山深い木々の上を、わずかにも木の葉を揺らすことなく移動する影があった。 幹に近く太い枝を選び、飛び移りながら駆ける彼女を見ることが出来る者があれば、あやかしと思うかもしれない。横髪のみが長く揺れ、月光と同じ色に輝き靡いている。女の香りをぞんぶんに宿した肢体を包むのは、身に添った薄い着物で体の滑らかな曲線をそのまま晒していた。「――ッ?!」 気配に気づき、足をかけた枝をそのまま蹴って真上に飛ぶ。そこに、クナイが突き立った。「っ――」 幹に体を押し付けて気配を探る。獣のような息遣いを感じる。――これは、獣なのか、人が獣のふりをしているのか。 気が付けば、夜の音が消えていた。――草木も眠る丑三つ時、という言葉があるが、深夜の森には夜行性の鳥や動物たちの息遣いなどが存在している。無音になることなど、無い――けれど、今は肌に感じる息遣い以外の音が、消えていた。(人か) そう、判じた。「ふっ」 判じた途端にクナイを投げる。一瞬の後に木に刺さった音がした。その時には、すでに投げた場所より移動している。クナイの方向で彼女の場所を推測し、攻撃してきた者を探れる場所で、目を光らせた。「ぐ――ッ」 ふいに、傍でくぐもった声がした。体を向けると、地に重いものが落ちる音が聞こえ、眼下に黒い塊が――人であったものが見えた。「ぅ――」 次いで、別の場所からも声が聞こえる。ふわ、と鼻先に血の匂いがした。「やれやれ――通りがかっちゃったら、無視できないよねぇ」 その声に、聴き覚えがありすぎるくらい、あった。「佐助」「よ、かすが」 底の見えない人好きのする顔で、猿飛佐助が気安そうに笑った。「何故、ここに居る」「何故って――任務の帰りに通ったら、物騒な気配がしたからさぁ」 気楽そうにしているくせに、わずかの隙も感じさせない彼は、かすがが用向きを終えた先の忍で「今のは」「さあね。どこの誰だか」 肩をすくめた男は、大体を察しているのだろう。「うちの大将への御使い、済んだんだろ」「寄り道など、せんぞ」「つれねぇな」 仕える先は違えど、同郷の彼は里のおきてに縛られることなく、抜け忍となった彼女のことを時折気にかけては、かすがにとってはいらぬ世話をやいてくることもあった。「まったく――軍神の何処がそんなに、良いのかねぇ」「その言葉、そっくりそのまま返してやろう」 かすがの仕える軍神、上杉謙信と佐助の仕える真田幸村が主、武田信玄は自他ともに認める好敵手ながら、その気質は全くと言っていいほどに違っていた。雅風に包まれたような謙信に心酔するかすがからすれば、雄々しく拳で語り合う信玄と幸村の間柄は――そうではなくとも驚愕をするほどの光景であるのに――理解不能であるのだろう。そして、それに好んで仕えている佐助のことも。「で、軍神は何の用事だったのさ」「戻って、確かめれば良いだろう」「つれねぇなぁ」 ふい、と顔をそむけた脳裏には、ずしりと重く――けれど包み込むような安堵を感じさせた男の姿が蘇る。床几に坐し、かすがを迎えた男は大きく、通された広間などには収まりそうに見えなかった。 知らず、下唇を噛んでいた。 愛する、などと口にするのも、いとおしい、と口にするのも謙信に向ける気持ちが陳腐になりそうに思えるほどに想う相手が求める男――他の誰にも代われない、魂が呼び合い、互いに奮いあう相手――の大きさを感じれば感じるほど、かすがの体内には言い知れぬ感情が渦巻いた。 ただ嫌いだと言えれば、どれほど楽だろうか。あの方が認めるだけの器であると感じるたびに、想う人の偉大さと埋めようの無い気の遠くなりそうな距離を感じてしまう。 すぐそばにあるのに、傍に立つほどの器を擁していないと、うすら寒い絶望に肌を舐められているような、虚無に似た苛立ちが生み出す悋気を包んで受け流されることもまた、恐ろしいほどの距離を感じられて「かすが?」 はっとして顔を上げると、目の中いっぱいに佐助の顔があった。「ッ――」 近すぎる距離に息をのみ、仰け反った拍子に足が滑り「きゃ――」 短い悲鳴を上げて落下しかけた彼女の腰に、佐助の腕が回った。「忍、失格]「う、うるさいっ」「危ね――ッ」 支えられたかすがが逃れようと身じろぎし、体勢が崩れそうになるのを堪えるため、抱きしめる格好となる。「ムキになるのは、俺様の前だけにしろよ」「ムキになど」「なってんだろ」 言葉に詰まり、うつむくと少し腕を緩められた。「何か、あったのか」「何も、無い」 声は、自分で思うよりも弱く漏れた。「かすが」 心配げな声音が悔しくて、情けなくて泣きたくなる。 あの人の見ている先に居るのは、自分ではないのだと――あの、絶対に到達できない場所に居る男なのだと思い知らされるたび、沸き起こるやるせなさに何もかもをかなぐり捨てて叫び、暴れたくなる。 形容しがたい感情は、きっと多分――敗北、という言葉が一番似つかわしいのだろう。「何故、あの男なのだ」「え」 むろん、かすがに対する謙信の目と信玄に向ける謙信の目は違う。かすがは忍であるまえに女で、信玄は男で――いとおしい人と同じ場所に立ち采配を振るい人を導くことのできる器で――二人しか向かうことのできないその場所を見つけた者の笑みは、たとえようもない解放感に満ちていて「私では、だめなのだ」 信玄を想い笑みを浮かべる愛しい人の横顔が、胸を刺す。「――かすが」「わかっている――同じようになど、ありえないことくらい…………けれど私は――ッ」 顔を上げた先に見た佐助の顔は、深淵のように揺るぎない闇のようで「謙信様の唯一に……」 何もかもを吐き出して良いように、見えた。「わかってはいるんだ――わかってはいる…………」 信玄に会い、彼の大きさを知るにつけ、したくもない納得をしてしまう。認めるたびに、くやしさが募る。「わかっているんだ」 けれど、どうしようもないほどに胸を焦がす人の、唯一の笑みを向けられる相手が「私では、だめだということくらい」 無数の針に包まれているような痛みと共に、他の誰にも向けられることは無いのだと、染みている。「あの人の心に住まうのは」 山のように大きく深い、あの男だけ。「かすが」 深く大きく息を吸い、少し溜めてから吐き出す佐助の眉は、ハの字になっていて「忍に、その感情は命取りだ」「わかっている」 薄い笑みを浮かべる男が、心底心配をしてくれていることは、長い付き合いで知っている。「――忍を止めて、普通の女になるんなら、問題無いぜ」「そんなこと――ッ!」 佐助の瞳は凪いでいて、息をのんだ。「――――――出来るわけが、無いだろう」 自分の事を剣と言う人の傍にいるための理由が、無くなってしまう。居てもいい理由が、無くなってしまう。「あの方の、剣でありたいのだ」 命が、作物のように刈り取られる場所で、大切な人の命の実を守りたい。「私は、あの方の剣」 両手を胸に添える。かけがえのない宝物のように、呟いた言葉を抱きしめて。「共に戦場に出られないなど――耐えられるわけが、無いだろう」 独白に、佐助の目が細くなった。 戦場に送り出し、帰りを待つだけなど、耐えられない。――傍で共に戦う術を、持っているのだから。 だからこそ、より強く思うのだ。――あの笑みを、自分にひと時だけでも向けてほしいと。 かすがの前髪を、佐助の吐息が揺らす。「さっさと帰って、無事に用事を済ませたって報告してきな」「――――」「やっかいなモンに、囚われちまったな」「やっかい――」 少し考えるような間の後で、ふわ、とかすがの唇に笑みが乗った。「そうかもしれないが――私は、しあわせだ」 目を見はった佐助に、花弁が舞うように淡い恋笑を残して、月光に身を投じる。 かろやかに幹を蹴るかすがの胸に、自分に向けられる柔らかな謙信の笑みがあった。それは、佐助の一言でよみがえったもので、けれど礼を言うのも癪に障り、照れくささからくる苛立ちに似た痒みに促されるまま、離れた。 今頃は、あきれている頃だろう。嘆いていたと思ったら、幸せだと口にしたのだから。 ――さっさと帰って、無事に用事を済ませたって報告してきな。 そっと、胸に忍ばせた文に手を添える。これを渡す時の謙信の絹のような笑みが、声が蘇り、かすがを包んだ。 ――くろうを、かけますね。 いいえ、と答えるかすがの手を取り、まっすぐに見つめた謙信が ――わたくしの、うつくしきつるぎ。 瞬間、かすがの心臓から温かなものが洪水のように溢れ全身を包み込み、皮膚を突き破るほどの愉悦がほとばしり「あぁああぁあああ謙信さまぁああぁああ」 自分を抱きしめ身をよじる、彼女の叫びが夜の森に響き渡った。2012/05/12