清冽な空気に包まれた山の中。松永久秀はゆったりとした足取りで、目的も無く歩んでいた。 小鳥のさえずりと、小川のせせらぎが涼やかで心地良い。里は、今頃むんむんとした夏の気配に包まれているのだろう。「ふう」 音に出して、息を吐いてみる。 余計なものが、体内より全て洗われ流されるような空間に、ふと違和感が匂った。「――ん?」 何やら香ばしく、腹の虫を刺激する気配に首を傾け、かすかに漂ってくる香りの出所を探し、足を向ける。 進むにつれて良い香りが濃くなっていき、そういえばそろそろ昼時だな、と思い出した。 川沿いに出て少し進めば「ほう」 河原で、鼻歌交じりに鍋の具合を確かめている男が見えた。石を組んで作られた簡易の囲炉裏の上に、大きな鍋が乗っており、鍋の脇には漏れる火で細い枝に刺した魚が焙られている。食欲をそそられる香りと光景に、久秀は目を細めた。「ふんふふ〜ん」 鼻歌を歌っている男はたしか「良い香りだな――小早川秀秋……通称は、金吾だったか」「うひゃあッ」 声をかけると、金吾は飛び上がって恐々と久秀を見た。なるほど、噂通りの臆病者らしい。「ふうむ」 けれど、周囲を見回しても、彼以外に人の気配は無く「一人で、鍋をしているのかね」 現れたものが幽鬼の類では無く、また自分に危害を加えそうにも無い人間だと判断したらしい金吾は「よかたら、一緒に食べる?」 締まりのない顔で、へらりと笑って久秀を誘った。「良いのかね」「もちろん。やっぱり、誰かと一緒に食べるほうが、ずっとずっと、美味しいからねぇ」 ふふふ、とうわついた声を出す金吾に「それでは、遠慮なくご相伴に与るとしよう」 近づき、坐した。「もうすぐ、出来上がるからね」 何処から取り出したのか、箸と椀を久秀に差し出し、鍋の具合を見て「あ、この魚はもう焼けているよ」 地面から枝を抜いて、久秀の椀の上に乗せた。焦げた皮と肴の油が余熱に爆ぜている。沸き立つ湯気ごと口に入れると「――ほう」 油に程よく解けた塩が、ぼやけそうになる魚の旨味を引き締めていた。「絶妙な塩加減だな」「でっしょぉお? これでも僕、戦国美食会の会員なんだから」 胸を張った金吾は、褒められたことに気をよくしたのか「ほらほら、お鍋も美味しいよ」 久秀に勧め「滋味に富んでいるな」 心底の感想に、自慢げに鼻を鳴らした。「しかし、卿はなぜ一人で、こんなところで鍋をしようと思い立ったのかね」 至極まっとうな質問に「天の川が、昨夜、すっごく綺麗に見えたんだ」 うれしそうな金吾の言葉が答えとは思えず「どういうことかね」 重ねて聞くと「もうすぐ七夕でしょう?」「ああ」「織姫さんと彦星さんが、天の川を渡るよねぇ」「そのような伝説が、語られているな」 久秀には、逢瀬を喜ぶ二人のおこぼれでかなえられるという人々の願いを書いた短冊の、他力本願な欲が晒される日という認識しか、無かった。「カササギが橋になるんだって」「ほう」 金吾の話は、質問の答えになっているとは、到底思えない。が、久秀はそれを全て、彼の順序で聞いてやることにした。 えてして、子どもはそのような物の言い方をする。もっとも、金吾は子どもの範疇に入れてよいものかどうか、という年齢ではあったが、話下手な者や慣れていない者も、彼のような話し方をするので、いずれは欲しい答えに行きつくだろうと、無駄な言葉を受け取ることにした。「その川を見ようと思って、夜、空を見上げたんだ」 その時の感動がよみがえったのか、金吾はうっとりと頬に朱をにじませた。「それでね、どんな川なんだろうって思ったら」 金吾の顔が、よだれをたらさんばかりに歪み「おいしそうだなぁって」 心底幸せそうな金吾の様子に「なるほど。卿は、天の川を夢想し、川の幸を思い浮かべた、ということかね」「ふふ。それでね、そうしたら、どうしても食べたくなっちゃって、こうして出かけてきたんだぁ」 質問の答えに行き着き、久秀は頷いて見せた。「食の欲に、忠実に従ったというわけか」 大福のような顔をとろけさせながら話す金吾は、箸を休めてはいない。感心し、納得し「卿の噂は聞いたことがあるが、噂はあくまで噂だった、ということか」 そのつぶやきに首をかしげた金吾に「臆病者だという話を聞いたことがあるが、食事を楽しみたいがためのみで、単身山に入り実行をしている。卿は臆病者では無いよ」 微笑む久秀に、一瞬うれしそうにしてみるも、すぐにうなだれ「でも、戦は苦手だよ。怖いし」 つぶやくと「それは、卿の望む所ではないからだろう。そういうものは、勝手にしたい者同士がしておけばいい」「でもぉ、一応、僕、武将だしぃ」 唇を尖らせ、ちら、と久秀を見ると「私も武将の端くれだが、欲しいものを手に入れる以外は、無益な戦は労力の無駄以外の何物でもないと、思っているがね」「ほんと」「ああ――卿の欲は、食に対するもののみで、領土欲や名誉欲などは無いと判じたが、どうかね」「う〜ん。美味しいものが食べられるなら、別にいらないかなぁ」 素直な反応に、久秀は目を細めた。「皆も、そのようであれば、良いのだがな」 欲しいものを好きと言い、求める。それだけの行為に、人は装飾を施したり、布をかぶせたりして、見えにくくする。心中では欲しているくせに、おくびにも出さす、求めもしない者もいる。「いやはや、理解が出来ないな」 欲しがれば好いのに、と思う。「でも、ダメなときもあるんだよねぇ」 ため息交じりの金吾の言葉に、おやと眉を上げた。「何が、いけないのかね」「だって、食べちゃいけないものもあるし、足りなくて食べられないことも、あるし」「何故かね」「僕だけが、美味しい思いをして、誰かを飢えさせたら、美味しいものも美味しくなくなるし――それに、食べ尽くしちゃったら、もう次が食べられなくなるでしょう」「なるほど」「作る人や食材を捕まえる人を、飢えさせたり困らせたりして、出来なくなるほうが、もっと困るし」「ふうむ」 金吾の言葉を、自分のことに置き換えて考えてみた久秀が「堪えることも、いずれは自分の為になる、ということか」 作り手がいなければ、それが世に現れることは無い。作り手を支える者がいなければ、作り手は集中して良い品を生み出すことが出来ない。「欲しがり、奪うだけでは問題が生じるな」「でしょう?」 久秀自身、欲しいものを生み出すために、ほんの少し手を加え、待つこともあった。どのように成るかを、その周囲の者に委ねるために手出しを止めることもあった。「いや、改めて考えさせられた。卿は、面白いな」「そお?」 まんざらでもない顔をして、金吾が最後の一口を食べ終える。「いや、馳走になった。ほんとうに、良い食事だったよ」「へへ。どういたしまして」 得意げな金吾に「卿は、七夕に何を願うのかね」 問うと、きょとりとされて「うう〜ん…………みんなが仲良く、美味しいお鍋を囲めたら、いいよね」 少し考えてから、そう口にすると「そうか――なるほど。いや、有意義な時間だった。礼を言おう」「僕も。一人よりも二人の方が楽しいし、美味しいって言ってもらえて、うれしかったよ」 笑みを交し合い「七夕には、卿の願いがかなうことを、願うとしよう」 そう言い残し、久秀は背を向けて歩き出した。 皆が、金吾の鍋を囲んで食事をする。それは、とてもくだらない、取るに足らないもののように感じるが、実現をするとなれば、途方も無い。 彼の「皆」がどの範囲を差すのかはわからないが、会話の中から察するに、農夫や漁師、猟師なども含めているように思われる。そして、それだけではなく、彼の知己であろう大名やらも「皆」の中に含まれるのだろう。 それらが皆、仲良く鍋を囲む。「いやはや、まったく壮大な願いだな」 金吾自身は、そこまで思っていないのかもしれない。彼の周りでも、それがどれほどのことか思い至る者も少ないだろう。けれど「実現をしたならば、私もぜひ、相伴に与らせてもらいたいものだ」 口に出すと、それが自分の目標のようにも思われて「愉快だな」 喉を震わせ呟くと、空を見上げた。 太陽が勢力を誇る空には、天の川の姿は無い。「天上の恋人の逢瀬が、とどこおりなく行われるよう、祈りでも捧げてみるか」 冗談めかして一人ごち、鍋の礼として金吾に送る何かを求め、静穏な木々の間をゆったりと、歩いていった。2012/07/05