ほてほてと、薄い足裏の肉をひんやりとした床板に、体重がかかりきるまえに押し付けては離して歩く猿飛佐助が、いつまでも寒いねぇ、と口の中で誰に言うともなくつぶやいた。 気温は、冬と比べれば雪解けの街道のように、ぬかるんでいる。溶けかけた雪が土と交じりあうように、気温も冬の透明さを溶かし、春の命の先駆けと交じり合い、穢れていく。 ふ、と庭先に目を向けた佐助の足が止まった。 今度はしっかりと、床に体重がかかった。「旦那」 声をかければ、ぼんやりと空を見上げていた旦那が、真田幸村が夢の中にいるような緩慢さで振り向き、表情をほころばせた。「ああ、佐助」「ああ、じゃないよ旦那。雨の中、なんで庭でぼんやりしてんのさ」 庭は、絹のように細かく滑らかな雨に、彩られていた。「ん――うむ。…………何故だろうな」 笑みを浮かべたまま、幸村が少し首を傾ける。「もう。ほら、はやくこっちに来て」 佐助に手招かれるまま、幸村はふわふわと絹雨の中を移動する。触れているのかいないのか、わからぬほどの雨であるのに足元はしっかりと雨天の日のそれであった。 土交じりの水を、わずかに弾きあげ裾を汚しながら、幸村が佐助の傍に来た。「もう。こんなに濡れて」 張り出した屋根の下に来た幸村の、髪を軽く払う。やわらかな栗色の髪が揺れて、砂粒ほどの雨の玉が揺れて落ちた。「手ぬぐいを持ってくるから、ちょっと待っててよ」「うむ」 ぱたぱたと、佐助が去って行くのを見送った幸村は、空に顔を向けた。 霧が凝り固まったような空から、はみだしたものが地上へ舞い降りてくる。「――…………」 薄く唇を開いた幸村は、音にならぬ呟きを発して目じりを下げた。 気だるげに壁に背を預け、立てた膝に腕を乗せ、ぼんやりと庭先を眺めている。 意識を向けているのかいないのか、眺めている伊達政宗の左目は、眠りに入る前のようであった。 どのくらいそうしていたのか、意識すらもしないほどに眺めていた政宗の耳に、馴染んだ足音が届く。そのまま動かずにいれば「政宗様」 やはり馴染んだ声が聞こえて、口の端に薄い笑みを乗せて、腹心の片倉小十郎へと顔を向けた。「Ah――」 政宗につられたように、小十郎も眉を柔らかくして膝を着き、尻を落とす。「……良い、雨ですな」 庭に顔を向けた小十郎が、陽気に緩んだ声を出した。低く響く温かな声音に、政宗は小さく、小十郎の耳に届くか届かないかの同意を示す。 庭は――里は、薄い天女の羽衣のような雨に、覆い尽くされていた。「雪が溶け、山より流れ出る水の豊かさに、田畑も潤いましょう」「農作物のことしか、頭に無ぇのかよ」 皮肉に、気安い親しみを込めて唇を歪ませた政宗に「田畑が潤えば、民が健やかとなります。民が健やかとなれば、兵も和やかとなりましょう。そうなれば国は豊かになり、そのすべてが政宗様を支えることとなります。すべては、貴方様の御為」 小十郎が、天気の話をする程度の心持で、口にした。「ったく……小十郎」「は」「――いいや。なんでも無ぇよ」 政宗の胸が、くすぐったさに震えた。「ですが、政宗様はその事をお喜びになるよりも、別の事に胸を震わせているのではありませんか」 ニヤリと、政宗が目を細める。「その右目が、うずいているのではございませんか」 政宗の手が持ち上がり、光の無い右目を覆う眼帯に触れた。「わかってんじゃねぇか」「ほどほどに、なさってくださいませ」「アイツ相手に、ほどほどでいられねぇってことは、わかってんだろ。小十郎」 困ったように、小十郎が微笑む。「まったく……」 いたずらを容認する笑みに、政宗が得意げに悪童の顔を向け、庭先に――それよりもずっと奥にある山の先に、意識を向けた。「山は、街道は――残りの雪をこの雨で溶かしちまうだろうな」「ええ……命萌ゆる春を、待ち望んでいた万物の全てを、この雨が目覚めさせましょう」「忙しくなるぜ、小十郎」「冬の間も、私は忙しくさせていただいておりました」 ちくりと皮肉を込めた眼差しに、政宗が舌を打ち、唇を尖らせる。「雨が止んでも、すぐに遠駆けに出るなどとは、おっしゃらないでいただきたい」「まだ、何も言ってねぇだろうが」「顔に、雨が上がれば里や山を見に行こうと、書かれておいででしたので」 チッと口内で音をさせた政宗に、地上を覆い温める絹雨のようなまなざしを浮かべた小十郎が、政宗の視線の先にある同じものを見ようと、首を動かす。「良い、雨ですな」「Ah……良い、雨だ」 つぶやきを消すほどの音すらさせぬ雨が、しずしずと命を起こすために舞っていた。「旦那っ」 ばさっと幸村の頭に手ぬぐいをかぶせた佐助が、わしわしと乱暴に、けれど優しく彼の髪を拭く。「着替えも用意したから、軽く体を拭いながら上がって」 幸村の髪を拭いた手ぬぐいを床に広げ、別の手拭いを差し出す佐助に頷く。「すまんな、佐助」「そう思うなら、雨の中に用も無いのに佇まないでくれる」「うむ……」 抗議をするような響きを含ませ、声を落とした幸村に佐助は首をかしげた。「何。なんか、雨の中に用事でもあったの?」 脱いだ幸村から着物を受けとり、ばさばさと露を払いながら問う。「何やら、もどかしくなってきてな」「もどかしい?」「うむ」 手ぬぐいで体を拭いた幸村が、佐助の用意した新しいものに袖を通す。「こう、じわじわと体の奥より何かが湧き出てくるような、そんな心地がするのだ。けれどそれは、爆発するような滾りではなく、なんというか……その」 当てはまる言葉が見つからず、幸村は自分の持ちうる言葉の中から、なんとか表現に合いそうな言葉を探そうとし始める。「ううむ」 うなる幸村に、佐助の目じりが和らいだ。「この雨は、残っている雪を全部とかして、山からも里からも冬の名残を消しちまう」 ぱ、と顔を上げた幸村に、佐助がにっこりとした。「忙しくなるぜ、旦那。おそらく、奥州のだれかさんたちも、同じことを考えてるんじゃない?」 それに、幸村が顔を輝かせた。「そ、そうか」「きっとね」「うむ、そうか……そうか」 幸村が子どものように、わくわくとしながら拳を握り見つめる。「ほらほら旦那。春になったとはいえ、まだ山には雪がちょっぴり残っているし、朝夕は冷えるからさ。濡れたまんまじゃ、風邪ひくぜ。火鉢に炭を入れてあるから、髪を乾かして」「うむ。……佐助」「なに?」「茶を二つと、茶請を頼む」「誰か、客人でも来るの?」 佐助の問いに、幸村がにっこりとした。「佐助と茶をしながら、この雨を楽しむにきまっておろう」 目を丸くし瞬かせた佐助が、絹雨のようにやわらかく唇をほころばせた。「とびっきり美味しいお茶を、淹れてくるよ」 しずしずと、まだ目覚めきらぬ命を揺り起こす雨が、舞っている。冬に眠っていた、すべての命を目覚めさせるために。圧倒されるほど、むせ返るほどに激しく興る夏の準備を始めよと――。2013/03/29