目の前で風がつむじを起こし、砂埃を巻き上げた。「うわっ」 あわてて袖で顔を覆ったが、風はわずかな隙間を抜けて砂を顔に当ててきた。「痛っ」 目の中に砂が入ったらしい。小さな痛みが瞳の表面に走る。地に顔を向けて幾度か瞬きをしていると、じわりと視界が滲んだ。 異物を吐き出そうと、涙があふれ出て来たらしい。 擦れば目に傷がついてしまわれます。 幼い頃、今のように砂埃を顔に受けて目を擦ろうとした彼に、厳しく言いながら擦ろうとした腕を掴んだ声を思い出した。 梵天丸様の、もう一つの御目に傷がついてしまっては、一大事にございます。 口の端を柔らかく持ち上げ、かつて梵天丸と呼ばれていた伊達政宗は顔を上げた。 まだ目に違和感はあるが、取れたらしい。けれど念のため、水で目をすすぐまでは擦らずにおくか。 そう思った政宗は、涙の滲む左目をそのままに、近くの小川へと足を向けた。 山がさく裂したように様々な緑を広げ、花を咲かせて春を告げた奥州は、田植えの季節となっていた。田植え歌が遠く近く響いてくるのを聞くともなしに聞きながら、政宗は小川へ向かう。 どこもかしこも田植えに忙しく、他の村からも田植えの手伝いを順繰りに出しては植えていくこの時期は、活気にあふれ笑みの波があちらこちらで寄せては返すを繰り返している。 そんな時期であるから、小川の傍に子どもの姿があることに、政宗は軽く目を開いた。 子どもはしゃがんで、流れをじっと見つめている。何をしているんだと思いつつ、政宗はゆっくりと歩み寄った。 足音を忍ばせたつもりはないのだが、子どもは政宗が背後に立ち、その姿が水面に映るまで気が付かなかったらしい。驚き跳ねるように立ち上がり振り向いて、あまりに速い動きに濡れた草に足を取られたらしい。ぐらりと傾き川に向かって倒れそうになるのを、政宗が手を伸ばして捕まえた。「そんなに驚くとはな。悪かった」 微笑みかければ、子どもはじっと政宗の顔を窺うように見つめた。「泣いてんのか?」「Ah?」「泣きに来たのか」 そういう子どもは、泣いていたらしい。涙の痕が頬にあり、目は充血している。「アンタは、なんで泣いてたんだ」 肯定も否定もせずに問い返せば、唇を尖らせた子どもは顔をそむけ、政宗の腕を振り払った。「言いたくねぇか」 姿からして十かそこらだろう。立派に手伝いが出来る年ごろだ。それが田植えの時期に、一人でいる。村八分にされる理由でもあるのだろうか。「田植えは、しねぇのか」「田がねぇもの」「田が無い?」 頷いた子どもが唇を引き結び、しゃがんで石を掴むと川に投げた。 ぽちゃん、と音を立てた石は流れを乱したが、すぐに川は何事もなかった顔になる。「にいちゃんは、侍だろ」「Ah、そうだ」「なんで、侍は戦をするんだ」 じっと、はぐらかされぬように目に力を込めた子どもに、政宗は眉根を下げる。「戦で、田を失ったのか」 子どもが頷く。「とうちゃんも、かあちゃんも死んだよ」「そうか」 さわりと風が木の葉を揺らし、せせらぎに彩りを添えた。それが胸に冷たい痛みを走らせて、政宗は顔をしかめた。「にいちゃんも、戦で何かを無くしたのか」 少し考えてから、政宗はしゃがみ子どもと目線を合わせた。「ああ、いろんな……大切なものを無くした」 胸に痛みを疼かせて言えば、子どもは政宗の瞳の奥にある真意を探ろうと、済んだ瞳で見つめてくる。それをまっすぐに見つめていると、子どもは政宗の光の無い右目を見た。「その目も、戦で無くしたのか」「いや。これは、病で、だ」「ふうん」 子どもの手が眼帯に伸びて、触れる前に止まった。「片目で、戦えるのか」「片目でも戦えるように、鍛えてある」 ニヤリとしてみせれば、ごくりと子どもが喉を鳴らした。「見てもいいか」「面白くもなんともねぇがな」 政宗が眼帯を問て見せれば、子どもがブルリと全身を震わせ、顔をひきつらせた。怖がらせちまったか、と思いながらも見つめていれば、子どもはおそるおそる指を伸ばし、右目の下に触れた。「痛くないのか」「俺が、ガキのころのことだからな」「子どもの時に見えなくなったのに、侍は戦に出なくちゃいけないから、戦えるようになったのか」「侍は、侍以外にはなれねぇからな」「侍が農民になったりすることもあるって、聞いたことがあるぞ」 知っていたか、と政宗は皮肉に唇を歪ませた。「この右目を失った時に、右目とは比べ物にならねェほどの大きくて大切なモンを、つかんじまったからな」「だから、戦えるように頑張ったのか」「まあ、そういうことになるか」 ふうんとつぶやきながら、子どもが政宗の右目の虚を覗き込む。「無くしたとき、痛かったのか」「あんときゃあ、相当痛かったな」「泣いたのか」「泣いていたところを、泣くんじゃねェと叱りつけて、病で爛れて使い物にならなくなった右目を、切り落としてくれた奴がいたからな。こうなった後は、泣いてねぇよ」 子どもの眉間に、深い皺が寄った。「わからねぇか」 こくんと子どもが頷く。「俺が泣いてちゃあ、右目どころじゃ無く、もっと大きなモンも失うって事を、教えてくれた奴がいるんだよ。そいつの示した先に、俺はバカでっかいモンを支えなきゃならねぇ自分を見つけた。だから、そっからは泣いちゃいねぇ」「でも、さっき泣いてたろ」 砂埃が入ったからだ、とは言いたくなかった。「支えきれずに、指の隙間から沢山の大切なモンを、こぼしちまったからな」 川に手を入れて水を掬えば、指の隙間から水が落ちる。すべてが落ち切る前に、政宗は目を洗いついでに顔も洗った。「っはぁ」 息をつけば、子どもが隣で同じように顔を洗う。「ぷはっ」 顔から水のしずくを垂らした子どもが、にっこりと笑った。「指から水がこぼれても、全部は落ちなかったから顔を洗えたな」 虚を突かれ瞬いた政宗は「Ha!」と上機嫌に息を吐いた。「たしかに、そうだ。手のひらに残ってる水を、これ以上こぼさねぇようにしねぇとな」「こぼれないように、桶に入れるとかすればいいんだ。いつまでも手に乗せてるから、だめなんだよ」 子どもが政宗の手を、両手でつかんだ。「つかんだら、大切にこぼさないように、こぼれない場所に入れてしまえばいいんだ」「That's good point. 面白ぇ」 聞き慣れない言葉に、子どもがきょとんとする。「良いことを聞いたぜ。こぼさねぇように、こぼれない場所を作って守ればいい」「うわっ」 しっかりと眼帯を結わえ直し、子どもを抱き上げた政宗は、上機嫌で里に足を向けた。「里まで、送っていってやるよ。こんなところで、一人泣いていても前には進めねぇだろう」 言いながら、政宗は右目を爛れさせ心を沈めていた幼い自分を思い出す。「顔を上げて、しっかりと目の前を見ながら足を踏ん張んなきゃな」 それは子どもに向けてではなく、幼い頃の自分に向けた言葉だった。 里から田植え歌が聞こえてくる。政宗と子どもに気付いた、音頭を取っていた男が顔を上げ、その傍で田植えの様子を見ていた頬に傷のある男が声をかけてきた。「政宗様」 それに、子どもが目を丸くした。「えっ、え」 うろたえる子どもにニヤリとして、声をかけてきた男に返事をする。「小十郎。田植えの手は、余ってんのか」「あと一列、誰か手があれば助かるのですが」「だとよ」 子どもをおろし、軽く頭の上に手を乗せて言えば、小十郎の横にいた音頭取りが声を出した。「伍介。ここんとこの端っこの列を、たのまれちゃあくれねぇか」 子どもは政宗を見上げ、自分に目を向けてニコニコとしている里の者らを見つめて、ぎゅっと拳を握り駆けだした。里の者らの輪の中に入った子どもを見つめながら、小十郎が歩み寄ってくる。「政宗様が、見つけてくださったのですね」「Ah?」「伍介です。田植えのために他の村からも親子連れが集まったのを見て、昨年の自分を思い出したのでしょう。走り去ってしまいまったのを、しばらく探したのですが見つからず、田植えを遅らせるわけにもいかないので、手早く終わらせ再度、探しに行こうと言う話になっていたのです」「そうか」 腕を組み、政宗は再開された田植えを眺める。「小十郎」「は」「俺は、オメェに右目を切られた時に、アイツらを支える覚悟を決めた。漠然とはしていたが、な」 まっすぐに田植えを見つめる政宗の横顔を、小十郎が見つめた。「ここまで来るのに、いろんなモンを失った。これからもきっと、この手に掴んでるモンを、指の隙間からこぼしちまうんだろう」「――政宗様」「小十郎」 ニヤリと、政宗が小十郎に顔を向ける。「指の隙間からこぼれちまうんなら、こぼれねぇような器に入れて守ればいい」「は?」「俺の指の隙間からこぼれるんなら、もっと頑丈でデッカイもんに、大切なモンを入れて守ればいい」 小十郎の頬に、笑みが乗った。「微力ながら、この小十郎。身命を賭して器づくりに携わらせていただきます」「当然だ。この俺の手に、しっかりと握りしめさせたのは小十郎なんだぜ」 同じ笑みと眼差しを交し合い、二人は田植え歌に耳を傾け、満ちた笑みを浮かべる民を心に刻んだ。2013/05/15