ひそひそと、屋敷の中で囁かれる言葉は、ひそめられているはずなのに、梵天丸の耳には鮮明に届く。それはきっと、自分に早く居なくなれと、神仏も思っているからなのではないかと、梵天丸は思っていた。 でなければ、あれほどに疎んだ目を向けられるはずは無い。 そ、と右目を覆う布に触れてみる。この布の下には、自分が疎まれる要因となったものが、ある。 夢ではないかと思いたいが、かさぶたとなり疼くかゆみが、間違いなくそうであることを、示してきていた。 疱瘡で醜く爛れた右目。美しいものが好きな母は、梵天丸の姿を嫌悪し、厭い、遠ざけた。この年頃の子どもにとっての母の言動は、大人が思う以上に深く強く心に巣食い、作用する。 ――助からねば、良かったのだ。 そう思うことが常となるほどに、大人たちの視線、とりわけ母親からの態度は、梵天丸の心を苛んでいた。 食が細くなり、眠りが浅くなり、病にかかっているかのように哀れで儚げな様相を見かね、自刃も厭わぬ覚悟の片倉小十郎の手で、疱瘡により飛び出した右目を切り取られ、父の薦めで虎哉宗乙の元へ教えを請いに行ってはいるが、そのような様態では身につくはずのものも、素通りしてしまう。 ――俺は、鬼の子なのだろうか。 そんなことまで、思うようになっていた。 母は、自分を宿す前に白髪の僧が胎内で休ませて欲しいと言う夢を見たと、そういうウワサを耳にしたことがある。それはまるで、廐戸皇子が生まれたときの逸話のようだと、梵天丸はいずれ素晴らしい男となるだろうと、今となっては嘘のような好意的な眼差しと声音で伝えられていた。 ――僧に化けた、鬼であったのだ。 しだいに、その思考は断定的なものとなり ――俺は、人では無いのだ。 そうまで、思い始めていた。 ふらり、と何の気なしに歩いていた梵天丸の耳に「気分が優れず食も細っていると聞く。そのまま、はかなくなってしまえば」 と聞こえたときに、皆がそう望んでいるのだなと自分の中に落とし込んでしまった梵天丸は、今までならばそのまま部屋に戻るか屋敷の散歩を続行するかなのだが、彼の足は屋敷を出ることを求め、まるで猫の子のようにすとんと縁側から降りてするりと塀を抜け、囲いの外へと出てしまった。 出たは良いが、梵天丸には行く当てが無い。虎哉宗乙の元へ行こうか、とも思ったが、それでは意味が無い。何時もと何も代わり映えが無いと思い至り、それでは自分を厭わない者も居るには居るので、その者たちのところへ行こうか、とも思った。 てくてくと少し進んで、それでも同じことではないかと思い至る。たとえ、哀れに思いかくまわれたとしても、迷惑をかけるだけにしかならないのではないか。自分の目的とは少し、違っているのではないか、と思った。 ――行く先が、無い。 途方にくれながらも、梵天丸の足は屋敷から遠ざかっていく。不思議と、死のう、と思うことは無かった。ただ、誰からも離れ、誰にも迷惑をかけず、自分が居てもいい場所に行こう、とだけ思っていた。 けれど、その場所の見当がつかない。 外をウロウロし続ければ、人目につく。屋敷から、あまり出たことの無い梵天丸のことを知っている者が居るとは思えないが、万が一ということがある。何処に行くとしても、人目を避けて進むほうが良いのではないかと、思いついた。 きょろ、と周囲を見回す。少し茜に染まりかけた空に、日中よりも大きさを増した太陽が、炎のような色で森の中に沈んでいこうとしている。 ――よし。 森の中ならば、人目につくことも無いだろう。誰かに見つかりそうになれば、木の陰に隠れればいい。それに、森ならば水もあるし、食べられる木の実や何かがあるはずだ。これから居場所をもとめるまで、食いつないでいけるだろう。 足の向きを変え、先ほどよりもしっかりとした足取りで森へ向かって進む梵天丸に「梵天丸様」 声をかけてくるものがいて、びくりと身をすくめて立ち止まった。「お一人ですか」 軽く駆けてきたのは、鬱々としている梵天丸の右目を切り落とし、傍に居ると言った片倉小十郎で――野良着姿に籠を背負っているところを見れば、畑からの帰りに偶然出会ってしまったらしいとわかった。 硬直をしている梵天丸の周囲に人影の無いことを見止め、しゃがんで目線を合わせた小十郎は「この小十郎を、迎えにきてくださったのですか」 やわらかく、問いというよりも断定的な口調で笑んだ。「――」 梵天丸は、ぼんやりとその顔を見つめる。「ありがとうございます」 違うといわれる前に、小十郎が梵天丸の手を握った。「帰りましょう。今日は、何時もよりも多く畑に時間を割いてしまったので、お部屋に伺うのが、遅くなりました」 大きく温かな手が、しっかりと梵天丸の小さくやわらかな手をつないでいる。「小十郎」「は」 そっと伺うように呼ぶと、確固たる信念を持ったような声が返ってきた。「小十郎」「はい」 まっすぐに名を呼ぶと、丸みを帯びた返事が来た。「小十郎ッ」「ここに」 少しだけ声を大きくすると、頷きながら言われた。「――小十郎」 ぽつ、と零れた呼び声に、小十郎は再びしゃがみ、まっすぐに梵天丸の目を捉えて、言った。「この小十郎、梵天丸様のお傍に――いえ、梵天丸様の魂と共に、あり続けます」「たま、しい……」 ふわ、とゆるんだ小十郎の目じりとは裏腹に、瞳は鋭く固い切っ先のような意志を梵天丸に突きつける。「この命、梵天丸様と共に」 そ――と、握られた手が小十郎の胸に当てられた。「梵天丸様の居場所が、私の居場所です」 ひゅ、と梵天丸の喉が驚きのあまり、笛のような音を立てた。「俺の居る場所が、小十郎の、居場所」 うわごとのように梵天丸の唇から漏れた言葉に強く頷き、小十郎が立ち上がる。「あまりゆっくりしていては、夕餉に間に合わなくなります」 さぁ、と促され、手をつないだまま二人は歩き出す。 ――俺が、居場所。 そんなふうに、考えたことなど無かった。自分が、誰かの居場所になるなど。 考え込んでいる風の、幼い主の姿を小十郎の瞳が包み込む。「小十郎」「は」「俺の居るところに、必ず、居るのか」「私の命は、梵天丸様のものです」 小十郎の顔を、じっと見つめてくる瞳は真意を確かめているようにも、言葉を租借しているようにもみえて「そうか」 面映そうにした梵天丸の手が、小十郎の手を握り返した。 それから幾年――成長した梵天丸は政宗と名を改め、多くのものを背負いながら、馬に跨り戦国の世を駆け巡る。「小十郎」「は」 その傍らには、右目と称されるほどになった小十郎の姿があった。「ど派手なPartyと、行こうじゃねぇか――遅れんなよ」「承知」 流れに逆らい昇った彼は、玉を手にした竜となった。2012/05/17