きらきらと、雪が日の光を反射して輝いている。 真っ白なそれに、点々と小さな穴が規則正しく並んでいる。 それを木の上から見つめる目があった。 雪の積もった枝を、雪を落とさないように気をつけながら移動する小さな影は、音を立てずに進んでいる。そうして雪上の小さな穴をたどりつづけていると、真っ白な雪の塊のような獣が――ウサギが立ち止まり、周囲を見回しながら鼻をひく付かせているところに行き着いた。 ウサギは耳を立て周囲を警戒し終えると、雪の上を跳ね出した。 ウサギの進んだ後に、あの小さな穴が出来ていく。 ウサギはまっすぐに雪を駆けて木の間を抜け、森に入り低い草の間に実を滑らそうとして「キュウッ――」 短く食道を震わせ、動かなくなった。 ゆっくりと、ウサギの体から赤いものがあふれ出て、雪の上に模様を描きながら湯気を発し、雪を溶かしていく。そこに、さくりと軽い音をさせて、ウサギの後を追っていたものが降り立った。 ふわりとしたふさふさのしっぽをひと振りさせ、大きな耳を得意げに震わせたのは、子ぎつね佐助であった。 一撃で鉄のつぶてを命中させ、ウサギをしとめた佐助は腰につけている皮袋にウサギを入れて、にっこりとする。「旦那、ウサギ汁を作ったら喜んでくれるよね」 ふふっとくすぐったそうに笑って、佐助は木の上に戻り、彼の大好きな旦那――真田幸村のもとへと帰っていった。 子ぎつね佐助は、妖狐である。 神の御使いであるはずの佐助は、どういうわけかひとりぼっちで山に残されていた。 自分が何者なのかわからず、ただ他の獣とは違うという事だけを認識し、孤独という言葉すら使う必要が無いほどにひとりであった佐助に、寂しいという気持ちを教えたのは、幼い頃の幸村であった。 佐助は人の里で役に立ちたいと望み、修練を積み、出会ったころは子どもであった幸村が大人となってから再会し、彼の忍として働いている。「旦那っ」 ひょいと佐助が飛び降りたのは、もうもうと湯気の立つ場所であった。ごろごろとした岩の上に降りると、湯気の中から声がした。「おお、佐助か。何処に行っていた」「へへ。夕食は、ご馳走だぜ、旦那。美味しそうなウサギをしとめたから、とびっきり美味しいウサギ汁を、作ってあげるからね」 早く幸村に見せたいと飛んできた佐助の心根に気付いたのか、ざばりと水の動く音をさせて近づいてきた幸村は、裸身のまま佐助の前に立ち、佐助が自慢げに胸を反らすのに目を細めて頭を撫でた。「それは、ご苦労だったな佐助」「へっへぇ。それじゃ、俺様さっそく汁の用意をしてくるね」 くるりと振り向き去ろうとした佐助の腰に、ひょいと幸村は腕を回して抱き上げる。「まぁ待て佐助。まだ夕餉には時間がある。共に、湯に浸かって体を癒そう」 にこりとした幸村に、佐助は眉間にしわを寄せた。 幸村と共にいることは、好きだ。ほわりと心が温かくなる。幸村のこの顔も、大好きだ。体中がゆらゆらと心地よく眠りに入る前のように、柔らかなものに包まれたような心地になる。けれど、佐助は濡れることが嫌いだった。「いいよ。旦那だけ、ゆっくりと湯に浸かってあったまってなよ」「何故だ、佐助。心地よいぞ。おまえは寒いのが苦手だろう。体の芯まで、温まるぞ」「いいってば」「何故だ」「しっぽが、しぼんじまうだろう? 旦那の大好きなふかふかじゃなくなっちまう」「かまわぬ。乾けば、またふかふかになろう」「それにほら、獣と一緒に入ったら、毛が抜けて大変なことになったって、誰かが言っていたじゃない」 数日前に、犬と共に風呂に入ろうとしたら、抜け毛が湯殿に浮かび、湯から上がれば毛だらけになってしまったと、侍溜りで猟犬を風呂に入れた話をしているのを、幸村も聞いていた。「かまわぬ。これほど広い温泉ならば、多少佐助の毛がぬけても、問題は無いだろう。それに、佐助はただの獣では無いしな」「いやでもほら、えっと……ほら、ね? 忍と一緒に入るっていうのは、まずいんじゃないの」「それならば、共に褥に入ることも、まずいのではないか」「うっ……」 佐助は、ふかふかの尻尾を幸村が気に入っていて、だから幸村が自分と一緒に眠りたがるのだと口にしていたが、実際は自分が夜中に一人であることを思い出すのが嫌で――幸村の元へ来るまでに幾度も経験をした、自分を置いて他の獣たちが先に逝くことの、薄ら寒く暗いあの感じを思い出すのが嫌で、幸村と共に眠っていた。それを引き合いに出されてしまうと、それも止めるからなどとは言えなくなる。 口を噤んでしまった佐助に、勝ち誇った顔をした幸村が佐助をおろした。「脱衣所で、脱いで来い佐助。背を、磨いてやろう」 しゅん、と耳と尻尾をうなだれさせた佐助が、とぼとぼと観念したように脱衣所に向かう。それを満足そうに見送る幸村の視線を恨めしく思いながら、佐助はきっちりと着物を畳み、大切にしとめたウサギを着物の下に隠してから、浴室に戻った。「旦那」「おお、佐助。来い」 いつもなら、来いと言われると嬉しくて、ぴんと尻尾が立って我慢をしようと思っても揺れてしまうのに、今は揺れるには揺れるが、元気が無い。 とぼとぼと近寄り、岩に座って足先だけを湯につける。「どうした、佐助」 湯気の奥から声が聞こえる。幸村は、湯船の真ん中らへんにいるらしい。「俺様、足湯にしとく」 ざぶ、と湯が揺れて佐助の尻尾が緊張にぴしりと伸びて張り詰めた。「そう言うな、佐助」 ざぶざぶと、幸村が近づいてくる。逃げようかどうしようかと迷っている間に、幸村は佐助のそばに来て両手で佐助を抱えると、そのままざぶざぶと湯船の真ん中に来て、ゆっくりと膝を折った。 ぴゃっと耳と尻尾を強張らせた佐助に苦笑しながら、幸村はゆっくりと自分とともに佐助を湯に浸ける。ぶるぶると震えていた佐助は、肩まで浸かるとホウッと心地よさそうな息を吐き出した。「ほら。心地よいであろう」 ぷうっと少し拗ねたように唇を尖らせて、佐助は顔を背ける。「まぁね」 憮然とした佐助に、ふっと甘やかすような息を吐き出し、幸村は肩までしっかりと湯に沈み膝の上に佐助を座らせた。「良い、心地だなぁ。佐助」 心底からの幸村の声に、佐助はしっぽが濡れてしぼんでしまったことも、まあ良いかと思った。 大好きな旦那が、気持ちよさそうにしている。それの供に自分を選んでくれているんだという事が、自慢のしっぽがしぼんでしまったことなんか、どうでもよくさせてくれた。「旦那は、温泉が大好きだよね」「ん? うむ。体の芯から温まるし、疲れも湯の中に溶けて消えてしまう心地がするのでな」「ふうん?」 どういう感覚なのか佐助にはさっぱりわからなかったが、ぽかぽかと温かくなって、いっぱい頑張った後の疲れも吹き飛ぶ感覚は、知っている。(旦那にとって温泉は、俺様が旦那にねぎらわれるときの心地みたいなものなんだな) それなら、幸村が温泉を大好きなのにも頷ける。(旦那はきっと、それを俺様にも分けたいと思ったんだ) そう思うと、佐助はなんだか嬉しくなった。ぴるっと耳を震わせた佐助に、幸村が問うように首をかしげる。「なんでもないよ」 そう言っても、幸村は佐助の機嫌が良いことに気が付いた。気が付いたが、なぜ佐助の機嫌がよくなったのかは、わからなかった。わからなかったが、きっと自分と同じように、体の芯まで温まる心地よさに機嫌がよくなったのだろうと判じた。幸村は、佐助が暖かい場所を好むことを知っていたから、濡れることが嫌いなことも知っていながら、温泉に半ば強引に誘ったのだから。「心地よいだろう。佐助」「うん。あったかいねぇ、旦那ぁ」 ぽかぽかと体の芯まで温まり、すっかり意識を解した二人は、ふやけた意識でうっとりとした息を吐いた。そこで、ぐうっと幸村の腹の虫が鳴いた。「ぬう」「あはは。旦那、のぼせる前に上がろうよ。俺様、すぐにウサギ汁を作るからさ。いっぱい食べて、お腹の中からあったまろ」「うむ。そうだな」 先に佐助が立ちあがり、幸村の膝から降りると幸村も立ち上がる。二人してざぶざぶと湯を蹴りながら上がり、体を拭って着物を着た。「あーあ。尻尾、こんなにしぼんで情けないなぁ」 ぶぶんと振って丁寧に手ぬぐいでふき取ったのに、しっぽはまだ少ししぼんでいる。「だが、ほかほかだな」 幸村がしっぽを撫でた。しっかりと芯から温まった肌は、ほんのりと湯気をたてている。「温泉も、悪くは無いだろう」「外に出ても寒くなくなったから、悪くは無いかな」 素直に良いと言わない佐助に抱きしめるような苦笑を浮かべ、幸村は待たせていた馬の首を撫でた。「湯冷めをせぬうちに、屋敷に戻って佐助のウサギ汁で腹を温めねばな」「温泉なんかに負けないくらい、ほっかほかになるウサギ汁を作るからね、旦那」「うむ。期待をしているぞ、佐助」「まかせといてよ」 ひょいと幸村が佐助を抱き上げ、共に馬に乗る。「佐助を懐に入れておると、温かくて良いな」 寒いのは嫌いだけれど、雪に閉ざされている間は戦が無いし、こうして幸村と身を添わせていられる回数が増えるので、嫌いな冬が好きになれそうな気がすると、佐助は思いながら馬の歩みと胸いっぱいを安堵させる幸村の匂いに包まれて、うつらうつらとし始める。「――佐助?」 ふと声をかけてみれば、すっかり寝入ってしまったらしい子ぎつねの耳が、ぴるっと震えた。「ふふっ」 佐助の髪をひとなでして、幸村は手綱を引いて馬の足を緩め、佐助の眠りを邪魔しないように馬足を忍ばせながら屋敷へ戻った。2013/01/25