虫の知らせ、というものがある。 ざわ、と胸のあたりが蠢くような気配が、虫の這っている様相に似ているからだろうか。 ――なんだ。 心臓にムカデが張り付いたような悪寒がする。眉間にしわを寄せ、野良着の胸元を掴んだ。「片倉様?」 そばにいた農夫に声をかけられ「なんでもない」 笑みを作ってはみたものの、妙な感覚から抜け出すことはできなかった。 それは野良仕事を終えて、政務に入っても消えることが無く「政宗様は」「遠駆けに行かれております」 そう応えられ、正体不明の焦燥が、募った。 ――ただの予感で済めばいいが。 そんな小十郎の望みが、あっけなく裏切られる。「か、片倉様」 さかさかと、顔面蒼白な男が小十郎の自室に飛び込んできた。訪いを告げることもせずに襖を開いた男は、転がるように小十郎の傍に寄り口を耳に寄せて「なん、だと――」 小十郎の目を驚愕に見開かせる報告をした。「早くお耳にと思うたのですが、なにぶん、事が事なだけに公にお伝えすることが叶わず、申し訳ございませぬ」 平伏する男に「いや――その判断は、正しい。…………ひそかに捜索隊を作り、送らねぇとな」 小十郎に届いたのは、山火事があった、という報告だった。――その場に居たはずの政宗の行方が、杳として知れぬ、と。「それを知っている者は、どのくらい居る」「近隣の者たちと、報告に来た者、あとは、拙者くらいかと」「すぐに、報告に来た者と――そうだな、斥候に向いていそうな奴を見繕い、呼んでくれ」「は」「くれぐれも、外部には漏らさないようにしろよ」「承知」 固く唇を引き結んで答えた男は、小十郎が腰を据えていることに安堵をしたらしい。報告に来た折の動揺を幾分か鎮め、辞した。 男の気配が去ってから「ふう――」 息を吐き、片手で顔を覆う。あの胸騒ぎは、これだったのだ。「政宗様」 思わず漏れた自分の声が、いたずらをする前の子どものような顔をして、諌める小十郎の言葉を後目に、思う事をしようとする主の姿を瞼の裏に浮かばせた。「あれほど、お一人で何処かへ行かれなさるなと申し上げたというのに」 届かぬ小言を口にして、悪びれもせずに謝る顔を思い浮かべ「――政宗様」 絞り出すように、名を呼んだ。 乾燥した季節に、山火事はつきものだが――乾いた枝が風に擦れて出火する――まれに、そうではない季節でも起こることがある。天候が悪く、雷が落ち、木が燃える。今日は雨の気配があったので、小十郎は用水路の状態などを確認するために、野良仕事に出ていた。 政宗が居た場所は、ここより先に雷雨に見舞われたのだろうか。 ――そんなことも、確認し忘れているのか、俺は。 山火事の原因を、政宗の安否と共に確認しなければいけない。もし、これが自然的なものでなく、人為的なものであったのなら ぞ―― 小十郎の背が、冷えた。「くそ」 呟いた小十郎の不安を掻きたてるように、雨が屋根を打ち始めた。 政宗捜索隊は、十数名で編成された。 近くの里の者たちには箝口令を敷き――彼らは十分に事態が知られれば近隣諸国の動向がどうなるのか予測が出来る者たちであったから、苦労せずとも率先して行ってくれた。どころか、山火事の後処理をする、という名目で自分たちが行くほうが良いのではという提案まで申し出た。「ありがてぇ」 滲むように村長に告げて頭を下げる小十郎に、穏やかな笑みを浮かべて「政宗様は、わしらの大切な筆頭であると同時に、孫のようでもありますからな」 小十郎の心中をおもんぱかる様に、頷いて見せた。 無言で、小十郎は深く、深く頭を下げた。 まずは、二名の伊達軍の者が里の者を引きつれて山に入ることになった。 表向きは、あくまで山火事の規模と原因を探ること――政宗の捜索、ということは伏せておかなければいけない。「万が一、これが人為的なもので政宗様の身に何がしかの危害を加えていたとすれば」 残った者たちと、村長の家を借りて話し合う。 外が雨音に包まれているのは、話を漏れ聞かれる不安は無いものの、政宗の状態によっては体力を奪うだけの忌まわしいものでしかない。「羽州の狐あたりが耳ざとく聞きつければ、面倒なことになりましょうな」「あの狐めのしわざやもしれませんぞ」「噂のような予測に興じている暇は、無ぇ」 小十郎が調査として滞在できるのは、長くて十日ほどだろう。それ以上この村にとどまり続ければ、何かあったのかと勘繰られる。「早々に、政宗様の無事を確認する」 低く、床を這うような声音に、雷鳴が追随した。「幸い、この雨で山火事はもう消し止まりましょう」 茶を手ずから運んできた村長が、小十郎の前に湯呑を置いた。「焦りは、無用の仕事を増やします」 こわばる空気を解すように、ことさら柔らかく放たれた声へ返事をしようとし、言葉が見つからずに口を閉じた。「お疲れで余計に気が高ぶっておられるのでしょう。一度、お休みになられたほうがよろしいかと」 寝所の用意はできている、との言葉に、場に居合わせた者たちが安堵の気配を漏らした。それに「――明朝に、持ち越す」 深く息を吸い、それを吐き出すと同時に感情を抑えた声で、小十郎が解散を告げた。 村長の手配で、それぞれが宿泊する村人の家へと移動し、小十郎は村長に案内されて、しばらくの間使用する部屋へ入った。「この分ですと、明日には雨があがりますでしょう」「すまねぇな」「お酒を、召されますか」 眠れぬのではないかと、案じているらしい。「いや――気遣いだけ、もらっておく」「それでは、おやすみなさいませ」「ああ――助かる」 たん、と木が打ち合う音がして襖が閉じられる。雨音に包まれた小十郎は、崩れるように用意された褥に横になった。「政宗様――」 雨音が、小十郎を包む。「政宗様」 応える声は、ここには無い。「どうぞ、ご無事で――ッ」 吐血のような声を、雨音がにじませ大地に打ち付けた。 翌朝――昨夜の雷雨が嘘のように晴れ渡っていた。 改めて山火事のあった斜面へ目を向けると、黒々とした空間が地獄の底のように広がっていた。思う以上の規模に、下唇を噛む。捜索の範囲が広い。それなのに、表立った動きが取れないことが口惜しい。「木の根がどうなっているのか、調べなきゃならねぇな」 木の根が土をからめ水を吸うことで、山の表面を固定している。それが失われたことで、雨で緩んだ地盤が土雪崩になる可能性があった。「この分では、生きてはおらんでしょう」 何気なく放たれた村人の声に、それが木の根を示すことだとわかっていたとしても、心臓が軋んだ。 ――政宗様。 祈るように目を閉じ、逸る心を諌めるために深く息を吸い、ゆっくりと瞼を上げる。「自分たちの命が優先だ――それを、忘れて無茶をするんじゃねぇぞ」 小十郎の下知に頭を下げた探索隊が、山へ向かった。「よう、堪えてなさいますな」 村長が、小十郎の横に立つ。「飛び出していきたいのでしょう」 口を皮肉めいて歪ませ「諌める者が、率先して無茶をするわけには、いかねぇからな」 政宗が不在であると、知られるわけにはいかない。「俺が残ることで、政宗様は安心して無茶をなされるんだ」 自らが飛び出したとしても、領民が惑うことなく居られるのは、小十郎が――自分の右目が残って彼らを見ているからだ。そう、口にされたことがあった。 すぐにでも山に入り、政宗の名を呼ばわりながら探したい気持ちは、皮膚の裡で溢れんばかりに猛っている。それを、立場と信頼が押さえつけていた。 奥歯を噛みしめ拳を握り、山に向かう一団に痛みと羨望を交えた目を向ける小十郎を、村長は目を細めて眺めた。 一隊の背が米粒ほどの大きさになって、ようやく小十郎は山に背を向けた。「山雪崩があるかもしれねぇ。村の者たちに、その時に備えておくように、伝えてくれ」 歩き出した小十郎の言葉に、見送りに出ていた村の者たちが頷いて各々の家へ戻る。まずは家族に告げてから、近隣の者たちに言うのだろう。「何処へ、お行きなされる」 村長の問いに「畑の様子を、見ておかねぇとな」 ほ、と村長が小さく声を上げた。「さすがは、片倉様」「――嫌味か」 ひょい、と村長の眉が上がった。「食べることは生きる事――その根本を大切になされていらっしゃる、と思うたまでですが」 ぐ、と息をのみ目を伏せて「……すまねぇ」「苛立ち焦るのも、致し方無いこと…………鬼のようだと言われる片倉様も、人の子ですなぁ」 ほっほと笑われ、自分の意識が思う以上にささくれていることに気付き「感謝する」 薄く笑みを浮かべた小十郎に、村長はただ、ほほ笑んだ。「俺にしか出来ねぇ事があるから、残った。――それを忘れて感情にまかせるわけには、いかねぇ」 自分に言い聞かせるように硬く紡いだ言葉に背を押され、山火事の規模や付随して今後予想される災害、普段の政務もこなすため、両頬を自らの平手で挟むように打ち、気合を入れた。「まずは、畑と家々の状況だ。雷や雨で被害の出たところは、あるか」 それに答えるため、村人は小十郎を先導し、村長も共に村中を半日かけて巡り資料をまとめた。 それが終わるころには、政務の報告や書面が届き、それらをこなしている間に日暮れが近づき、探索隊が帰還する。彼らの報告に眉根を寄せ、地図を広げてそこに書き込みながら、明日の探索の範囲を定め終ったのは、フクロウさえも寝息を立てる時刻だった。 そんな生活が続けば、小十郎が憔悴していくのは当然で「片倉様、少しお休みになられたほうが」 遠慮がちに言われることもあるが、ただ笑みを持って返答をするだけで、小十郎は休もうとはしなかった。「ふう」 ひと段落つき、息を吐いて茶に手を伸ばす。 山火事の日より、六日が経っていた。そろそろ小十郎が戻らなければ、変異ありと周囲に知られてしまう。それは避けなければならない。 政宗が不在であることを伏せておくための何かも用意をしなければ、ふたたび奥州が分裂をすることになりかねない。 ――あと、滞在出来て四日って所だな。 大規模と言えなくもない山火事だが、奥州を統べる者の右目と言われる小十郎が長期にわたって滞在する理由には、ならない。何かがあると勘繰るのが、当然である。 ――猿飛のような奴が、ここに居れば。 時折、そのようなことが浮かぶ。 政宗の好敵手、真田幸村の傍にある忍、猿飛佐助の実力は認めている。自軍の者たちを軽んじているわけではないが、彼の能力が並はずれていることを思えば、求めたくもなる。いっそ、甲斐に使いを送り彼を借り受けてしまおうかとさえ、考えてしまう事もあった。 甲斐の武田信玄も、真田幸村も快く無償で了承をしてくれるだろう。けれど ――そんなことをすれば。 自軍の者たちの自尊心、政宗の面目は傷ついてしまう。政宗がそれで見つかることがあれば、その場は喜びで終わるだろう。けれど、その喜びが落ち着くころに疑念が生まれる。不信による不審が広まれば、小さなヒビは大きな亀裂となり、崩壊を招く。 ――それは、避けなきゃならねぇ。 その意識が、小十郎を葛藤の苦しみへ導いていた。 こめかみに指をあて、解すように動かす。 小十郎は、ろくに眠っていなかった。 目は落ちくぼみ、皆の手前では食事を摂るが、その後に嘔吐をするようになり、頬は削げ影が生まれていた。 ここまで小十郎が憔悴したのは、三日ほど前に政宗が山中に居たことを示すものが、持ち帰られたからだった。 それが発見されるまでは、まだ小十郎は食事を体内におさめることが出来ていた。 だが「片倉様、これ……」 こわごわと差し出された、焦げて曲がり、どす黒い血のようなものが付着した、政宗が首に着けていた防具を見て、小十郎は気が遠のきそうになるのを必死にこらえ「他に、何か見つからなかったか」「いえ、これのみで……」「そうか。なら、明日はそれが見つかった周辺を中心に、探索をするか」 かろうじて伝え、なんとか仮の自室へと戻ってから ――政宗様ッ! くずおれて後、一睡もできず食事も受け付けぬ体になってしまっていた。 手が空けば、考えが悪いほうへと進んでしまう。だから、心配をしてくる面々の気持ちは有りがたいが、休む間は欲しく無かった。「政宗様が不在の理由でも、考えておくとするか」 わざわざ口に出してみてから、瞼を閉じる。裡でのみ思考をめぐらせば、いらぬことを考えてしまう。口に出せば、声に意識が向く。「まったく、困ったお方だ」 ことさら明るめの声を意識して、無理やり唇に笑みを乗せる。 政宗の事だ。こちらがどれほど心配しているのかを察しつつ、悪びれもしない態度で、何事も無かったかのように帰ってくるだろう。 そう、思いたかった。「本当に、困った男だな。彼は」 ふいに聞こえた声に、刀に手が伸びる。「それほど憔悴をしているというのに、いやはや――卿は全く油断がならない男だな」 声が少し震えて聞こえるのは、笑っているからだろう。「――松永、だな」「声を、覚えておいてくれたのかね。光栄だ、と言うべきか」 静かに襖が開き、松永久秀が月の無い夜空を背に、現れた。「なんで、テメェがここに居る」 彼が滑るように室内に入ると、音も無く襖が閉じられた。それに眉根を寄せて「風魔か」「頭の切れは、失ってはいないようだな」 さして感心するふうでもなく、松永がゆったりと小十郎の傍に寄る。「そう、警戒をしないでくれたまえ。まぁ――したくなる気持ちも、わからんではないがね」「何しにきやがった」「まるで手負いの獣だな――竜の宝を、貰い受けにとは思わないのかね」 小十郎の身に、殺気が凝った。「そう、怒ることも無いだろう。――持ち主の居なくなった道具は、次の持ち主を探し求めるものだ」「何が、言いてぇ」「竜を失った宝玉が、人の手に渡る――という昔話は無かったかな」 とぼけたような物言いに、小十郎の苛立ちが募った。それを楽しむように弄るような目で、松永が眺める。「もうそろそろ、覚悟を決めてもいい頃合いだと思うが――諦めたくない、というところか」「――――」「なるほど、美しい――とでも言えば良いのかな。だが、あまり長く続けば、見苦しくなってしまうだろう」 ぽん、と無造作に何かを小十郎に向けて投げる。「潮時だ」「ッ!」 目の前に落ちたそれは「――ッ、ま、政宗様」 半分以上が焼け焦げた、見覚えのありすぎるほどに見てきた、眼帯だった。 震える指を伸ばす小十郎が、それに触れるのをためらう。「偽物ではないと、触れて確かめればいい」 抑揚のない声に押されるまま触れ、もろ――と崩れるのを、花弁のように柔らかく目の前に運んだ。「――――」「間違いはないと、思うがね」 間違いなく、政宗の眼帯だった。「安心したまえ。手厚く葬っておいたよ。敬意を払ってね」 その瞬間、小十郎の理性を繋ぎとめていた千切れかけの縄が、ぶつりと切れた。 ひんやりと湿った空気につつまれた場所に、小十郎は居た。 ただそれだけを待つと気が遠くなりそうなほどの間隔をあけて、定期的に水がぽたりと落ちてくる。遠くに聞こえるのは、滝の音。そして、甘いような酸っぱいような、どのようにも取れる匂いの香が、焚かれている。「食事の時間だ」 コッ――。 固い音が響き渡り、わん――と声が響くここは、岩の虚であった。 一点を向いていた小十郎の顔が、軋む音をさせるほど緩慢に、足音の方へ動いた。「まったく――人とはなんと脆いものなのだろうな」 松永が近づくのを、焦点の合わない目で映す小十郎に感情は見えない。坐している彼の横にしゃがみ、竹筒を取り出した松永は彼の髪を掴んで顔を上げさせ、自然と開いた口に冷めた葛湯を流し込んだ。「ん――」 飲み込むのを待ち、再び流し込む。生命維持の本能だけで摂取する小十郎がこぼさぬ速度で少量ずつ与え、竹筒が空になると髪を掴んでいる手を離した。「そろそろ、卿の能力を遣わせてもらいたいんだが」 離された小十郎は、ゆっくりと洞窟の壁に積み上げられた土の山に向かい、いとおしそうに手を伸ばして触れる。「やれやれ」 呆れたように、呟いた。「そうやっていても、独眼竜は生き返らんよ」 ぴく、と小十郎が反応した。「死んだ者は、蘇らない。人も、物も、いつかは壊れる。だからこそ、美しい。そうは思わないかね」 小十郎は、動かない。「彼は、一番輝かしい時に壊れた。良いことだと思うがね」 虚ろに濁った目に、鋭い光が見えた。「良い、目だ」 面白そうに目を細め、ぞんざいに腕を振るい小十郎の頬を打つ。乾いた音が、響いた。「まったく、面白い男だよ」「う――」 香を直接、小十郎の鼻に突き付ける。ぐら、と小十郎の頭が揺れた。「卿ならば、代わりの利くあの三人よりもずっと、役に立つと思っているんだが」 屈する様子は無さそうだと口内で呟く。「残念だ」 楽しげに、松永が言った。 政宗を埋葬した場所だ、と松永は山火事にあった場所より少し離れた滝の奥にある洞窟へ、小十郎を案内した。そこには政宗の陣羽織があり、盛られた土があり、香が焚き染められていた。 極度の睡眠不足と栄養失調の為に憔悴していた小十郎に香が作用し、疑うことを奪い、政宗の死、というものを彼に刻んだ。 それから毎日のように、松永は訪い、粥であったり葛湯であったりを小十郎に飲ませ、命を繋げては自分の手足たれと吹き込んでいる。けれど虚ろな小十郎の意志は、常人であるなら屈しているはずであろうことに、無意識下で抗っていた。それを、松永は面白がっている。「感服するよ――絆、というものかね。私には、理解できんがね」 カラン、と竹筒を放り投げ「だが――そろそろ飽きてきた」 指を鳴らすと、香炉がすべて弾けた。「別に面白そうなものを、見つけてね。生かすためにわざわざ足を運ぶのにも、少々疲れたよ」 突風が、洞窟内にある香を浚った。「このまま放っておいても良いんだが」 ひとりごちた松永が目を向けた先に、忍の姿があった。「案内をしてくれたのかね。風魔」 忍は、動かない。「――結構。…………いい事を教えてやろう、竜の右目。蒼き竜は、存命だ」 目を見開き、松永を見る小十郎の目から濁りが薄れていく。それに満足そうに頷くと「流石は、回復が早いと言うべきか……体が自由になるまえに、退散するとしよう」 踵を返し、ゆっくりと歩き出した背に「ま、待て――松永…………」「すまないね。私には、待つ理由が何もない」 松永の言葉の終わりと共に、風魔が何かを投じた。「う――」 ゆっくりと、小十郎の体が床に落ちる。「さて、行くとしよう」 完全に全てが閉ざされる直前に、小十郎は聞きなじみのある嘶きを、耳に捕らえた。 穏やかな日差しに――小鳥のさえずりに揺り起こされ、小十郎は瞼を押し上げた。 見慣れた天井に、数度瞬きをしてから身を起こす。「夢――」 なじみのある寝具を撫でると「そうだとしたら、ずいぶんと長ぇ夢だな」 はっとして顔を向けると、苛立ちを笑みの内側に秘めた伊達政宗が坐していた。「政宗様」「俺を探しに来ておいて、自分が行方不明になるなんざぁ、洒落にもならねぇ」「行方、不明」 記憶をたどった小十郎が声を上げる前に、政宗が掌を向けて制す。「松永が何をしたかったのかは、さっぱりわからねぇが――無事で、よかった」 滲む声に「政宗様」 万感を含めて呼び、膝を正して頭を下げた。「山火事にあって、火の手から逃げる途中で川そばの洞窟に入ったんだ。岩場と水で、火も追ってこれねぇからな――だが、煙は別だ。情けねぇことに、意識を失っちまってた」 首を振り、Shitと呟く。「お怪我は」「少々の火傷は負ったがな、問題無ぇ。火にあぶられて熱を持ったモンを剥ぎ捨てて行ったのを、うまく松永に利用されちまったようだな」「そう、でしたか」 安堵に、思わず笑むような顔になった小十郎に、ばつの悪そうな態で鼻を掻く。「戻ってみたら、小十郎の姿は無ぇし、誰かに連れられて山に入ったって話が出てくるしで、俺の捜索隊がアンタの捜索隊に変わって探し回っていたら――」 政宗が懐から紙を取りだし、小十郎に渡す。そこには、卿の居た場所に竜玉は眠る、と書いてあった。「これは」「まさかとは思ったんだがな。やり口にどうも覚えがある気がして、行ってみれば小十郎は居るし、松永が居た痕跡も残っていやがった」「あそこに、おられたのですか」 不思議そうな小十郎に、問う目をする。「松永が、政宗様の居る場所を知っていると――」「まるっきりの嘘じゃ無かった、なんて言うなよ。――いけすかねぇ」 舌打ちをして「まぁ、何にせよ――無事でよかった」「政宗様こそ。これに懲りて、無茶はなさいますな」「それとこれとは、話は別だ」「この小十郎をはじめ、皆がどれほど心配をしたか」「それは、コッチも同じだぜ」「政宗様が行方知れずにならねば、私がこのようなことには為らなかった、とは思われないのですか」「俺のせいかよ」「他に何があるとおっしゃられるのですか」 しばらくにらみ合った後、ふ、と同時に笑みを浮かべる。「ったく、あんま心配かけんなよ」「政宗様こそ」 そこに、遠慮がちな声で訪いが告げられた。「Ah――入れ」「失礼致します」 そ、と開かれた襖の先には侍女が居て「お二方に、滋養のある薬湯を進ぜますよう、おおせつかりましてございます」 湯飲みを二つ乗せた盆を、つ、と滑らせ差し出した。「げ」 どろりとした、見るからに不味そう――というか、口にしても良いものかと疑うほどの液体に、政宗の顔がゆがむ。「覚悟を、決められませ」 面白そうな顔で手を伸ばした小十郎は、どうやらこの手のものは得手のようで「just have to do. . .」 うんざりしながらも観念したように手を伸ばした政宗が「Good health!」 やけくそのように湯飲みを掲げ、一気に飲干した。「っはぁ」 勢いよく、盆に湯飲みを置く。それに目を細め、なにほどもないという顔で小十郎も飲干した。「口直しが居るな――小十郎、茶を一服、頼む」「は」 受けた小十郎の声に、侍女が茶室の仕度をするために、辞した。 立ち上がり、のんびりと茶室へ向かう政宗の後に、小十郎が従う。 その光景を、はるか遠くから観察するような目で、松永久出が眺め「さて――宝と育つか愚物となるか、じっくりと待つとしよう」 呟き、いずこかへと姿を消した。2012/06/07