音もなく、雨が降っている。 霧雨では無い。それよりも粒が大きいが、音は無かった。 うっすらとしらんでいる景色を、片倉小十郎は目じりを細めて眺めている。 穀雨。 長い冬の間、じっと息をひそめ凝らせた命が、一斉に噴き出す東北の春。それを静かに助ける雨を眺めながら「春雨降りて百穀を生化すればなり」 くちずさんだ。 これから収穫の時期まで、農夫たちの戦が始まる。命を繋ぐために必要な「食」を支えるための、戦が。 ふ、と軒先に傘の端が見えた。小十郎の目が、緩む。「政宗様」 声をかけると、なんともいえない微笑を浮かべた主、伊達政宗が姿を現した。「すぐに支度をいたしますので、お待ちください」 小十郎の言葉に、安堵したような気色を見せた主が傍により、縁側に座る。「こう、雨続きじゃあ退屈で仕方が無ぇ」 ぼやく声は、ほんとうに迷惑そうではなく、話のきっかけを作るためと響いた。「私は、政宗様が目を離したすきに遠駆けに出てしまわれたりなされないので、ようございますが」 ちっ、と冗談めかして舌打ちをされる。それに少しだけ困った色を乗せて眉を下げた。「それでは、参りましょうか」 沓脱石にある草履に、足を入れた。 す、と政宗が立ち上がり自分の傘を差し出す。それを受け取ると「行くぞ」「はい」 ゆるゆると、歩を進める。 べつだん、目的の場所があったわけではない。 ただ屋敷の中にこもりきりでは、気がふさぐ、という程度の外出だった。 音のない雨の里を歩いて行く。 しっとりと濡れたあぜ道の草が、作付けを待つ田畑が、命の香りを立ち上らせている。雪の覆いを取り払われたことを、二人に伝えてきていた。「政宗様」「Ah――?」 ふと思い立ち、小十郎の足先が方向を変える。政宗が濡れないよう気遣いながら小十郎が進んだ先は、牛小屋だった。「こちらへ参られるのは、初めてでございましたな」「厩にゃ、しょっちゅう顔を出すが、牛には乗らねぇからな」 ふ、と互いの口元をほころばせ牛小屋の扉を開けると、むわ、と雨に蒸された馬とは違う獣の匂いと、干し藁の香りが現れた。 んぉおぉおお、と牛が鼻にかけたような声で言うのに傘をたたんで中に入り、鼻づらを叩くように撫でる。「皆、元気そうだな」 彼らは、田畑を耕すのに欠かせない労働力であった。荷を運ぶのにも重宝をする、大切な働き手である。 んぉおおおぉお、んもぉおぉおお、と小十郎に答えるように声を上げる面々に、政宗も近づいた。「うぉっ」 べろりと長い舌が伸び、政宗を舐めた。「はは――政宗様、どうやら、気に入られましたな」「こいつらも、大切な奥州の一員だ。気に入られて当然だろう」 にやりとする政宗が、牛を撫でる。ふと目があい、彼らの包み込むようなまなざしに胸が揺らいだ。「政宗様」「なんでも無ぇ」 ふ、と頬を上げた小十郎が、不思議そうな、何かを語ろうとする子どものような目で牛を見る主の様子を見つめる。 この場所に連れてきたのは、ほんの少しの思いつきからだった。 牛の、馬と似通っている部分とそうではない部分。母性のようなまなざしに、触れさせたいと歩きながら思い立った。それは、音もなく包み込み、沸き立つ息吹の助けとなる雨のせいなのだろうか。「ん?」 牛と無言で語らっていた政宗が、奥に居る牛に気付く。他の牛より胴が太く乳の張っている姿は――「腹に、ガキがいるのか」「もう間もなく、生まれるかと」「Fum――」 しばらく眺め「春、だな」「はい」 温かなものを残し、牛小屋を後にした。 雨は変わらず音を立てず、存在していないふりをしながら、少し川の水嵩を高くしている。 今度は政宗が先導し、川べりを進んでいた。 傘を差し、小十郎が従う。 無言の会話を楽しみながら進む二人の前に、景色に滲む薄紅があった。太い幹の下で足を止め、見上げる。 音が無くとも重さはあるようで、雨を受けた花が小さく揺れていた。 濡れ、景色にぼかされた薄紅は、ひらり、ひらりと雨と戯れながら踊り落ちる。「雨天の花見ってのも、風情があっていいもんだな」「何か、ご用意いたせばようございましたな」「かまわねぇよ」 傘から出た政宗が、桜の幹に寄りそう。体を預け、目を伏せて耳を傾けるのを、小十郎は傘を差したまま見守った。 ここ奥州の春に響き始めた鼓動を、息吹を確かめるような外出に、政宗の成長を思う。 目に見える背よりも、ずっと大きなそれを小十郎の目は映していた。 すべての命を背負い、飛び立とうとしている若き竜が、そこに居た。「政宗様」「Ah――」 たっぷりと時間をかけて瞼を持ち上げ、幹から体を離した政宗の顔は、深く静かに猛っている。「参りましょう」「ああ――」 竜玉の差し出した傘へ入り、竜は静かに眠りから覚める。 噴き上がる、命の中で――。2012/04/20