夜気を縫って聞こえてくる笛の音が、いつもよりも震えているように思えるのは、気のせいだろうか。 陣の中、伊達政宗は薄目を開けて笛の音に耳を傾けていた。 奏でているのは、彼の腹心、片倉小十郎であった。 戦場にそぐわぬはずの笛の音は、源平合戦の美しくも哀しい物語を、思い起こさせる。――戦の前夜。双方の兵の心を慰めた笛の音。それを奏でた青年は、武士としての心得が十分に過ぎ、命を助けたいと思った父ほどの年の男の手によって、打ち取られた。その物語は能や舞などの題材となり、人々に――特に、武家の男たちに好まれた。織田信長の好んだ歌『人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか』は、その作品らのうちの一つ、幸若舞の『敦盛』の一節であった。 細く長く、謳うように伸びる笛の音は、悲鳴のようにも、祈りのようにも聞こえる。それに寄り添うように、川の流れが色味を添えた。 静かな、月夜であった。 弓張り月は、持てる力のすべてを使い、地上を照らしている。川面にきらめくのは、星の影だろうか。「――いい、夜だ」 明け六つに、総攻撃をかける。穏やかなこの地が、鬨の声と法螺の音にまみれ、河は血に染まるだろう。 あと、どのくらいでその時間になるのか。 伊達軍の者たちは、そのほとんどが休んでいた。獲物を抱きかかえ、奇襲があってもすぐに対応できるようにしがら――。起きているのは、見張りの者と政宗、笛を奏でる小十郎くらいだろう。 ひときわ高く、笛が鳴った。 この音は、眠る者たちの耳に届いているのだろうか。敵陣の中にも、響いているのだろうか。 瞼をおろし、楽の音を味わう。 爆ぜる松明の音が、味を添えた。 音が止み、しばらくして「政宗様」 呼ばれ、瞼を上げる。心配そうな顔が、そこにあった。「今夜は、ずいぶんと音が震えていたじゃねぇか」 皮肉に口の端を上げると「少し、お休みください」 顔のままの声で、言われた。 返答をせず、手にしたまま口をつけていなかった杯を差し出す。ひざを折り、受けた小十郎が飲み干した。「注げよ」 小十郎の手から杯を取り、命じた。 竹筒を持ち、小十郎が注ぎ、月を映してから、煽る。「はぁ――」 薄く、唇に笑みを乗せたまま、遠い目をして空の杯を見つめる政宗の横で、静かに、小十郎が控えている。 ぱち、と松明が爆ぜる音と、流れゆく水音だけが、在った。 梟の声も、動物の声も、無い。「小十郎」「は」「いい、月夜だな」 空も見ずに、政宗が言う。 奥州筆頭となった政宗を、慕う者は多い。――奥州筆頭となった政宗を、狙う者も。 卓越した政宗の資質は、それだけで人を酔わせる力がある。そしてそれを活かせる容色が、見えぬ力を膨らませ、畏敬と羨望を人々に植え付けていた。 美しいものにある、醜い部分――欠けた場所が、それに凄味を持たせ、彼の身にまつわる風聞――病で爛れた右目のために、母に毒殺をされるほどに厭悪されるようになった、という話が、彼の望むと望まざるとにかかわらず、華を添えた。 光が強くなればなるほど、闇は凝る。 政宗の手で束ねられた奥州の土地は、豊かに、穏やかに営まれていることと、源平のころよりも前から勇猛と知られていた人々の気質に、中央に勢力を持つ者たちは「鄙」と呼びながらも警戒をせずにはいられない存在となっている。 ――いつ、彼が中央に進出してくるのだろうか。 そのような懸念を、持たれていた。 今は、彼の傍に上杉謙信と武田信玄という、希代の男が納める土地がある。彼らが容易に政宗を通すはずは無いと、誰もが思っていた。だが、政宗は若い。若いがゆえに及べることがある。 無茶とも無謀とも取れることを、若き竜はやってのけてしまうと、思わせるだけの度量があった。 だからこそ、地位のあるものは警戒し、彼が中央へ進むのを恐れ、その足をわずかでも留めておきたいと、密使を送り、密約を交わし、金を使い、甘い言葉を操り、小さな亀裂を生ませようと、画策する。 このたびの戦も、そのようなことが発端であった。 いずこかの公家が、頼りにしている武家にそそのかされたのか、自分たちで思いついたのかはわからないが、官位をエサに政宗を裏切るように、仕向けてきた。それに乗ったということを、政宗傘下の者たちは詰ったが ――俺の、責任だ。 軍議で、苦々しげに一言、そうつぶやいた政宗のそれが、本心であった。 その言葉の持つ重みと憤りを感じたのは、彼の傍に控えてきた、彼の体の一部と称される男、片倉小十郎だけだったろう。「先ほど」「Ah?」「先ほど、音が震えていると仰っておりましたが」 言葉が途切れた。ゆっくりと小十郎に顔を向ける。そこにあった瞳の強さに、政宗は息をのんだ。「政宗様の御心のありようが、そのようであったからに、他ならぬかと」 HA――と笑い飛ばそうとして、酷く喉が渇いていることに気付く。 切っ先のように輝き、まっすぐに政宗を見つめてくる目は、誤魔化せない。――人は、他人をごまかせても、自分自身を誤魔化すことなど、出来はしない。「――そうか」「はい」 ゆるく、小十郎の唇が弧を描いた。 そうか――、と心中で繰り返す。 これが、武田信玄や上杉謙信であるならば、甘言に乗るようなことは、させなかったのではないかという思いが、無意識に政宗の中に巣食っていた。 若造が――、と見えぬはずの、聞こえぬはずの声が、政宗にまとわりつく。それはかつて、政宗が何度も耳にした声の、向けられた嫌悪の、与えられた嘲りの、塊であった。「俺は、まだ若ぇ」 ぽつりと、呟く。 そっと、小十郎が杯を満たした。 月影が、政宗の手の中で揺れている。「小十郎」「は」「奏でてくれねぇか」 何を、とは聞かない。聞く必要も、無かった。 自分が欲しているものを、感じたままに奏でればいい。「承知、いたしました」 懐から、笛を取りだす。 かつて、平安のころに鬼の心をとらえるほどの笛の名手がいたと言う。その男は、自分の笛と、鬼の持つ素晴らしい音色を持つ笛とを交換した。その笛、葉二と呼ばれたそれを、竜の右目が奏でれば、どのような音が流れるのだろうか。 小十郎の唇が、笛に命を注ぎ込む。 高く細く響く音は、月光に乗り、夜気の中、しっかりとした輪郭を持って舞い踊る。 藤原頼道が宇治平等院を造った折に、経蔵に納められたというその笛を、いつか奏でさせてみたいと、思った。 その胸の裡に呼応するように、月の作る天への道を、音色はまっすぐに、昇って行く――2012/06/29