたのだろう」 あの折の狐そのものであったが、それを口にするのはなんとはなしに躊躇われ、後半の言葉にだけ頷いた。「そうか、そうか」 うれしげに、幸村が佐助の尻尾を撫でる。「名は、なんという」「佐助」「佐助か。――佐助、俺の傍に、仕えるか」 むろん、そのつもりであったので頷いた。「俺様、忍になるために修行をしてきたんだ」「そうか。俺の忍になるために、技を身に付けたのか」 体中で包みこまれ「ありがとう」 耳元で与えられた言葉に、胸が詰まった。「苦しい」 さして苦しくもなかったくせに、照れくささからそんなことを言えば、幸村が抱きしめていた腕をゆるめて顔を覗き込んでくる。 とび色の瞳が、佐助の言葉を拾おうと覗き込んでくる。 あの時と同じ瞳に、狐の姿では無く、耳が残ってはいるものの、人の姿をした佐助が映っていた。「俺は今、この屋敷を預かる身となっている」 弁丸は、屋形の主となったのか。そう思った佐助は「旦那様?」 人里の事を覚えるために得た知識を探り、商家の長がそう呼ばれていることに至った。「まあ、そのようなものだ。真田家の、旦那だな」 主人、という意味で幸村が言えば「真田の旦那」 佐助が、自分の身に落とし込むように口にした。「佐助。俺の傍で、ぞんぶんに覚えた技を、振るってくれるか」 問われるまでも無い。そのために、自分は修行をしていたのだから。「俺様は、役に立つぜ」「そうか。それは、頼もしいな」 ひょいと抱き上げた幸村は、佐助を伴い私室に入る。そうして傍に来た佐助を小さな弟が出来たように愛で、重用するようになった。 ひとりぼっちだった天狐の佐助は、自分の居場所を手に入れた。2012/09/10