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モノの価値   ぷかりと人が乗れそうな大きさの桶が海に浮いている。海から生えている岩肌がむき出しになった島々が松などを申し訳程度に飾り、時折海鳥が羽を安めに舞い降りていた。
 海風に髪を、袖を揺らしながら毛利元就は海面を眺めていた。透明度の高い海は、浅いと錯覚させて生き物を招き入れようと底を見せてくる。キラリと鱗を光らせる魚や貝が、命の豊かなことを示していた。
 ぽかりと、浮かんでいた桶の横に黒いものが浮かぶ。ニュッと海面から伸びたものが桶の中に伸び、すぐに沈んで見えなくなった。
「なにしょおるでぇ」
 甲高い声に元就が振り向くと、塩に焼けた肌の子どもが網を抱えて立っていた。すっかり色の褪せた着物は体には小さく、ひょろりとした手足が見えている。長めの髪を紐で無造作に束ねていた。
「あんまり見かけねぇ顔だが、ええもん着て、どっかのお偉いさんだらぁ。どっかに行く途中だか」
 表情なく子どもを眺め、元就は質問の答えとは違う言葉を発した。
「その網を、どうするのだ」
 きょと、としてから子どもは網を広げてみせる。
「こいつぁ朝から、でぇれぇ働いたけぇ、休ませてやらにゃいけんのんじゃ」
 ニカリと笑った口から、一本抜けた前歯が見えた。
「網を、休ませるか」
「したら、長く働けるけぇな」
 元就の前の木と木の間に網をかけて広げながら、子どもが言う。
「人も道具も、働くときは働いて、休むときは休まにゃいけんて、かぁちゃんが言いよる」
 くるりと振り向いた子どもの顔は、少しだけ曇っていた。
「でなきゃ、とうちゃんみたいに壊れてしまうんじゃ」
 元就の眉が、気付かぬ程度にしかめられる。
「貴様の父親は、壊れたのか」
 きゅっと唇を引き結び、こくりと子どもが頷く。
「戦行って、帰ってきたら海に出たんじゃ。ほしたらまた戦じゃ言うて出てってしもうて、それぎりじゃ」
 元就が首をかしげ、さらりと髪が流れる。
「帰っておらぬのか。それなのに、何故壊れたとわかる」
 少し躊躇ってから、子どもが言った。
「一緒に出た人が、言ってたんじゃ。突然苦しがって倒れたんは、よう働きすぎたけぇじゃと、言ってたんじゃ。ほいで、髪を持ってきてくれたんよ」
 元就は目を細め、子どもを見つめる。子どもは僅かな苦みを滲ませてはいるが、悲壮感は持っていない。
「悲しいか」
「わからん。もう会えんと思うたら、悲しゅうなる。でも、まだ会える気もしとるけん、わからん」
 細く短く息を吐き出し、元就は海に浮かぶ桶に目を向ける。黒いものが横にあり、それが桶を浜へ導いていた。
「――――休ませていたら、道具は長く持つか」
 浜へ近づく影が、人だとわかるくらいの距離に来る。
「なんでも、そうじゃ。網も桶も使うたら乾して、休ませる。ほいだら、一分の網じゃって十両ぐれぇの働きをするんじゃ。休ませなんだら、半分も働かんと壊れたりするけん、道具にあった休ませ方をしちょるんじゃ」
 ふむ、と興味深そうに顎に手をやる元就の目に、海から近づいてくる者が女だと認識できるくらいの距離に映る。桶の中は何やら沢山のものが入っているらしいことがわかった。
「あの桶いっぱいのものは、どのくらいになる」
 子どもが振り向き、女に向かって両手を大きく降る。女が気付き、片手を振り返してきた。
「買うてくれる人にもよるし、わしらが食うぶんもあるけん、きっちりじゃあねぇけんど、全部売って上手くいきゃあ一分銀(1000文)くらいじゃ」
「では、あの桶はいかほどで、どのくらい使っている」
「桶は、いくらじゃったか。わしが、こぉめぇ(小さい)頃から使うとるから、覚えとらんけど二分(一両の半分)くれぇだらぁか」
「――――貴様等からすれば、ずいぶんと大金なのではないか」
「食うためにゃ仕方ねぇけん、ちぃとずつ貯めて買うたんじゃろ。網も桶も無いんじゃ、漁はでけん。じゃから大事にして使うんじゃ」
 元就は桶を見た。女はもう浜に上がっている。桶を頭に乗せて、岩場を登っていた。一人で一日にどのくらいを取るのかはわからないが、あれだけならば村で分ければ売るものは微々たる量になるだろう。もちろん、他に漁をしている者がいることを考慮しても、だ。それを売り、生活に必要なものを揃えるために買い物をすれば、残る額は塵ほどしかないだろう。それを貯めて買った道具は大切にしてしかるべきで、またそれが命を繋ぐ糧となるのであれば尚更、気を遣って扱う。
「ふむ。良いことを教わったやもしれんな」
 ほんのりと薄い唇に笑みを乗せて、元就は海を見つめる。そこには、キラキラと日輪の欠けらがちりばめられていた。

 自室に籠もり、斥候からの報告書に目を通す元就の下へ、男が現れた。わずかに目元に隈ができており、目は充血している。ちらりと横目で一瞥をし、元就は目を報告書に戻した。
「――――――――成ったか」
 呟いた元就の声に、言葉を発することなく平伏したままの男がビクリと体を強ばらせる。
「もっ、申し訳ございません」
 床に額を擦り付けて謝る男の顔は、恐怖に凍り付いていた。一月前より元就から賜った下知を、未だ遂行出来ていないからだ。元就から与えられた期限はとっくに過ぎていた。
「こう時間がかかるとは、我が計略に狂いでもあったか」
 淡々とした声に、男はますます身を小さくする。
「まあ、良い――――今日はもう休むが良い」
 ふうと息を吐いて元就が言った言葉に、サッと顔色を変えた男は縋るような目で顔を上げた。
「も……元就様、それは、それは私に暇を取れと――――」
 明らかに声が震えていた。
「そのような顔では、ろくに思考も定まらぬ。休養を取り、成してみせよ」
 つまらなそうに、顔も向けずに言う元就を、信じられないものを見るような顔で男は凝視した。
「期限までに成らぬ場合も想定し、手は打ってある。――――貴様が適任だと我が思うたこと、裏切るでないぞ」
「はっ……ははぁっ」
 深々と頭を下げられ、うるさそうに元就は下がるようにと手を降った。男は顔を上げずにズリズリと下がり、そっと襖を閉じて気配を遠ざけた。
「捨てる駒とて、長持ちをするのであれば、それはそれで使う幅も広がろうというものよ」
 一人ごち、元就は脳裏にある男の姿を浮かべる。部下を家族のように扱う男――――
「貴様のような駒の使い方もまた、あり得るやもしれんな」
 呟く元就の唇に、さえざえとした笑みが浮かんでいた。

               -END-

※物価は、適当です。江戸後期の物価「鰯10尾36文・足袋一足180文」という情報をもとに、勝手に値段をつけました。
ちなみに、一両=4000文なのだそうです。

2010/02/15


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