ほろほろと、蕾がふくらみほころび始めている桜の下で、前田慶次は友である小猿の夢吉と川遊びに興じている子どもたちを眺めていた。 春先の、まだ水の冷たい時分であるのに、下帯姿の童たちは高い声を上げながら魚を追いかけ、友とふざけあい、ずぶぬれになっている。 降り注ぐ陽光を含んだ慶次の唇が、ほうと息を吐いた。肩で、夢吉がうつらうつらと舟をこいでいる。それに目を向け、瞼を下すと太陽が眼前に迫ってきた。――視界が、赤い。 ――秀吉ぃ。 遠くで、楽しげに友を呼ぶ自分の声が響く。それは、懐かしい響きを持って、別離など夢にも思わなかった頃の気持ちを思い出させる。 無口な友は、いつも眉尻を下げた笑みを浮かべながら、慶次のいたずらに付き合ってくれていた。慶次も、情動のまま、思いつくままに行動し、彼を巻き込んでいた。 甘えていたのだと、思う。 彼の優しさに。彼の広さに。彼の、脆い強さに――。 そして自分は、そんな彼をかんがみることなく、彼に甘えるだけ甘え、彼の気持ちの変化に気付けなかった。彼を、見ていなかった。(だから――) だから、彼は離れたのだ。――優しい彼は、自分の想いを一人抱えて。慶次を巻き込まないように。 秀吉は、自分をよく理解していたのだと思う。――理解をしようと、自分を見ていてくれたのだろう。(だから――) 何も言わなかったのだ。言えなかったのだ。――俺が、秀吉をちゃんと見ようとしていなかったから。 母に甘える子どものように、その腕が失われることなどないと過信して、自分の事にばかり目を向けて。(秀吉) 風に乗って、声が届きはしないかと思う。(今なら――聞こえるんじゃないか) 聞く余裕が、出来たんじゃないか。 走り出した彼は、自分の持つ力に振り回されていたんじゃないだろうか。――思うよりも強大であった自分の力に、追い立てられてしまったんじゃないだろうか。(秀吉) 優しすぎる友は、最後まで優しすぎて――自分だけではどうしようも無くなってしまっていたんじゃ、無いだろうか。(半兵衛) 彼の傍に居た、彼の夢を支えようとしていた男を思う。彼もまた、弱かったのだろうか――それとも。(俺は――) きっと、秀吉の描く未来の夢を「違う」としか言えなかったのだろう。それを知っていたから、友は――離れることは無いと過信をしていた相手は、背を向けて届かぬ場所に立ってしまった。(気づいていれば) どうにかなっただろうか。――今でも、川遊びをしている童たちのように、自分たちも戯れていたのだろうか。(考えても、仕方のないことだけどさ) それでもふと、胸に浮かんでしまうのは、納得が出来ていないからだろう。 信念に沿って行動をした家康が、自分にぎこちない笑みを向けるように。 割り切れないものが、ある。だから、家康の自分に向けてくる笑みが、ぎこちないのだろう。 家康を、恨む気持ちは無い。どうして、という気持ちはあるが、それはたぶん――(秀吉を止められなかった俺の苛立ちを、すり替えようとしているだけだ) 下唇を噛み、目を開ける。子どもたちが、何かを見つけたようだ。集まって、なにやら相談事をしている。「ききぃ?」 心配そうな声と、いたわる手が頬に触れた。「ああ、夢吉――大丈夫だよ。ありがとな」 秀吉と離れた後、自分の事ばかりに向けていた目を、顔を上げさせてくれた小さな――大きな存在である友の頬を指先で撫でる。その向こうに、慶次から離れた後、秀吉の傍に居た男の姿が見えた。「――三成」 小袖に袴姿の彼は、遠目だと寄る辺のない迷子のようにも見える。「おおい、三成」 手を振って呼んでみても、彼が手を振りかえすことも、呼び声に応えることも無い。けれど、気付いていないわけではないと、まっすぐに向けられている視線で、わかった。(ほんとに) 不器用というか、なんというか――無口なところは、秀吉にそっくりだ。 そんなことを言えば、彼は少し顔をしかめ、鼻を鳴らして顔をそむけるだろう。言葉を発するとしたら「下らん」か「ばかばかしい」あたり、だろうか。「貴様、こんなところで何をしている」「何って――そっちこそ。どこに行く所だったんだ?」 軽い調子で返すと、鼻の頭に皺をよせられた。(あれ)「もしかして、俺に用があったのかい」 肯定も否定もせず、鼻を鳴らした三成が川に目を向ける。子どもたちが、杭にくくられた網を見ていた。「座りなよ」 慶次に目を戻した三成が、うながす仕草の夢吉を見、腰を下ろした。「いい、天気だよなぁ」 ぽかぽかと、温かい。「こういう日は、よく縁側で日向ぼっこをしていてさ――寝ていたら、秀吉が迎えにきてくれたんだ」 夢吉が、慶次の肩から三成の肩に移る。掌を差し出し、その上に乗った夢吉を見つめる彼の意識は、慶次の言葉に向いていた。「俺が寝ていても、おかまいなしでさ――こう、このへんを掴んで引きずっていくんだ」 襟元を自分でつかみ、持ち上げてみせる。「まつ姉ちゃんもビックリしながらさ、俺がずっと家でダラダラしているよりはいいって言うんだよなぁ」 三成に話すというより、自分の中で「秀吉」という存在を確認するように、慶次は言葉を紡ぐ。「でも、いたずらばっかり付きあわせてって、説教されるんだ」「いたずら――」「そう、いたずら。――――いろんなことをしたなぁ。寺の裏に入って、木彫りの仏像を置いてさ、読経に誘われて参った、とか木の上で言ってみたり、干してある藁を集めて、お化けのフリしたりとかさ」 三成には、それがどんなものなのかが想像がつかないらしい。眉間にしわを寄せて――けれど詳細を問う事なく、ただ耳を傾けている。「ほんと、楽しかったなぁ」 胸の奥底から出た声と共に仰いだ空は、どこまでも澄んでいる。「秀吉様に、迷惑ばかりをかけていたのか」 ぽつ、と三成が言った。目を向けると、咎める気色はみじんもない。ただ、話が聞きたいだけと判じて、慶次は笑った。「そうだな――迷惑ばかりをかけた。秀吉の、優しさに甘えて」「――秀吉様は、お優しい方だ。半兵衛様も」「――――そうだろうな」 深く息を吸い込み、出た言葉は自分でも驚くほどの哀惜が含まれていて「あぁ、いや、えぇと……」 あわてて取り繕おうとし、まっすぐな三成の目に、止めた。取り繕う言葉の代わりに、息を吐く。「秀吉は――優しかったかい?」 目を逸らした三成が、夢吉を見た。首をかしげる夢吉に語るように、言う。「あの方は、お優しい方だ」 不器用な彼は、自分の裡にある思い出を口にする術が不得手なのだろう。噛みしめるように笑みを浮かべた唇に、短い言葉に含まれた大切な思い出を見た気がして、慶次は柔らかく目を細める。「優しすぎた、んだろうな」 さわ、と風が頬に触れた。「ッ――」 胸を掴み、抑える。自分が仕掛けた過度ないたずらの、過度な報復。それが彼を――優しすぎる彼の心を、どれほど苛ませたのだろう。(秀吉) 押し寄せる後悔と無念が、ぎりぎりと胸を締め付ける。どれほど反芻したとしても癒えることのない――癒えてはいけない痛みにゆがむ慶次の横顔を、夢吉は心配そうに――三成は静かに見つめた。「うわぁあっ」 子どもの叫び声に、二人と一匹の目が川に向く。いたずらに失敗したらしい。上がった水しぶきが収まり、その中から顔を出した子どもが、情けない顔をして傍に居る子を見上げている。「よぉし」 立ち上がり、腕まくりのまねをする慶次を、瞬きをして三成が見つめた。「なあ、三成」 手を差し出す。「一緒に、いたずらをしないか」「いた、ずら――」「そう。まずは、あの子どもたちのいたずらを、助ける。そのあとは――家康に、何か仕掛けてみようじゃないか」 三成の目がこぼれるほどに見開かれた。「秀吉様が、貴様としていたように――か」「そう。俺と秀吉がしていたように」 ほら、と掌を上下させて誘うと、そこに夢吉を乗せて三成が立ち上がる。「貴様ごときの愚鈍な策で家康を謀れるとは思えんが――面白い。付き合ってやる」「そうこなくっちゃな」 それぞれの知る秀吉を悼むため、やんちゃな笑みを――三成はぎこちなく、慶次はこなれた様子で――浮かべあった。2012/03/31