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東風吹かば  身分低き武家の形に身をやつした毛利元就の身は、防府天満宮にあった。
 ふわりとした春先の陽光が梅の香を思い出させ、一人静かにこの地へ足を向かわせた。
 境内には菅原道真が幼少より愛したという梅が、彼の全盛期を誇るように咲いている。
「美しや 紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある」
 幼い道真が、無邪気に詠んだと思しき歌を口にして、元就は唇をほころばせた。
 なるほど身につけたくなる気持ちも、わからぬでは無い。一つなりと花を手にし、髪につける幼子はさぞ愛らしいだろう。
「こっち、こっち」
 元就のわきをすり抜けた子どもが、大きな声で手招いている。その髪に、梅を模った飾りを見止めた。
「そう急がなくとも、梅は逃げぬぞ」
 そう答えた声に聞き覚えがあり振り向くと、軍議で見た顔があった。向こうも元就に気付いたらしく、朗らかな気配を一変させ、屹立し頭を下げた。
「これは、このようなところでお会いいたしますとは」
 一瞥をくれ、口を開きかけたところで梅の童女が小走りに戻り、男の足元にしがみついた。じっと、伺うように元就の顔を見上げている。
「ほら、ご挨拶をせぬか」
 背中を押され、おずおずと元就の前に出て、ぺこりと頭を下げたかと思うとすぐに男の背中に隠れてしまう。それでも元就の事は気になるようで、そっと顔を覗かせて見つめてきた。
「これは、とんだご無礼を」
「かまわぬ。警戒心があるということは、良きことよ」
「はぁ」
 ふっ、と笑みを浮かべた元就に虚を突かれた顔をして、父を見上げる幼子の黒髪に梅が揺れる。
「深く学び、見解を深めよ――かの道真のようにな」
 踵を返し、去りゆく元就の背中に男が深々と頭を下げる。
「あのひと、だぁれ」
 鈴の音のような声が、元就の耳に届いた。
「我らの暮らしを守って下さっているお方だ」
 続く言葉に、元就はわずかに目を開いた。
「ふぅん」
 興味を失ったらしい子どもの声に、ふと浮かんだ顔があった。自分とは真逆の統治で人心を掴む、元就からすれば愚かとしか言いようのない男――長曾我部元親。
 あの男であれば、子どもの目線に自分の目の高さを合わせ、頭の一つでも撫でてやるのだろうか。
 さわりと東風が元就の頬を撫で、誘われたように目を向けると、笑みを浮かべて梅を愛で参拝をする人々の姿があった。
 ふくよかな梅の香が春を誘うのか、春が梅の香りに誘われているのか――ここに見える者たちは皆、春に心を委ね、萌える季節をいとおしんでいる。少し先には殺伐とした戦の――命を刈り取り、刈り取られた爪痕が見えるのに、そのようなものは存在していないかのような陽気に、元就の唇に梅香が匂う。
 その唇は、彼を好敵手と勝手に決め込んでいるらしい男のように暖かな言葉を紡ぐことは無い。
 冴え凍る季節を思わせる言の葉のみを紡ぎ、心に寒風を去来させる言葉を選び、最低限ともいえるほどに少ない音は人々の身を凝らせ、縛り、統率をとらせている。
「毛利様」
 ここまで同道してきた者の一人が、遠慮がちに声をかけてきた。境内の外で待たせていたはずの男の顔には、遠慮と義務、警戒と畏怖が浮かんでいた。
 ちら、と太陽の位置を確認する。そろそろ戻らなければ、軍議に間に合わないと声をかけに来たのだろう。元就を恐れるあまり義務を忘れる男も居たが、この駒はその問題は無いらしい。
「戻る」
 ほ、と明らかな安堵を見せた男には、心根を透かさぬように心がけよと言わねばなるまい。が、今はそれを押しとどめ、ゆるゆると流れ参る春の気に免じることとした。
「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
 芳醇な梅香を乗せた唇が、ふわりと左遷された菅原道長が屋敷の梅に向けた歌を、口ずさむ。
 その胸中にあるのは、自分が没した後の民の姿であった。
 東風吹かば 匂ひおこせよ我が民よ 主亡しとて 春な忘れそ
 だからこそ、早春を乗せた唇は冬を紡ぎ続ける。

 防府天満宮―道真が亡くなった翌年の延喜2年(904年)に創建され、「日本最初に創建された天神様」を名乗っている、山口県防府市にある天満宮。

2012/03/07


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