とつんっ―― とつんっ―― やけに大きく響くのは、水滴が水面を叩く音だ。 ゆっくりと目を開けた伊達政宗の目の前には、白い、白い空間が広がっていた。 何も無い。 けれど、何かがある。 とつんっ―― とつんっ―― 首をめぐらせ、響く音の出先を探す。 とつんっ―― とつんっ―― 右から聞こえているようでもあり、左から聞こえているようでもあり、前のようでも後ろのようでもあった。 とつんっ―― とつんっ――「Where am I?」 口から洩れた音は、儚く消えて――けれど発することが出来たということに、安堵する。「なんなんだ、ここは」 何も無い。 けれど、何かがある。 周囲を見回しても、人の気配は無い。「Fum」 すい、と右足を動かして歩き始めてみた。踏みしめているような、吸いこまれているような感覚がある。真っ白で、進んでいるのかいないのかが、わからない。 とつんっ―― とつんっ―― どこかにある汀を目指す。 とつんっ―― とつんっ―― 歩き進めるうちに、政宗の身にまとう鎧の色が溶け出ていく。 とつんっ―― とつんっ―― 吸い込まれるように、政宗の足は前へ前へと進んでいく。 とつんっ―― とつんっ―― 溶け出た色が失せていく度に、政宗の体にまとわりついていた、ねっとりとした熱が奪われていく。 とつんっ―― とつんっ―― 鎧も、端から溶けだした。 とつんっ―― とつんっ―― 風も無いのに、政宗が歩むたびに、一歩進むごとに、色の破片が、鎧の破片が置き去りになっていく。そうしてそれは床に落ち、道筋となり、真っ白な空間に糸のようなものを描いていく。 とつんっ―― とつんっ―― 失うたびに、政宗は政宗になっていく。 とつんっ―― とつんっ―― 奥州筆頭という肩書が全て剥がれ、白い襦袢に包まれた政宗は「自分」になった。 とつんっ―― とつんっ―― 水音が、心音と重なる。 とつんっ―― とつんっ―― もろ、と眼帯が崩れて落ちた。 とつんっ―― とつ――と――っ―― 立ち止まる。 目の前には、何も無い。 けれどそこに、何かがあることを政宗は感じていた。 しばらく見つめていると とつんっ―― とつんっ―― 波紋が広がった。 ゆっくりと足を進め、沈めていく。 くるぶしほどの深さの汀に両足をつけ、ゆっくりと中ほどまで進んでいく。 ひやりと、やわらかく心地よいものに目を細める。 重みが――体にまとわりついている重みが全て、水に溶けだしていく。(嗚呼――) 声にならない声を上げ、政宗は喉を撫でられる猫のように、目を細めた。 体中から重みが溶けだしていく。 体を支える重みすら失い ぱしゃん―― 頽れた政宗を、抱きとめる温かな腕があった。 ここちよい温もりに体を預ける政宗の、足元から重みが抜け落ちてゆく。「政宗様」 耳をくすぐる低い声は、彼を、誰でも無い彼自身であると告げて来てくれる。「政宗様」 名前という記号の奥に、核を呼ばわる音が響く。 ここちよい。 政宗が、政宗であることを受け入れてくれる声に、ぬくもりに、不要な重みを失った魂がその身を預けている。「政宗様」 それが違う記号であっても、この声は同じ響きを持って、その名を呼ぶだろう。「政宗様」 傷を負うたびに、重みを纏うたびに、他の誰でも無いのだと教えてくれる、声―― とつんっ―― とつんっ―― 水音と、鼓動と、そして「小十郎」 つぶやいた記号の示す者の鼓動が、一つに重なる。 とつんっ―― とつんっ―― うすく目を開けて、幼いころから変わらず向けられる笑みを確認する。「政宗様」 困ったような、すべてを許すような笑みが見えた。「こ――じゅうろ」 声が、ひどく掠れている。それに疑念を浮かべると、周囲に色が現れ始めた。「ん――」 体が、ひどく重い。 身を起そうとする政宗の背を小十郎が支え、差し出された水を口に含めば、自分が酷く乾いていることを知った。「は、ぁ――」 息をついて、周囲に目を投じる。 夏の熱気がそこかしこに漂っている中で、庭からは秋の虫の音が聞こえて来ていた。「眠っていたのか――」「お召し替えを」「Ah?」「寝汗が、ひどうございます」 言われて、首の回りが濡れていることに気付いた。「夏の風邪は、性質が悪うございます」「ん――」 頷くと、手桶に手ぬぐいを浸した小十郎が「さあ」 促してきたので下帯姿となった。 ぼんやりと、体をぬぐわれながら目を伏せる。 とつんっ―― とつんっ―― 命の音が、耳に響いた。 ゆっくりと眼帯に触れて外せば「政宗様――?」 いぶかしげに呼ばれ「俺は、他の誰でも無い――俺自身だ」 つぶやき、いかなるときにも傍にいる自分であり自分では無い男に目を向けた。「――政宗様は、いかなときにも政宗様であらせられます」 立場を忘れるなと言う腹心の顔を取り去った片倉小十郎は、伊達政宗という記号を持った魂に笑みかけた。「少し、体がだるい」「薬湯でも、お持ちいたしましょうか」「いや――」 空に、目を投じる。始まりだしたばかりの夜に、月が姿を現していた。「小十郎」「は」 拭い終えた小十郎が、新たな襦袢を着せかけてくるにまかせたまま「俺が、俺を見失わねぇように――見続けてくれ」「この右目は、曇らせることなく貴方様を映し続けます」「そうか」「はい」 心地よい沈黙が、傷を隠そうと纏った鎧を取り去り、ただの「魂」でいさせてくれた。 多面体の視界 歪んだ世界は わずかな光も 虹にかえる 傷ついた竜玉は 水面のように いろいろな角度で光を集め――――2012/08/25