ふわふわと、綿毛のような雪が舞う浜辺で、くるくると漆黒の髪が躍る。「ゆらりゆらゆら……ふふ、ふふふふふふ」 あどけない少女のように歌い、うちよせる波に溶ける雪に微笑みかける。「お市ちゃん、あんまり海に近づいたら危ないですよっ」「きゃ」 砂に足を取られた市が体勢を崩し、打ち寄せる波に倒れこみかけると地面から黒い手が伸びて彼女を支え、目を丸くする鶴姫の前まで市を運ぶ。「ありがとう」「危ないところを助けてくれるなんて、素敵な手ですね」「みんな、大切な市のお友達なの」 ふふ、と笑いあう二人の背後には、巨大な鍋が煮えている。そのそばに、鍋の火加減を慎重に見定めている小早川秀秋――通称金吾と彼女らをほほえましく見守る天海、そして漁網を担いだ長曾我部元親の姿があった。「こうしてみると、平和そのものなんだがなぁ」「ふふ、お二人とも楽しそうで何よりです」 どさり、と魚介類の詰まった網を下すと、金吾の顔が輝いた。「うわぁあ、おいしそう」「今朝、水揚げしたばっかりの魚介類だ。たんまり用意したから、遠慮なく食ってくれよ」「うんっ!」「おやおや、金吾さん。よだれが垂れてしまいそうな顔をしていますね」「だってぇ、天海様。こぉんなに沢山の魚介類だよ。絶対美味しい鍋が出来るんだもん」「ふふ。本当に、金吾さんはお鍋が大好きですねぇ」「同じ釜の飯ってぇ言葉があるが、一緒に鍋をつつけば、なんつうかこう、距離が近くなった気がするってぇのか、気心が知れるような気がするな。なんつっても、食うってのは生きることに直結するからよ」「おや。さすがは西海の鬼と呼ばれる方ですね。食べることが生きる事とは言い得て妙。ふふ、感服いたしました」「坊さんに感服されるなんざ、思わなかったぜ」「ねえねえ、いい具合だからはじめちゃおうよ」「おう、そうだな。おい、野郎ども! 鍋の会を始めるぜ!」 おぉおお、と野太い歓声が上がり、雪と舞っていた市と鶴姫が顔を向ける。「お鍋、はじまるみたいですよ。行きましょう」「うん」 手を取り、二人が鍋の傍による。多くの鍋が並ぶ中、咳ばらいをした金吾が口元に手を添えて叫んだ。「みんなぁ! お鍋に入れる順番と火加減、間違えないようにねぇ! 魚介類は、ちゃんと沸騰している所に入れないと、生臭くなるよぉおお」 浜辺に集まった大勢の者たちがそれぞれに金吾の声にこたえ、鍋会が始まった。「わぁ、いい香り」「姫御前、熱うございますので、お気をつけくださいね」「はい! お市ちゃん、欲しいものがあったら何でも言ってくださいね。お椀に取りますから」「大丈夫。市のお友達が、取ってくれるの」 ゆら、と市の椀を手にした黒い手がよそおい、市に戻す。「ありがとう」「お市ちゃんのお友達は、みなさん優しくて親切ですね」 微笑みあう二人の姿に、複雑な顔で元親が笑む。「ああやってると、普通の……いや、あの手は普通じゃねぇけどよ。普通の可愛い娘さんにしか見えねぇんだがな」「お市さんは、おとなしくていい人だよねぇ」 んふんふと嬉しそうに海老の殻をむきながら金吾が言う。「おや、金吾さん。もしかして惚の字を描いている、なんてことはありませんか」「なっ、なななななな何を言ってるのさ天海様あぁあ」「なんだ。そうなのか」「ちっ、違うよぉお」 からかう顔になっている元親に大きく手を振って否定をした金吾の手から、剥きかけの海老が飛んで元親の眼帯に命中した。「おっ」「わぁ、ごめんなさい」 けたけたと笑って、張り付いた海老をつまみ口に入れる。「ん、旨ぇ」 わいわいと皆がそれぞれに鍋を楽しむ。燗をつけた者も居て、昼間から酒宴の様相を呈してきた賑わいから、ふらりと離れた市は海につけば消える雪に目を投じた。気づいた鶴姫がさみしげな背中に声をかけようとするのを、元親が止める。「もどってくるまで、少し待ってやれ」「でも」「望むと望まざると、でっけえ力を持っちまったんだ。魔王の妹ってぇことで、思うところもあるんだろう。好むと好まざると、地獄もさんざん見てきたはずだ。いきなり、こんな陽気な集まりになじんで全てを忘れろなんて、無理な話だぜ」「鬼と呼ばれるあなたに、お市ちゃんの苦しみがわかるんですか」「鬼、だからよ。地獄のことは、アンタよりは、ずっと知ってるはずだぜ」 市を理解しきれぬ自分の苛立ちを元親への怒りにすり替え声に乗せた相手に、柔らかな目を向ける。その奥に言い知れぬ悲哀を汲んで、鶴姫は口を閉ざした。「何の気負いもなく傍にいるってぇ事が、特別なことをするよりもずっと助けになる事だってある。アンタはあの姫さんに偏見も先入観も持たずに、今まで通り接してやりゃあ、いいのさ」「そうなんでしょうか」「アンタにしか、出来ねえ大事な役割だ。無理になんかをしようとする必要なんざ無ぇんだよ」「そう、ですか――そう、ですね。私にしかできないことなら、そうするように気を付けますっ」 ぐっと胸のあたりで両方のこぶしを握りしめた鶴姫を見、浜辺でたたずむ市を見て、元親は胸に深く息を吸い込む。「野郎ども、腹がはちきれるぐれぇ、気合入れて食えよ!」 楽しげな歓声が。響いた。 すぐそばにあるのに、ひどく遠い場所から聞こえてくるような楽しげな声を耳にしながら、市は海に落ちる雪を眺める。胸に手を添える彼女を気遣うように、漆黒の手が揺らめいていた。「ふぅ」 小さく吐き出した息に、目の前を通り過ぎようとしていた雪が揺れる。 ――市。 ふいに、かすかな声が聞こえた。 ――市。 今度は、はっきりと。「長政様――?」 瞬き、周囲を見回しても姿は見えない。にぎやかな声に紛れそうなほど儚い声は、しっかりと市の中に響いて聞こえた。 ――泣くな、市。「市、泣いてないよ。ねぇ、長政様――長政様も一緒に、食べよう」 ――市、申し訳なく思う必要は無い。遠慮をすることなど無いぞ、市。楽しめ。 わぁっと背後で歓声が上がる。「長政様、何処にいるの? 長政様――市を一人にしないで」 ――振り向いてみろ、市。一人じゃない。 首をめぐらせると、鶴姫と目があった。笑顔で大きく手を振っている。それに気づき、金吾が手招いた。「もうそろそろ、雑炊をしちゃうよぉ」 ――ほら、行け、市。 とん、と背中を軽く押され、足を踏み出す。 生きろ、という声と懐かしい香りが、市を包んだ。「お市ちゃん、早く来ないと無くなりますよっ」「煮詰まると、辛くなっちまうぜ」 明るい場所へ誘う声に、祈りの形に手を握り、彼女は一歩、踏み出した。 ――泣くな、市。 不安にかられると、必ず聞こえる優しい声に支えられて――――。2012/02/20