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津亡己〜つなみ〜

 ゆるやかにキラキラと、日の光を細かく砕いて着飾っている海を眺める伊達政宗は、意識を包むように響いてくる笛の音に魂を委ねていた。
 触れてはいないはずの身が、あますところなく全身で触れあっているような心地になるのは、その魂が触れあい寄り添っているからに、他ならなかった。
 いまだひやりとした冬の景色を覗かせる風が、政宗の髪を揺らめかせる。
 高く、低く、ゆるやかに――けれど根底に激しく雄々しいものを抱きしめている笛の音は、海の姿そのものだ。
 穏やかに軽やかに、何もかもを受け止め育む豊かな海を見つめる、政宗の光の残っている左目が、痛みを堪えるように眇められた。
「――小十郎」
 つぶやけば、笛の音が止む。
 政宗の後ろに控えていた男が――片倉小十郎が、唇の当てていた横笛をゆっくりと降ろし、政宗の背中を見つめた。
 誰をも包み込むような、誰にも犯されることのない、広大で雄大な海に、人の命というものを――人の心根の浅ましく汚らしいものを、幼いころより目にし、体感しつづけてきた主が、何を心に映しているのかを知っているように。
「小十郎」
 声がかかり、ゆっくりと小十郎は政宗の傍に近づいた。
 半歩後ろで立ち止まった小十郎の視界が、政宗のなびく横髪と頬に近づく。まっすぐに前を見つめている目は小十郎には見えていない。
「小十郎」
「は」
 三度呼ばれ、小十郎は短く声を発した。けれど、そこから続く言葉はどちらも口にしない。
 ただ、身の内からにじみ出る感情を身にまとうだけで、それを『言葉』という形にはしなかった。
 あるいは、出来ないのかもしれない。
 荒波のうねりのような感情を、言葉という枠にはめこんでしまえば、それが何であるのか――それが何と表現すべきものなのかの、本質的なものが失われてしまう。
 そんな気が、していたのかもしれない。
 二人は黙って、穏やかな凪の海面を眺める。
 命萌ゆる春先の、多くの命をはぐくみ奪い包み込む海の底に、見知った顔でもいるかのように。
「小十郎」
 しっかりとした政宗の声の奥底で、震えるものがあることに小十郎は気付いていた。
「政宗様」
 太い老木の幹のように、どっしりとかまえた音で呼べば、政宗が振り向いた。
 ほんのわずか――目の錯覚かと思うほどの刹那に、その顔に迷子の子どものような色が浮かんでいるのを、小十郎は見止めて微笑む。
 それに薄く笑み返した政宗は、再び海に向き直った。
「重てぇな」
 ぽつりと、政宗が言う。
「とんでもなく、重てぇ…………」
 政宗の髪を、海風が撫でた。
「気が狂いそうなぐれぇ、重いよな」
 政宗の拳が、強く握られた。
「――どんな顔して、この奥に……海の底に…………」
 言いかけた政宗は、それより先を言えば世界が崩壊するとでも感じているかのように、硬く強く唇を引き結び、噛んだ。
「政宗様」
 まっすぐに立ち、一人で海に戦をしかけようとしているような政宗の背に、小十郎は触れずに魂を添わせて支えた。
「お一人では、重たいかと存じます。なれど――」
「Ah……わかってる。俺は、俺の背中は、この俺が守るべきモンに、支えられているってな」
 わかっているからこその辛さであることは、小十郎も承知をしていた。けれど、あえて口に出してみることは、必要だった。
「小十郎」
「は」
「どんだけのモンが、飲み込まれちまったんだろうな」
 答える代わりに、小十郎は唇に笛をあてた。そうして、ゆっくりと息を吸いこむと、物悲しい音を発しはじめる。
 それに耳を傾けながら、それが深い海底より響いてくる人の声であるかのように、政宗は苦しげに眉を寄せる。
 高く、低く、早く、遅く――小十郎の笛の音は、誰かの声を代弁しているように、小十郎の心の形を政宗に伝えようとしているように、政宗の言葉という枠にはめることのできない心を――ひとつの名称で呼ぶことが憚られる感情を表しているかのように、早春の海辺に響き渡る。
 素知らぬ顔で、海面は細かく砕いた春の日差しで初々しい娘のように、面映ゆそうに輝いている。その奥に、多くのものが浚われ沈んでいることなど、取るに足らぬと言いたげに――人の想いなど、あずかり知らぬと言うように。
「小十郎」
 笛の音は、途切れない。
「もっと……あいつらにも届くように、響かせてやってくれ」
 それが何の慰めになるかもわからないけれど――ただの、この心を慰めるだけの自己満足であることを承知しながら、政宗は小十郎に哀切を込めて命じる。
 小十郎の笛の音は、一層の凄味を増して穏やかな初春の気配を包み込み、溶け込み、あるいは切り裂いて、海へと流れていく。萌え出ずる春の日と交じり合い、海面に降り注ぎ、ゆっくりと沈んでいく。
 どのくらい、そうしていただろうか。
 最後の旋律が高い空に巻き上がり、余韻が大気に溶けきってしまってから、政宗は細く長く息を吐き出し、握っていた拳をゆっくりとほどいた。
「とんでもねぇモンを、背負っちまったな」
 笛を懐に閉まった小十郎が、まっすぐに海に目を向ける。彼よりも少し背の低い政宗の髪に、小十郎の息がかかった。
「おひとりで、それを支えさせはいたしません」
 離れているはずであるのに、政宗は背中に小十郎のぬくもりを感じた。
「情けねぇな」
 静かに瞼を下した政宗の胸中に、さまざまな顔が、声が、景色が浮かび上がる。思い出に出来ぬ、思い出と呼ぶには生々しく、激しく、受け止める事すら躊躇するほどのまがまがしい光景が、迫ってくる。
「時には、逃げることも大切かと存じます」
 嵐のように咆哮を上げてうねる記憶に、小十郎の声が響く。
「目を背けなければ、逃げる事もまた上策かと存じます」
 何も出来ぬ幼子のようになったむきだしの魂に、恐怖や憎悪、驚愕や哀切――絶望という言葉すら生ぬるいものが迫りくる。
「おひとりでは、重みに耐えかねるでしょう。ですが、この小十郎が傍におります。いかなるときにも、政宗様の背を支えるべく、その背をお守りすべく、傍におります」
 ぐ、と政宗が奥歯を噛みしめる。
「焦ってはなりません。ご自身を責めてはなりません。ゆっくりと、少しずつ受け止めていけばよいのです。――むしろ、そうせねばならないのです。うねりに呑まれぬように、幾年もかけてすこしずつ、その心に受け止めていかなければ、なりません。周囲に何と言われようと、その重みや深さは、受けたものにしかわからぬものと割り切って、ご自身の速度で逃れつつも目を向け、重みに潰されぬように進むしか、ないのです。政宗様――そうするために、この小十郎は貴方様の傍に、いるのです。それを、ゆめゆめお忘れなきよう――何もかもをご自身の内側に押しとどめ、強くあろうとなされすぎぬように、ご自身でご自身を壊してしまわぬように、こうして振り返る時を作り、お確かめください。何年かかろうと、何十年かかろうと、この小十郎は政宗様がくずおれぬように支え続けます。そのお心が砕けぬように、傍に在り続けます。――政宗様。ですから、どうか……周囲の何ものにも惑わされず、押しつぶされそうなときは迷わずに逃げ、弱さをさらけ出してください。ご自身を弱いと苛むことは、決してなされますな。他の誰をもが過去のものとして語ることも忘れ、記憶の奥底に沈めて失い、未だそのような過去のことを申すのかなどと言ってくることがあっても、その言葉に卑屈になることも、ご自身を責めることもなさいませぬよう、頼りなくも弱いご自身を御認め下さい」
 くすり、と政宗が鼻を鳴らして振り向いた。存外に近い位置にいた小十郎に――自らの右目の肩に額を乗せる。
「You’re telling me」
 つぶやいた政宗が、照れ隠しのように少しおどけて顔を上げ、肩をすくめた。
「説教以外で、こんなに長く小十郎に物を言われるのは、久々だな」
「言葉を尽くしても、伝わっているのかどうかがわかりませんので」
「小十郎でも、そんなことを思う事があるのか」
「人の心というものは、いかようにも言葉の形を変えて受け止めるものです」
 ふっと呆れたように穏やかな鼻息を漏らし、政宗は軽く握った拳の裏で小十郎の胸を叩いた。
「小十郎の魂の声は、真っ直ぐに俺に届く。その笛の音もな――だから、つまんねぇ言葉を重ねる必要は無ぇぜ、小十郎。アンタはただ、この俺の背を守っていればいい。俺は、この背に背負ったモンを全部抱えて、まっすぐに進んでいく。むろん、小十郎も含めて、な」
「承知いたしました」
 小十郎の眉尻が、ゆるやかに下がる。微笑みあい海に目を向ければ、乱れ荒れ狂うことなど無いような穏やかな様相をしていた。
「忘れねぇ――他の誰もが忘れて、記憶の奥底に沈めちまったとしても…………この俺だけは、忘れねぇ。忘れたくとも、忘れられるモンじゃあ無ぇがな。受け止めて、飲み込んで、前に進んでやる」
 静かな、確固たる決意を含んだ声に、小十郎はそっと目を閉じた。
 突然の喪失と虚無。
 それは、どのような言葉でも表現の出来ぬもので――ほんのわずかな、些細な事でもそれを味わったものにしか想像し得ぬ、けれどそうであれば事の大小にかかわらず共有できるはずのもので――小十郎は、政宗の言葉に自らの決意を添わせて乗せた。
 目を上げた小十郎の視界に、ぶるりと政宗の肩が震えたのが見えた。
「まだ、肌寒うございますからな」
「帰ったら、燗をつけてくれ。――付き合ってくれんだろ?」
「無論」
 短く応えた小十郎の先に立ち、政宗が歩きはじめる。

 あまりにも悲しく苦しい虚無を肴に、二人はゆるゆると酒を交し合った。

2013/03/11



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