暑い日差しを遮る風に目を細め、石田三成は土と緑の香りを深く吸い込んだ。 袴も付けぬ長着姿の彼は、街道脇の岩の上に座り、薄曇りの空と田植えをしている農夫らを遠目に眺めていた。 打つべき相手と心に決めた徳川家康が武士の頂点に立ち、表向きは天下が一つに集束してから初めて迎えた田植えの季節。三成は自分でも信じられぬほど、凪いだ心で過ごしていた。 むろん、初めからそうだったわけではない。 絆を訴え、絆を守ると言いながら、三成の持つ一番大切な、かけがえのない、彼を支えていた太い絆を断った家康を憎しみ抜いた。 全身全霊を委ねていた豊臣秀吉が討たれ、中空に放り出された三成の心は浮草にならぬため、家康を屠ることを支えとした。信頼をしていた彼に裏切られたという悲しみが、絶望が、恨みという形に変化した。 あくまでも三成と話し合おうとした家康。 切っ先を向けた三成を、拳で受け止めた家康。 その家康に打ち負かされ、気が付いた三成は生きていることを呪った。とどめを刺さなかった、とどめを刺すことをせずとも自分に勝利をした家康に、哀切に似た憎しみを抱いた。 殺せ、と目覚めた三成は叫んだ。 おめおめと、生きていられるか。 秀吉様の、半兵衛様の無念を晴らせずに、おめおめと生きながらえることなど出来るわけがない。 この場にいない家康に向かって吼え、暴れる三成を止めたのは、秀吉の旧友であり、彼が心なき人を演じていくのを止められなかったと悔やむ前田慶次と、家康の知己であり共に天下泰平を願っていたという長曾我部元親だった。 武勲の誉れ高い三成ではあったが、彼は鞭のようにしなる細身であった。対して、彼ら二人は隆々とした筋肉を纏っていた。体格差は歴然で、得物を持っていない三成は俊敏さを発揮する前に取り押さえられた。 そうして、言われたのだ。「秀吉が望んだ世の中を、三成はずっと一緒に夢に描いてきたんだろう。だったら、これからの世がそうなるように、生きて見守り、あの世に行ったら秀吉に教えてあげたほうが、ずっといいんじゃないか」 慶次の声音には、しみじみとした悲しみが宿っていた。「家康は、人の絆を守ろうとして、自分の絆をおろそかにして行ったんだ。アンタを殺せなかったのは、アンタが家康にとっての絆だからだろうぜ。わかってんだろ、そこんとこ。天下人ってぇのは、孤独になるって相場が決まってんだ。せめてアンタだけでも、家康の絆として残ってやっちゃあくれねぇか」 元親の声音には、切々とした寂しさが含まれていた。 旧友を討たれた慶次にも、世間的には配下という形となった元親にも、家康は遠慮を腹に抱えて接するだろう。 三成の脳裏に、苦々しく寂しげに笑う家康が浮かび上がった。最後の死合と切っ先に魂を乗せて斬りつけた刃を受け止められた時に、間近にあった家康の目の奥に光る弱さを、確かに見た。それに苛立ち振り払い、湧き上がった情念のままに知らず動きが乱れた三成の隙を、家康は突いた。 意識を失う前に見た、家康の表情はどうだったか――。 三成の記憶の中にある家康の、さまざまな顔が急激に意識の中に浮かんでは弾けた。朗らかな顔が、いつしか痛みや悲しみを堪えるものとなっていったことを、三成は気付いていた。気付いていながら、どうすることも出来ぬ自分の歯がゆさを抱えていた。それが苛立ちとなり、自分に無益な助言をしてこようとする家康への、邪険の行動となって現れた。「家康」 ぽつりとつぶやいた三成は、取り押さえてくる腕から零れ落ちるように、力を抜いて座り込んだ。 それから、三成は長曾我部領の食客となり、自分の事を気にかけて留まっているらしい慶次と共に、元親のやっかいになっていた。 三成の目に、刃を持っていた手が、人の命を奪った手が、命を繋ぐための稲を手にし、稲の命を育てるために土に埋めていく姿が映る。 どの顔にも安堵が見えて、希望が見えて、三成は目を細めた。 飽くことなく眺めていた三成の耳に、聞きなじみのある足音が届く。けれど三成は顔を向けることもせず、ただ真っ直ぐに顔を向けていた。 足音が、間近で止まる。 迷う気配が、空気を震わせ肌に届いた。 気づいていながら、三成は何の反応も示さない。 しばらく気配は迷い続け、息の吸う音とともに固まった。 しっかりとした気配が、視線が、三成の頬に触れる。「三成」 緊張気味の、少し震えている声に顔を向ける。声そのままの表情で、自分が憎しみを向けていた男が、天下人となった徳川家康が立っていた。 三成が無言のまま、表情をわずかにも変えずに見続けていると、家康は頬を無理やり持ち上げて、ぎこちない笑みを浮かべた。「久しぶりだ。すっかり、体は良くなったと聞いて……ああ、いや。その、なんだ」 自分が手傷を負わせたのに、そんなことを言うのはおかしいなと、家康が頬を掻く。眉根を下げて情けなくも頼りない笑みを浮かべている男は、天下人になど見えなかった。「情けない顔をするな。家康」「えっ」 岩から、三成が立ち上がり真っ直ぐに家康に体を向ける。「秀吉様が成さんとした天下統一。それを、貴様は成しえた。そんな男が、情けない顔をするな」 吐き捨てるように言えば、そうだなと力なくつぶやいて、家康は俯いてしまった。それに苛立ちを浮かべ、胸ぐらをつかむ。「そういう顔をするなと言っているのが、わからないのか家康!」「三成」 狼狽を浮かべた家康の目に、怒る三成が映りこむ。「秀吉様の望んだ世を、強い国を、貴様は違う方法で実現をするために天下人となった。違うのか」 家康が息を呑み、瞳を力強く輝かせた。「違わない。――三成、ワシは」「言い訳も説明も、聞く気はない! 行動で示せ。私の眼(まなこ)に突き付けて見せろ! 貴様が誤るのなら、私は容赦なく貴様を切り捨てる! あそこにいる者たちが、再び手を血に染める戦乱の世が戻って来たとしてもだ!」 家康の目が、大きく見開かれた。「三成、それは……」「貴様のそばで、私が監視をしてやると言っている。他の者が、天下人となった貴様に文句を言えぬというのなら、私が貴様に否と言ってやる」 家康の驚きに見開かれた目が、違う驚きの色に彩られた。「――ああ、ああ、三成! そうだ。ワシのこれから進む道を見ていてくれ。絆を胸に泰平となっていく世の中を、見続けてくれ三成!」「むろん、形部も共にあるぞ、家康。拒否は認めない。未だ伏している形部が健やかになれば、貴様のもとへ共に行く。いいな」「ああ、もちろんだ三成! いつでも、迎え入れよう。二人とも、ぜひ友としてワシに意見を述べてくれ!」 満面を輝かせた家康に、忌々しそうに眩しそうに目を細めた三成が、ふいと顔をそらして彼の横を通りずぎ、世話になっている屋敷へと歩き始める。「さっさとついてこい、家康! 形部のもとへ行くぞ」 背中越しに鋭い声をかけた三成の唇は、ほんのりとした笑みに彩られていた。2013/05/19