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neglect-ここにいるよ

 風が頬に触れて髪をなびかせる。艶やかな黒髪を風に好きにさせたまま、伊達政宗は差すような日差しの強さに、左目を細めた。そっと手を持ち上げて右目を覆う眼帯に触れると、鉄製のそれは熱を帯びていた。太陽に背を向けて、背をゆるやかな風に押されながら丘を下りた政宗は、木々の間に身を進め小川のほとりに足を止め、草履を脱ぐと袴の裾を端折り、足を入れた。
 ひやりとした水が心地よい。火照る日差しを穏やかに受け止める川の水は、せせらぎは、心を落ち着かせてくれる。
 木の葉が強すぎる日差しを遮り、やわらかな色合いに変えて政宗を包んだ。
 適当な大岩に腰を掛け、胸深くに緑の香りを受け止める。
 目を閉じて幾度か大きく胸を膨らませ、萎ませて、指先にまで森の気配を体内に含めると、政宗はそのままゆっくり、足を水に付けたまま横になった。
 緑の香りが近くなる。
 乾いた緑。苔むす湿った緑。その隙間から溢れる、豊かな土の香り。
 命を包み込む、育む香り。
 体の奥から、骨の芯から疲れや憤り、悲哀や怒りなどが溶け出して、土に流れ染み込んでいく。
 どろりとした疲れを感じ、政宗は土に負の陰りを吸われるまま、意識をゆったりとたわませた。
 どれくらいそうしていただろうか。
 淡いまどろみから意識を浮上させた政宗は、ふと目を傍の大木に向けた。そこに、男が一人座っている。
「ああ。起きられましたか」
 視線に気づき、手にしていた書物から顔を上げた男は、穏やかに頬を緩ませ立ち上がった。
「小十郎」
 ぽつりと男の名を呟けば、目じりを細めた片倉小十郎が傍らに膝を着く。
「なんで、ここに」
 暑い中に眠っていたからか、政宗の声は渇き、掠れていた。起き上がろうとする政宗の背に手を添え、小十郎は空いた手で腰に遭った竹の水入れを差し出す。受け取った政宗がそれを口に当て飲み干すと、小十郎は主の傍から離れ川の上流へ足を向けた。
「小十郎?」
「こちらに、よく冷えた湧水がございます」
 誘うような気配に、政宗は川から足を離して草履を手に、素足で草を踏みしめる。少し行った先に、水の吹き出る岩があり、そこに竹の水入れを押し付けて小十郎が水を入れていた。
「冷たくて、甘い水ですよ」
 促され、顔を近づけ口を開ける。キンと冷えた水が、喉に心地いい。ふっくらと丸みのある甘味が、優しく骨身に滲み込んでいく。
「は、ぁ」
 手の甲で口を拭った政宗を、小十郎の柔らかな瞳が包み込む。
「なんで、俺があそこにいると解かった」
 政宗の問いに、小十郎は夕餉の膳の内容を応える程度のさりげなさで、答えた。
「どこにおられても、必ず見つけると申しました」
 少し目を見開いた政宗に、小十郎は穏やかな笑みを向け続ける。
「Ah、そうか。そうだったな」
 鳥が羽を休めるように、睫毛を震わせた政宗の唇が、ほんのりとした笑みを浮かべた。
 あれはまだ、政宗が梵天丸を呼ばれていた頃の事。
 病のせいで腫れあがり爛れた右目。
 見た者が息をのむほどに美しく、可憐であった梵天丸であるがゆえに、その異形はより人の嫌悪感を、恐怖心を、落胆を強くした。
 あからさまに侮蔑の目を向けてくる者もあった。
 好奇と優越を向けてくる者もあった。
 嫌悪と落胆を向けてくる者もあった。
 近寄るなと、全身で表す者もあった。
 やわらかな子どもの心は、病と闘い疲弊した梵天丸の心は、深く強くえぐられた。
 病を得る前までは、微笑んでくれた顔だった。
 病の最中は、心底案じてくれた顔だった。
 励ましてくれた顔だった。
 それが、今は汚物を見るような目を向けてくる。
 誰の目に触れぬように。
 梵天丸は、自ら望んだのではなく、彼らにそういう顔をさせないために、それを選んだ。
 そういう目を向けられることを厭うのではなく、そういう顔をさせてしまう自分を恨んだ。
 すべては、病を完全に打倒せなかった自分の責任だ。病の名残を残してしまったがために、彼らにあのような顔をさせてしまっている。
 次期当主として、生れ落ちてより教育をされてきた梵天丸は、そう考えた。
 ならば、どうすれないいか。
 この身を隠す他に、幼い彼が出来ることは無い。
 子どもの考えることだ。隠れる場所は限られている。けれど、子どもの体であるから、小さな隙間にも入り込める。
 積み上げられた薪の隙間。土蔵の影。庭石と低い庭木の間。納戸の奥や厩の藁の中。
 どこに隠れて小さく膝を抱えていても、小十郎は必ず梵天丸を見つけ出し、不安に揺れる瞳を包むような笑みを湛えて、爛れ醜い右目から目を逸らすこともせず、それごと抱きしめるように、梵天丸を抱き上げた。
「このようなところに、おられたのですね」
 そう、安堵と遊びの狭間のような声音で言いながら。
 そんなふうに見つけられることに、梵天丸は一縷の望みと甘えを感じていた。
 それが絶望に変わったのは、母に拒絶をされた時だ。激しい嫌悪と憎悪の言葉。我が子では無いとまで拒絶をされ、けがらわしいと跳ね付けられて、梵天丸は抱えてきた、向けられ続けた負の感情を溢れさせた。
 泣き叫び暴れる梵天丸を押さえつけ、小十郎が爛れた肉を削ぎ落とし、痛みに気を失った彼を抱えて医者に見せた。
 目覚めた梵天丸は、虚のような目をして部屋の隅でひっそりと過ごすようになった。
 食事を受け付けず、言葉も発さず、人形のようになってしまった彼を、大人たちはうわべでは憐れみ、心中では気味悪がった。
 そんな彼に心底の想いをかける者の中に、小十郎はいた。繰り返し梵天丸に語りかけ、無反応の彼を抱きかかえて散歩に出かけ、彼を嫌悪しない者と合わせ言葉をかけさせ、季節の移ろいに触れさせた。
 小十郎の手からならば重湯を口にするようになり、やつれ青白かった梵天丸は、ゆっくりと命の赤味を頬に戻していった。
 虚のようだった瞳に、光を宿し始めた。
「こ、じゅうろ」
 長らく使っていなかった声帯を震わせ、やっとのことで梵天丸が口にした音は、いつもそばにいる男の名だった。
 蚊の鳴くほどに、かそけきものだった。けれど全霊を梵天丸に添わせている小十郎の耳には、はっきりとした音として届いた。
「いかがなさいました」
 緩慢に視線を合わせた梵天丸が、手を伸ばして小十郎の首にしがみついた。小さな体を、恐ろしく大きな陰気にさらされ続けた小さな魂を、小十郎は全身でくるむように抱きしめた。
「こじゅ、ろ」
 耳元で、梵天丸がかすれた声で呼ぶ。
「おかえりなさいませ。梵天丸様」
 虚となっていた彼の体に、意識が、心が帰って来たことを、小十郎が迎えた。
「おかえりなさいませ。きっと、御帰りになられると信じておりました」
 梵天丸の小さな手が強く小十郎に縋った。応えるように抱きしめ返すと、堪えていたものを吹き出す様に、梵天丸は声を上げて安堵の涙を溢れさせた。
 食事を取るようになった梵天丸は、今度は次期当主は弟に、という環境の中に生活をすることになった。片目が見えない。武門の子として、それは致命的であると誰もが思った。美しい容姿であるがゆえに、梵天丸の右目の不在は凄味を持って人の目に映った。畏怖のようなものを抱える者も、少なくなかった。それが嫌悪となり、梵天丸はまた、隠れる癖を出し始めた。
「ああ。ここにおられましたか」
 その日も、梵天丸は人々が屋敷をうろつかぬようになる夕刻まで、ひっそりとしておこうと石灯籠の影に隠れて座っていた。ひょいと顔を覗かせた小十郎は、当たり前のように梵天丸を抱きかかえ、屋敷に戻る。
「小十郎」
「はい」
「なんで、俺を見つけられる」
 それに、小十郎は意外そうに眉を持ち上げた。腕の中で、梵天丸は真剣に小十郎の答えを待っていた。
「梵天丸様の右目を切り落とした瞬間より、私は貴方様の右目だからです」
 きょとんとする梵天丸に、小十郎は穏やかに言葉をつづけた。
「貴方様の右目である私は、梵天丸様を見つけられるのですよ」
 慰めもごまかしも含まない小十郎の瞳に、梵天丸が映っている。此処に居るんだと、自分は此処に居ると訴えている小さな魂が、映っていた。
「ですから、どこにおられても、必ず見つけます」
 決して強い口調では無い。静かな、ささやきにも似た言葉に、梵天丸の意識は激しく揺さぶられ、向けられる嫌悪や憎悪から逃れるために作り上げた透明な壁を打ち崩した。
 ぽす、と梵天丸が小十郎の肩に顔をうずめ、甘えるように擦りついてくる。
「こじゅうろぉ」
「はい」
「小十郎」
「梵天丸様」
「小十郎」
「梵天丸様」
 繰り返し、存在を確かめるように名を呼びあいながら、梵天丸は小十郎の香りに包まれ、骨身に沈む陰気を溶かした。
 ああ、そうかと記憶から意識を戻した政宗は、土の具合を指で擦り確かめている小十郎を見る。
 ありのままを受け止めると言う事は、そういうことか。
 森を見回し、ほほ笑んだ。
「柔らかく、良い土ですな」
 大地は、何もかもを等しく受け止める。どのようなものであっても、等しく。
「いろんなモンを、しっかりと、ありのまま受け止めてるからだろうぜ」
 ぐん、と腕を伸ばして凝った体をほぐした政宗は、天を仰いだ。
「いい、森だ」
 この森のように、全てを受け入れられる器のある天下を。
「いい、森です」
 この身に納まりきらぬほど、強く度量に優れた右目と共に目指し、歩んで行こう。
「小十郎」
「は」
 ニヤリと口の端を持ち上げた政宗は、何も言わずに小十郎に背を向け、帰路につく。その背を、小十郎が守るように寄り添い追った。

2013/06/04



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