音も無く、外の気配が濡れていく。 風が吹けば、土につきそうなほどに下りていた雨は中空に舞い上がった。その雨の塊が、何か得体のしれぬ生き物のようにも見える。 なんとなく、その生き物に触れてみたくなり「――――」 腰を浮かせて手を伸ばし、肩までが屋根より先に出たところで「梵天丸様」 名を呼ばれ、勢いよく振り向いた拍子に体勢を崩し「危ないッ!」 庭に転げ落ちそうになったところを、抱き留められた。「こじゅ、ろ」 夢から覚めたばかりのように、呆けた声を出す梵天丸に苦笑して、そっと濡縁に下した。「もうしわけございません」「何が――」「驚かせてしまいました」 目を瞬かせ、じっと年嵩の従者を見つめる。なんと答えてよいかわからず、梵天丸はうつむいた。「何を、なされておいでだったのですか」 やわらかな声に、答える言葉を梵天丸は持っていなかった。べつに、何かをしようとしたわけではない。舞い上がる霧のような雨が凝ったものが、生き物のように見えて触れようとした、と言えないこともないが、それが自分のしていたことの本質ではないと、妙に聡い子どもは識っていた。だから、答えられなかった。 じっとしたまま動かない梵天丸の姿に、そっと息を吐く。片倉小十郎が彼に仕えるようになり、どれくらいだろうか。 頑なな幼君は、それでも自分には他の者たちよりもまだ、心を開いてくれていると思っている。 小さな体で懸命に大人たちの中傷にこらえている様は痛ましく、哀れでもあった。 けれど、小十郎は同情を彼に向けてはいなかった。同情は、自分が優位に立てる場合にのみ起こるものと、認識していた。 ――同情では無い。 ほどこしのような優しさなど、この主は求めてはいないだろう。そのような温もりなど、長くは続かぬと聡明な主は気付いている。そして、そういうもの――人の心の機微――を察する術の強い子どもであれば、見下す匂いを嗅ぎたくなくとも嗅いでしまうだろう。 ――なればこそ。 小十郎は梵天丸が、他の誰よりも自分を信頼してくれているのだと、感じている。 けれどそれは、知らぬものが見れば、手負いの獣が誰にも懐かぬようにしか、映らないかもしれない。ほんのわずか、餌を与える者にのみ、その折にだけ警戒をしながらも近づいているさまとしか思えないかもしれない。「片倉様」 遠慮がちに、小十郎を呼ぶ声があった。それに首だけをめぐらし見ると「こちらへ」 呼ばれた。 梵天丸へ目を戻し、うつむいたままの小さな頭に「すぐに、戻ります」 柔らかく告げて立ち上がった。 床を見ていた梵天丸の目が、小十郎の膝が持ち上がるのにつられて上がり、にこりとしてから背を向けた彼の姿が見えなくなるまで、彼を追いかけた。 音も無く、雨が空より舞ってくる。 それはまるで、雪のようにも感じられた。 雪が綿のようだとすれば、この雨は絹だろうか。 すべすべと柔らかく身を包む、薄衣。 それを纏い、姿を現した何かが風に乗って、わずかに梵天丸の目に姿を見せるのは、誘っているからなのだろうか。 ――ぬしは、こちらがわのものよ。 そう、言われている気がしていた。 梵天丸の右目は色が薄く、獣のようであった。 はらむ前に、母が白銀髪の僧に胎内で休ませてくれと言われたと語った。 母が、彼を厭うた。 その瞬間、梵天丸の周りにあった、優しく温かいものが、瞬時に失われた。 ――こちらに、こよ。 雨の衣を纏ったなにかが、梵天丸を誘う。 ――疾く、疾く。 手招くように、ゆらめいている。 あの衣は、心地よいのだろうか。 そんなことを、思った。 あの衣は、温かいのだろうか。優しいのだろうか。 ふと、小十郎の自分を呼ぶ声が耳に浮かんだ。 ――梵天丸様。 それは、柔らかく、温かく、梵天丸の真ん中を包み込んだ。 それとともに向けられるまなざしに、手を伸ばして触れたくなることもあった。(おれは、妖物なのだろうか) 右の目だけが、どの大人たちとも違う色をしている。 青々とした空と、同じ色を宿している。(人と妖怪の子が、居たと聞く) かつて平安京には、そのような者が時折現れ、さまざまの奇怪な技を見せたことが、あるらしい。(おれは、父の子ではないのだ) 父は彼を厭うては居なかった。だが、いつのころからか梵天丸は、確信のようにそう思うようになっていた。 そっと、右目に触れる。 音も無く世界を覆う雨は、自分を迎えに来たものたちのように思えて 導かれるように、素足のまま庭に降りていた。 雨が、梵天丸の体を包む。 少し冷たいが、子どもの高い体温には心地よかった。 触れても重さを感じぬ雨に、やはりこれは自分を迎えに来たのだなと、思った。 足元に風が舞い、舞い上がった雨粒が落ちる雨粒と重なり色を濃くして踊る。それの動くほうへ、梵天丸は歩を進めた。「梵天丸様!」 夢の中をすすんでいるような、とろりとしたものを切り裂くように、力強い声が耳を打った。 はっと気づき、顔を向けると同時に抱きしめられていた。 温かく、確かなものに包まれている。と、思った瞬間に体が浮き上がり、雨の誘いから引きはがされて屋根の下に連れて行かれた。「こじゅうろ」 しゃべることを忘れていたかのように、数年ぶりに声を出したかのように、ぎこちなく掠れた声で、温もりの名を呼んだ。「――消えて、しまわれるかと」 絞り出すような声に、驚く。「小十郎」 今度は、すんなりと声が出た。「梵天丸様」 腕の力が強くなり、小十郎の匂いでいっぱいになる。生命の香りに、まとわりついていた妖しの気配が消えうせた。「小十郎」 もそ、と身じろぐと腕が緩んだ。見上げると、眉根を寄せた顔があった。咎めるのではなく、安堵を浮かべたそれに、ぺたり――と触れた。「小十郎」 ぎこちなく、なぐさめるように彼の顔を撫でると、彼の眉尻が下がった。「梵天丸様」 静かに、呼ばれる。 まっすぐに合わさった瞳は、互いの魂を見せ合っているようで「もし、どこかへ行かれるようなことあらば、この小十郎だけは――必ず、お供させていただきたい」 心底からの言葉だと、わかった。 目を外すことなく頷き「小十郎だけは、必ず」 約束をした。 ふわ、と同時に笑みが起こり「濡れてしまいましたな。お風邪を召されますので、着替えと温まるものを」 腰を浮かせた小十郎に、梵天丸がしがみついた。「――梵天丸様?」>br> じっと見上げて、言う。「いやか」 目を柔らかく細め、膝をつきなおした小十郎が「いいえ」 梵天丸を膝の上に抱き上げた。「こうしていれば、温かくもなりましょう」「ん――」 小十郎に身を預け、そっと目を閉じる。梵天丸の耳にはもう、彼を誘う妖しの声は届かなかった。「――――ん? 眠ってしまわれたか」 柔らかな巣穴で、竜が胎動を始める。2012/06/12