良い香りを含んだ湯気が、室内に広がっている。「冬はやっぱり、鍋だよねぇ」 湯気のように、ぼわりとした声が漂う。「一人鍋も楽しいけど、大勢で食べる鍋も、格別だからねぇ」 歌いだしそうな気色で言うのは、鍋奉行と称する小早川秀秋。役職の“金吾”を通称とされることが多い彼は今、囲炉裏に板を取り付け机の形を成し、ヘリに綿入れをつけた“変形炬燵”の真ん中で煮えている鍋の具合を確かめている。「長曾我部さんは、すごいよねぇ。こんな素敵な食卓を作ってくれるんだから! 鬼って言われている人だから、どんな怖い人かと思ったら家康さんくらい優しいんだもん」 うふふ、と灰汁を取りながら一人しゃべり続ける食卓炬燵には、もう二人居た。 一人は、九州にザビー教大国を築くことを夢見ている大友家の当主大友宗麟。もう一人は自分を「羽州探題」または「羽州の狐」と称している最上家の当主最上義光。 彼ら三人が共に鍋を囲むという事態に陥ったのは、まったくもって些細な出来事であった。 ある時、最上義光が記憶喪失時に大友領に入った折、ザビーと愛について語り合った仲と詐称し、宗麟にわずかな間ながら畏敬の念を持たせたことがある。その時のことを苦く思っていた宗麟はふと、彼を布教活動に使えないかと思いついた。「これこそ発想の転換! なんて素晴らしい案を思いついたんでしょう! 宗茂! 宗茂!! 今すぐあの不埒者を懐柔する策を用意するのですっ」「わ、わが君……順を追って説明していただけませんか」 狼狽える立花宗茂に、思いついた妙案を披露する宗麟の顔はこの上なく、まぶしかった。 時を同じくして、最上義光は記憶を失っていた時の崇拝される声の心地よさを、漠然と思い出していた。「ふうむ。我輩にふさわしい賞賛の声を受けていたような気がするよ」 キュッと立派なカイゼル髭を引っ張り、優雅な所作で玄米茶を啜った彼はウムムムムムとうなった後、高々と湯呑を持ち上げた。「そうだよ! あの賞賛をもう一度! 我輩にふさわしすぎる声に包まれて過ごすのは、この羽州の狐にとっては至極当然の事のはず!! そうと決まれば、この狡くて賢い狐の策で、ざびぃどん教の人たちを取り込んでしまおうじゃないか」 言いながら、くるくると舞いつつ配下の者たちへ下知すべく移動する彼もまた、陽光にきらめく湖面のようであった。 と、まぁ――そんなこんなで何がどうしてこうなったのかは省略させていただくこととして、人間は食事をしている時と満腹時は思考力が低下して懐柔しやすいという案にたどり着いた両名は、戦国一の食いしん坊と言っても過言ではない、人畜無害―配下の者にとっては有害かもしれない―な金吾を中心に、旨い鍋でもつついて話をしようということになり、このような仕儀と相成った。「さぁ、そろそろいい具合だよぉ」 呑水にとりわけ二人に渡し、金吾が両手を合わせる。「天海様が遅いけど、先にいただいちゃおう! いっただっきまーす」 はふはふと食べる姿は幸せそのもので、見ているほうも思わず微笑んでしまいたくなるくらいだが、腹に思惑を秘めている二人は金吾の様子には目もくれず、相手を懐柔する隙を伺いながら箸を手にした。「んん、これは――なんという美味。さすがは鍋奉行の佐藤君だねぇ」「佐藤じゃなくて、小早川だよ」「おお、なんという滋味に満ちた鍋! ザビー様も、これを食べれば思わず羽ばたいてしまいそうです」「えへへ。なんだかよくわからいけど、そんなに美味しい? もう、じゃんじゃん食べてよ」 二人の褒め言葉にウキウキと取り分けつつも、絶妙な時機で具材を足していく金吾。それにつられたように箸を進めながら、宗麟は義光を――義光は宗麟を伺いながら食べ進めていく。「宗茂さんたちも、一緒に食べればいいのに」「宗茂が居ると、口うるさくて堪能できないんですよ」「おやおや。山田君は食べている最中に注意をされてしまうのかね? 我輩のように、優雅に食事ができるよう存分に見て参考にしたまえ」「僕の名前は大友宗麟です。なんて失礼な……ああ、いや。いえ、何でもありませんよ。優雅な振る舞いとは、我がザビー教の皆にも見習わせたいものです」「おお、ざびぃどん! 懐かしい名前が出てきたねぇ。いや、君の領内に行ったとき、我輩はついつい紳士的に控えめであるがゆえに、知らないと言ってしまったんだが……いや、こうして鍋をつつきながらだと素直になれるのか、正直に言おう。我輩は天使であり紳士であり賢い狐でもあるのだよ」 びよよんっ、と言葉に反応するように髭が跳ねる。跳ねた勢いで、鍋の出汁が飛んだ。「――えっ……まさか、そ、そうだったんですか」「いかにも。そうだったんだよ、安藤君」「あぁ、なんということでしょう! それでは――是非、僕の領内……いえ、日ノ本全土をザビー教大国にすべく、力添えをしていただけませんか!」「ぅうん? ざびぃどん教大国か――ふぅむむむ。それはいささか、難しい問題だねぇ――なにせ、我輩は控えめ紳士であるからして、表舞台にきらびやかに登場するのは気が引けてしまうのだよ」「あれ? 最上さん、ここに来るとき素敵に無敵な踊りと足取りで現れなかったっけ」 金吾の声に、パチリと片目をつぶって見せた義光は人差し指を左右に振って見せた。「それは、我輩の隠しきれない素晴らしい資質が、漏れ出てしまったんだねぇ」「ああっ、なんという! さすがはザビー様と愛を語り合ったという人物です。その素晴らしき資質で、是非とも布教の手伝いを!」「あ、魚介類は早くあげないと固くなっちゃうからね。はいっ」「んっ。なんとも美味だねぇ、工藤君」「ほんとうに、ほっぺがとろけおちそうです」 はたから見れば、幸せそうな食事の時間にも見えなくもない状態で、腹に何もない金吾は鍋で腹を満たし、腹にイチモツを抱えている二人は鍋の美味によりだんだんと計画を忘れ始めていく。 すっかり腹に抱えていた算段が鍋料理に取って代わられようとした頃、天海がひょこりと顔を出した。「おや、みなさん。すっかり遅れてしまいましたねぇ」「あ、天海様。遅いよぉ」「ふふ、申し訳ありません金吾さん。ちょっと、素敵な食材を手に入れようとして遅くなりました」「えっ。素敵な食材」「はい。めったに手に入らない、それはそれは素晴らしい野菜なのですよ」 言いながら、取り出した緑色の何かを鍋に投入し、空いている席に坐した天海が箸をとる。「うふふ。いつにも増して、おいしそうな鍋ですねぇ」「いろんな具材の味が染み出ているからね。最後は、雑炊にしようね天海様」「おやおや、金吾さん。よだれが落ちそうですよ」 天海の登場で、宗麟と義光の意識が彼に移動する。「天海様は、とっても素晴らしいお坊さんなんだよ」 誇らしげな金吾に、いやそんなとほほ笑む天海。探りを入れるような目の宗麟と、何も考えていないような義光の視線を受けながら、天海はつまんだ野菜を口に運びかけ、手を止めた。「おや、私としたことが。これでは食べることができません。――まぁ、生臭が入っていたお鍋ですから、もともと食べることはかないませんけれど。ふふふ」「もう、うっかりさんだなぁ。天海様は」「いえいえ、金吾さんほどでは、ありませんよ。ああ、そうそう――そろそろ私が持ってきた野菜が、いい具合になっているのでは無いでしょうか。どうぞ、遠慮なく召し上がってください」 言いながら、鞭のようにしなった天海の両腕が双方に掴んだ箸で鍋の中の、彼が用意した野菜をつかみ、宗麟と義光の口に突っ込んだ。「ふぐっ」「んむむっ」「さぁ、遠慮しないで――さあ、さあっ!」 ぐいぐいと口の中に押し込まれ、どうにもできずに苦労しながらも咀嚼し、飲み込み終えた二人が息をついた瞬間「うっ」「んぐっ」 青い顔をし、のど元を抑えて苦しみ始めた。「わわっ、ど、どうしちゃったの二人とも」「おや――もしかしたら、のどに詰めてしまったのかもしれませんねぇ。のどに詰まったときは、叩いてあげるのがいいんですよ」 シュッと空気を切り裂いた天海の手刀が首に決まると、声を上げることなく二人は倒れこんでしまった。「わぁあ! 天海様ぁ……これって、大丈夫なの?」「おやおや。もしかしたら、野菜がまだ煮えていなかったのかもしれませんね。私としたことが、うっかりしました。残念ですが金吾さん。雑炊はあきらめて、口直しに甘味でもいただきませんか」「――天海様、いったい何を鍋の中に入れたの」 にっこりほほ笑んだ天海が箸でつまみ上げたのは、オッサンの顔のついた――もとい、ザビーの人面相が浮かんだ瓜のような野菜だった。2012/02/04