きゅ、と巾着を腰に結わえつけ、よしと頷いた子ぎつね佐助は、大烏を呼んで背に乗った。 目指すは奥州。独眼竜伊達政宗の屋敷である。 大好きな主、真田幸村がわずかな手勢を連れて国境の諍いを治めに出かけ、なかなか帰ってこないことに不安を募らせていた佐助の耳に、幸村が政宗の屋敷で休んでいると言う話が届いたのだ。「俺様のしっぽが無いと、旦那ってば安眠できないんだから」 ふわ、としっぽと揺らして申し分のないふかふか具合を確かめてから、奥州に到着するまで、空の上で更に太陽の温かさを含ませておこうと、旦那にもらった櫛を取り出す。 大烏の背で風を受けつつ毛づくろいをする佐助は、自分のしっぽに顔をうずめた幸村が「この香りと手触りに、何もかもを忘れ、子どものころにもどったような眠りにつける」 と、つぶやいていたことを覚えていた。そうして、それがいつの間にか彼の中で、自分のしっぽが無ければ、幸村は安眠が出来ないということに変化していた。 実際、幸村は子ぎつね佐助を傍に置き眠ると、夢を見ることも無いほどに深く休めるので、間違いでは無いのだが――。「でも、なんで旦那は竜の旦那のとこなんかに、居るんだろ」 国境の諍いが、移動してしまったのだろうか。伊達軍のものたちも、同じように諍いを治めに行き、遭遇してしまったのだろうか。「だとしたら、上杉だって出張っても、おかしくないはずだよなぁ」 首をひねってみるが、そのあたりのことは子ぎつね佐助の思慮の範疇外である。とにかく、一刻でも早く大好きな旦那の傍に行きたかった。「もう、十日も会って無いもんな」 五日もあれば、諍いを治めで帰ってくるだろうと言っていたはずなのに、旦那はなかなか帰ってこない。思うよりも手こずっているのだろうか。もしかして、怪我をしてしまったのだろうか。諍いが終わったけれど、後始末に手間取っているのかもしれない。 子ぎつね佐助の脳裏には、在りうる理由と思いたくない不安の想像とが交互に沸き起こる。(――早く、旦那の笑顔を見たい) 早く、無事を確認したい。 ひとりぼっちで過ごしていた、誰とも時間を共有できなかった頃を思い出し、ぶるりと身を震わせる。(旦那――) 温かな腕で抱きしめられ、自分を対等のように扱い、さまざまな繋がりを与えてくれた人と十日も離れていることは、佐助にとって初めての事だった。 伊達の屋敷の傍にある森の中に、大烏を下す。佐助のことを知っている伊達軍の者たちは、佐助が耳としっぽを出したままでも、大烏に乗っていても、まったく平気のへいちゃらだが、そうでは無い者だっている。大烏をねぎらい、小さな指で印を切り、耳と尻尾を上手く隠した佐助は森から駆け出て、顔をしかめた。 風の中に、血のにおいが混じっている。 それは、もうすでに乾いて落ちた後のものだったが、無数にあるそれは、過敏な佐助の鼻にくっきりとした輪郭を持って届いた。(旦那――) ざわ、と産毛が逆立つ感覚に、隠した耳としっぽが出そうになる。深呼吸をして落ち着こうと思っても、吸いこんだ空気が血なまぐさい。 複数の者が血を浴び、あるいは怪我をしていたのだ。 伊達の屋敷には、幾度か来たことがある。大体の場所は知っていた。(――旦那) 逸る鼓動に促され、子ぎつね佐助は隠した耳としっぽを出して、風になった。 またたくまに伊達の屋敷の塀を飛び越え屋根に落ち、鼻を引くつかせて幸村の匂いを探す。(こっちだ) 血の匂いに交じって届いだ幸村の香りに、ぎゅうっと胸が絞られる。(大丈夫。血止めも化膿止めも、それから、えっと――いろいろ用意してきてる) 腰の巾着を叩いて確認し、屋根瓦を蹴って庭木の上に降り立って、匂いのする部屋へ顔を向ければ幸村と政宗が縁側に座っているのが見えた。(旦那――) 怪我をしている様子は無い。けれど、表情は酷く険しく悲しげで、時折口を開いては政宗に返事をもらうその顔に、佐助は駆け寄ることが出来なくなった。 そっと庭木から下りて、石灯籠の影に隠れて様子を眺め、大きな耳を二人に向ける。「――にござった」「Ah。まぁ、な」 政宗の眉間にしわが寄っている。二人とも、心が沈んでいるらしい。(何か、あったんだ) 怪我もせず、諍いを治めても戻れぬと幸村に思わせた、何かが。(何だろう) それは、幸村が仕える武田信玄に言いづらいことなのだろうか。(俺様に、相談してくれればいいのに) 子ぎつね佐助は、並のきつねではない。神の眷属の一族の、はぐれ者である。幸村に仕えるために修行をくりかえし、忍としての技を身に着け、獣としても動くことが出来る。 誰よりも幸村の役に立てると、自負していた。「このような手のまま、佐助に触れられぬ」 自分の名前が出たことに、ぴるっと佐助の耳が動いた。もっとよく聞こうと、そっと顔を覗かせる。「あのような仕儀になろうとは……」 くやしげに歯を食いしばり、拳を握って額を寄せる幸村の姿は痛々しく、すぐさま駆け寄り彼の大好きなふかふかのしっぽで癒してあげたい。 けれど、それでは幸村が戻ってこなかった理由を聞くことはできないと、佐助はぐっと我慢した。「I was more than somewhat displeased.……だがな、ここだけじゃ無ぇ。こんなことは、まだいくらでも起こる」「わかってはおり申す。なれど、あのような子どもまで……」 泣き出しそうに不安に揺れた瞳を、幸村が政宗に向けた。それを受けとめた政宗の目の光が、強くなる。「アンタは、見た目にとらわれすぎだ。確かに、ガキも居た。けどな、武器を手に取り向かって来たって時点で、討伐対象になっちまってんだ」「佐助ほどの大きさでしかござらぬ者も……」「だから、何だってんだ。アンタは初陣を、幾つの時にすませた――? 幾つのころから、初陣を待ちわびた」「あれは、武家ではござらぬ」「戦だって、農民が足軽やってたりすることぐれぇ、わかってんだろ」「…………」「なあ、真田幸村。アンタ……」 言いかけた政宗が、ふと石灯籠に目を止めた。はっとして、子ぎつね佐助は乗り出していた身を隠す。(見つかった――?) どきどきと胸を抑える佐助のしっぽが、ふかふかすぎて石灯籠の横から見えてしまっている。口元をほころばせた政宗が、立ちあがった。「ま、その甘さがあるからこそ、出来ることも慕ってくる者もいるんだろうがな」 ゆっくりと、政宗が石灯籠に近づいてくる。(どうしよう、どうしよう) ばれてしまっているのかもしれない。そう思えば思うほど、近づいてくる足音に心臓が早鐘のように鳴り響く。何事も無く、いったん別の場所へ見つからぬよう移動して、何食わぬ顔で出直せばいいものを、今の佐助は動揺のあまりに出来なくなっていた。(旦那の、あんな苦しそうな顔――) 見たことが無く、自分の名前が出てきたことに、思考が乱れていた。「何を気にしているのかはわからねぇが、アンタが思うよりも受け止めてくれるんじゃねぇかと、俺は思うんだがな」 え、と顔を上げた幸村に向けて、政宗が何か大きなものを投げる。手を伸ばして受け止めたそれが佐助と知り、幸村が目を丸くした。 襟首を掴まれ、投げられた佐助もこぼれそうに目を見開き、幸村を見つめる。「アンタが帰ってこないもんで、心配をして探しに来たんだろうぜ。――きっちり話をして、安心させてやんな」 声を明るくした政宗が、幸村の傍に戻って佐助の顔を覗き込む。「並のガキじゃ無ぇんだし、これからアンタの傍に忍として置くんなら、コイツもそれ相応の覚悟を持たせておかなきゃならねぇだろう」 じゃあな、と佐助の頭を軽くたたき、その手で幸村の肩を叩くと「何か、旨い茶菓子でも作ってきてやるよ」 背中越しに声をかけて、政宗が去って行った。 しばらくそれを見送って、姿が見えなくなった後も呆然としている幸村の顔を、そっと窺う。「旦那――?」 おそるおそる声をかけ、しっぽを差し出せば幸村が破顔した。「佐助」 ぎゅう、と抱きしめられたのに、佐助の不安はぬぐえない。耳の傍でこぼれた幸村のため息が、彼が遠くに行ってしまう合図に――佐助から離れてしまいそうに聞こえた。「旦那」 もう一度呼べば、泣き出しそうな目をして微笑む幸村が大好きなしっぽを撫ではじめる。幸村を慰めたくて、もふっとしっぽで顔を撫でれば、幸村がそれに顔をうずめた。「――佐助」「なあに、旦那」 佐助の心は不安に冷えたまま、幸村の言葉を待っている。「沢山の血が、流れた」「――うん」 幸村の体から、うっすらと――人では気付けぬほどわずかな、誰かの血の匂いがしていた。「相手は、武士では無かった」「……うん」 今回の諍いは、一揆だと聞いている。それがどのようなものかくらい、佐助は知っていた。「女も、子どもも武器を持ち、勇ましい声を上げて向かって来た」 幸村の役に立つため、人の世界を知るために修行をしていた中で、一揆というものを見たことがある。老若男女とわず、農耕具を武器に叫ぶ様相は、戦場よりも恐ろしいと感じた。「旦那」 そっと小さな手を伸ばし、しっぽに顔をうずめて苦しげな息を吐く幸村の頬を包む。「泣いても、いいよ?」 弁丸と呼ばれていたころのまま、感受性の強いままに育った幸村が、かつて佐助が見たことのある一揆を目の当たりにし、立ち向かい、槍を振るった。 それはきっと、体を刻まれるよりもずっと、痛くて苦しいことに違いない。「――佐助と、同じほどの子どもも、おった」「うん」 生きている時間は、幸村よりもずっと長いはずの佐助は、初めて幸村と――弁丸と出会ったころのまま変わらない。「旦那」 頬に添えていた手を首にまわし、ぎゅっと頭を抱きしめると、声を殺して幸村が泣きはじめる。 しっぽが涙でぐしゃぐしゃにされても、幸村が自分に弱さを見せてくれたことが、佐助には嬉しかった。 幸村が泣きやむころに、政宗は茶と茶請を持って戻って来た。泣いた顔をごまかすために立ちあがった幸村が、少し離れた場所に顔を洗いに行ったのを見送る佐助の横に政宗が座り、手ぬぐいを差し出してくる。「ありがと」 受け取ろうとした佐助の手を交わし、手ぬぐいを両手に持った政宗は、乱暴に佐助の尻尾を拭き始めた。「わ、ちょっと!」 飛びのこうとした佐助の腰を掴み膝に乗せて抱え抑え、わしわしと容赦なく掻き乱すようにしっぽを拭かれ、噛みつこうとした矢先に声が落ちた。「アイツは、甘ぇ」 牙をむいて開けた口を、ぴたりと止めて見上げる。「その甘さが、命取りになることもある」 暗く深い目をした政宗に、佐助は耳を伏せた。「アンタは、アイツよりもずっと長く生きるんだろう」 それは、問いというよりも確信のように聞こえた。「アイツよりもずっと、いろんなモンを見てきたはずだ」 それが何を指すのかは、政宗の表情から伝わってくる。「……まあね」 目を逸らし、無機質に応えた佐助を抱き上げ、横に座らせた政宗が空の向こうに目を向けて、ぽんと佐助の頭に手を置いた。「アイツは、アンタを見た目どおりのガキだと思ってやがる。実際、アンタの仲間からすりゃあ、アンタはガキなんだろうけどな…………。アイツは、何十年か後になんなきゃ、わかんねぇぐれぇに鈍い」 それは、佐助も同感だった。けれど、頷くのはなんとなく癪に障り、ただ静かに耳を傾ける。「真田幸村を打ち取るのは、この俺だ――だから、それまでにアイツが下手な甘さでしくじることが無ぇように、アンタがしっかりしなきゃなんねぇ」 それと気づかれぬように、しっかりと。「竜の旦那に、言われるまでも無いよ」 唇を尖らせると、そうかとこだわりの無い笑みを向けられた。「俺様は、旦那の一番傍にいる、忍なんだから」 頭に乗ったままの手を払いのければ、違いないと政宗が呟く。 わずかな足音に、佐助の耳が動いた。耳の向いたほうに政宗が顔を向ければ、顔を洗った幸村が戻ってくるのが見えた。「甘党の甘ちゃんと、のんびり茶でもしてから帰んな」 政宗の言葉を耳に受けながら、子ぎつね佐助は幸村の涙でしおしおになったしっぽを、これ以上ないほどふかふかに仕上げ、今宵は温かくて優しい夢を幸村に見てもらおうと、決めた。2012/10/01