セミが、鳴いている。共に有ってくれるものを求めて―― 雨のように降り注ぐセミの鳴き声に包まれた境内で、徳川家康は木の葉の隙間から注ぎ込む陽光に目を細めていた。 供回りには、誰もつれていない。 ただ、一人静かに、佇んでいた。「――ふう」 息を吐き、軒下に座り込み、目を閉じる。 度重なる戦。 彼がまだ、武器を手にして戦っていた頃より――いや、それよりもずっと前から、治まることの無かった争い。それを止めようとするものたちが起こす、命の――絆の断ちあい。それを終えるために捨てた拳で、友のたのみとする心に深く根付いた絆を粉砕した。 後悔は、うんざりするほどに経験している。息をひそめ耐える事にも慣れていた。――そうしなければ、絆を軽んじる世になってしまうと、思った。 掌を目の前にかざし、陽光を遮る。 この手でつかめるものを――いや、この手でつかまなければならないもののために、武器を捨てた。武器を持つことで塞がっていた手が、自由になった。握った拳の強さで砕けた友の願いが、血を流している。「わかっていたことじゃないか」 かざしていた拳を、握った。「――――覚悟を、したじゃないか」 爪が食い込み、痛みを伝える。 こんなものじゃ、無い。友の――石田三成の痛みは。 耳に、友の慟哭が響く。それが自分への怨嗟の声にかわるのを、腹心本田忠勝の背の上で聞いた。「――三成」 家康が砕いた絆は、それだけではない。豊臣秀吉を打つことで、彼を必死に止めようとしていた男、前田慶次とのそれもまた、粉となり指の隙間から零れ落ちた。 言い訳なら、いくらでも出来るだろう。 けれどそれは全て、自分を正当化しようとするだけの、むなしい行為としかならないと、家康は知っていた。 口にすれば、揺らぐ。 自分を信じ、支えてくれているものたちを、揺らがせてはならない。――何より、家康自身が、自分の弱さが揺らぐことを恐れていた。「情けないな、ワシは」 覚悟を決めたつもりでいても、ささいなことで揺らぐ自分を、誰にも――忠勝にすらも、見せるわけにはいかない。「わかっていたじゃないか」 情に厚い西海の鬼、長曾我部元親が傷つき復讐に彩られた三成を、捨て置けるはずは無い。「元親らしいじゃないか」 自分を納得させるために、口にした。 心のどこかで、彼は自分の元へ来てくれるものだと、思っていた。「元親らしいじゃないか」 もう一度、口にする。傷ついた三成には、元親のような男が必要だ。彼のように、わけへだてなく誰にでも笑顔を向け、もろ腕を広げて抱きとめようとする、男が――。 家康のもとへは、伊達政宗が参った。不敵な笑みを浮かべた、元親とはまた違った形で人心を掴む奥州の竜。 自分よりも、ずっと先に進んでいると思えていた男が、自分とともに有る。そして、彼の好敵手であり、家康が心の師と仰いでいる武田信玄の薫陶を受けた男、真田幸村は三成の元へ参じた。――これは、どのような流れを産むのだろうか。「真田の、あの真っ直ぐなところは」 三成の心にも、響くのではないか。そう、思える。意識せずとも、自分に正直ではいられない、自分に誠実な男の瞳には、三成は――家康はどう映っているのだろうか。「迷いが多いな、ワシは」 自分の思考に苦笑して、拳を下した。 思えども思えども、迷いは募る。募るだけで、何も変わりはしない。ただ、自分の胸に弱さを植え付け、それを広げていくだけだ。 わかっている。わかってはいる。けれど――「ワシは……」 多くの絆を守るために、自分の絆を気にしている場合ではない。それに、全ての絆が断たれたわけではない。変わらずに、家康を慕い、信じてくれるものたちがいる。それなのに――「失うものばかりに、気を取られてはいられないはずだ」 わかっている。わかってはいる。「三成――」 折に触れ、耳に蘇る慟哭の、なんと悲痛な響きか。「ワシは」 思いを、伝えた。けれど彼は、盲目的に秀吉を敬愛し、家康の言葉に耳を貸さなかった。いや――聞いてはくれた。けれど、彼は彼の信ずる道を、ほんのわずかな逡巡も見せずに選んだ。その瞬間、家康は三成と決別する覚悟を決めなければならなくなった。 わずかな期待を、愚かだと思った。自分勝手に浮かべた期待に、裏切られた。それに、傷ついている。「すべては、ワシの胸の裡のみのこと」 三成は、自分の思いのおよばぬほどに絶望し、裏切られたと感じているだろう。彼は彼で、家康を信頼し、共に秀吉の天下のために働いていると、信じていたのだから。「三成」 すまない、と続きそうになった言葉を飲み込む。謝ることは、許されない。謝ったとて、何になる。――自分に非があると伝えて、何になる。「覚悟を、決めたじゃないか」 予想をしたはずだ。三成を悲しみの沼へ落とし込むことを。彼が、自分を憎むことを。「情けないな」 心底、そう思う。 秀吉を討てば、多大な揺らぎが生ずることは、わきまえていた。そして、そのうえで目指す世を作ることを決めた。はっきりと、家康の目に浮かんだ世の中を創るために。 相変わらず日差しはまぶしく、セミの声はかしましい。「変わらないな」 夏が来ればセミが鳴き、共に有る相手を探す。 戦の世では、そのようなことを気にする余裕など、生まれない。子どもたちがセミを取りに走り回る余裕など、生まれない。「元親」 戦が終わってからが、民にとっての本当の戦なのだと、兄のような顔をして言った優しい鬼の言葉を、思い出す。「慶次」 惚れた相手と笑って暮らせる世の中を、と当たり前のことが当たり前ではいられない時代を、個人の目線で言える男の笑みを、思い出す。「ワシは――」 多くの英雄と呼ばれる男たちの背中を、見てきた。望むものを手に入れるために、辛酸を舐めなくてはならないことを、憶えた。そして今、はっきりとした世の中の構想が家康の中に沸き起こっている。それを形にしたいと、望んでいる。「ワシは――」 賛同してくれたものがいる。支えようとしてくれているものがいる。多くの絆が、家康の周りに紡がれて、絆の糸が布地となり、そしてそれをもっともっと織り込めてゆき、日ノ本の形の反物と成したいと、思いきわめている。日ノ本の形は、機織り機だ。その機会に、絆という名の糸を織っていく自分は、緯糸を通す器具となる。――織りあがった反物から、器具は外されてしまう。「ワシは…………」 家康の声が、セミの鳴き声にかき消された。 うつむき、ただ日の光を浴びてセミの声に包まれる。 ふと指に触れるものがあり、目を向けると「――!」 一匹の小猿が、心配げに家康の指に両手を添えて、見上げてきていた。「夢吉」 見覚えのある小猿の名を呼べば「キキッ」 返事をされた。「どうした。……ひとりか」 そっと掌で掬うように目の高さまで持ち上げると、首を傾げられた。そのまま顔によせると、ぺちりと鼻を叩かれた。「――え」 きりりとした顔の夢吉は、まるで家康を叱咤しているかのように見えて「はは――ありがとう」 礼を言えば、満足をしたように夢吉が頷いた。「そうだな――こんなところで、弱音に身を浸している場合じゃあ、無かったな」 すっくと立ち上がれば、夢吉が掌から飛び降りる。「慶次も、ありがとう」 声を張れば、気配が揺れた。おそらく、家康の姿を見止めてすぐに、気配を殺して隠れたのだろう。覇王となる前の秀吉を見知り、秀吉が覇王となる覚悟を決めたであろう出来事を、共に経験していながら道をたがえて進んだ男。器用に見えて不器用な彼が、旧友を討った相手に気まずさを感じない訳が無い。それでも、思い悩む様子に動かされ、夢吉へ傍に行くようにと、言ってくれたのだろう。 自ら作り出した暗闇の中に、蜘蛛の糸ほどに細く、強く輝く絆の糸が差し込まれた。 家康はそれに気づき、それに微笑み、それに手を伸ばし、掴める強さを失ってはいない。「ワシは、絆の力で天下を統べる」 セミの声が、家康の声に耳をそばだてるように、止んだ。「人々が笑い、手を取り合い、生きていける世の中を」 高らかに、宣言する。「大切な人と寄り添い、笑いあえる泰平の世を、ワシは作る!」 それが、大切な友の絆を断ち切った責任であると、思っている。「だから――――見ていてくれ」 道を誤りそうなときは、諌めてくれ。 虫のいい言葉は、胸中でのみ、つぶやいた。 ゆっくりと、大地を踏みしめ歩き出す家康の背に、多くのものがのしかかる。清濁併せて抱え上げ、未来へと運んでいくその胸に、砕いたはずの絆のかけらが絡んでいた。 後悔という暗闇に、孤独という名の深淵に、彼の心が落ち込まぬよう、支えるように、いくつもの絆のかけらが、絡んでいた。2012/07/27