ふ、と目の端に何かが引っ掛かり、伊達政宗は足を止めた。近づき、少し身をかがめて低い庭木の枝に顔を寄せ「何、やってんのさ」 ふいに背後に現れた気配に顔を上げ「猿か――何の用だ」「大将の御使いに、決まってんでしょ」 はい、と他国の忍でありながら、奥州筆頭である政宗に無遠慮な態度で近づいた猿飛佐助が、懐から手紙を取り出し、ぞんざいに渡した。受け取りながら「あいつは、元気か」「あいつって?」 決まってんだろう、と目で伝えると、肩をすくめた佐助が「元気じゃ無かったら、俺様、こんなとこ来てないって」「こんなとことは、ずいぶんな言い方じゃねぇか」「気分、害した?」 いや、と首をふり「ご苦労だったな」 手紙を振って見せた。「で」「Ah?」「何、見てたのさ」 ああ、と細められた政宗の目が庭木に向き、佐助が近づき覗き込む。「ああ――」 頷いて「夏だねぇ」「ああ――夏だ」 そこには、セミの抜け殻があった。 ひょいと持ち上げ手の甲に乗せ「なつかしいなぁ」 呟くと「あいつの話か」「そ、あいつの話」 きかせろよ、と顎で示す。「お殿様は、セミの抜け殻が薬になるって、知ってた?」 少し皮肉めいて佐助が言えば「Ah――まぁな」 腕を組んで政宗が答え「子どものころから、知ってた?」 少し考えてから「No――想像すら、してなかったな」 それに頷き「旦那も知らなくてさ、まだ旦那が元服前の時に、俺様が大量のセミの抜け殻を持って帰ったことがあったんだよね。たまたま見つかって、一個だけ、あげたんだけどさ」「ガキは、そういうの好きだからなぁ」 言いながら、旦那と呼ばれている好敵手、真田幸村の姿を思い出す。槍を持てば、勇猛な武将として鬼とすら呼ばれるほどの武勇を誇る彼だが、平素の、年齢よりもぐっと幼い面を、政宗は思い描き「今でも、喜ぶんじゃねぇか」「ああ、そうかも」 口の端を持ち上げた政宗に、くすぐったそうに佐助が笑った。「で」「ん?」「どうしたんだよ」 ああ、と佐助が抜け殻を乗せた手を持ち上げて「どうするのだ、って大きな目をきらきらさせて、ついてきたんだよね」 思い出し笑いを始めた。「なんだ。気持ちわりぃな」「酷いな――片倉の旦那も、同じようになるんじゃないの」「小十郎が?」 突然、幼少の頃より自分に仕えてきた腹心の名が出たことに、目を丸くする。「子どもの頃の話をさせたら、思い出し笑いをするようなこと、いっぱいあるんじゃないのォ?」「見たことが、無ぇな」「アンタにするんじゃなくて、他の人にしてるのかもよ」 そうなのだろうか、と思う。ぽん、と肩に触れられて、見ればセミの抜け殻が止まっていた。「旦那の子どもの頃は、俺様も子どもだったし、半分うっとうしいって思ってたから、配慮もなんにもしないで、目の前で全部砕いたら泣き出されちゃってさ」 佐助の笑みの向こうに、想像をしてみる。自分の前で、臆面も無く敬愛する武田信玄が倒れたことに不安を示した男。幼少のころから、思いのままに表情を変えていたことだろう。「なつかしいな」 ぽつりと落ちた佐助の声に、温かく柔らかなものを見とり「集めて帰るか?」 言うと「そうだなぁ。この時期に、まとめて作っておかなきゃいけないし」「泣かせねぇように、こっそり潰せよ」「はは――そうだね」 それじゃ、と佐助が片手を上げるのに、ああ、と返す。 大きな烏が舞い降りて、それにつかまり去っていく姿を眺めながら「思い出し笑い、か――」 呟き、セミの抜け殻を見た。 軍議が終わり、伸びをした政宗に「お伺いしても、よろしいでしょうか」 生真面目な様子で、片倉小十郎が声をかける。「なんだ、改まって」「いえ、その――」「遠慮せず、言えよ」 では、とまっすぐに顔を向けて「何故、セミの抜け殻をつけておられるのですか」 質問に、数度瞬いて見せ「そんなこと、真剣に聞くなよ」 噴き出した。「ああ、いえ――何か、重要な意味合いでもあるのかと思いまして」 深読みしすぎだったらしいと、小十郎が目じりを朱に染める。「猿が、来たんだよ」 ぽん、と信玄からの手紙を投げて見せ「そん時に、幸村の幼少期の話を聞いてな」 愉快そうな政宗に、首をかしげた。「小さいころ、猿が薬にするためにセミの抜け殻をつぶしたら、泣き出したらしい」 クックと喉を鳴らした政宗に「真田らしいですな」 小十郎の目が、柔らかくなった。「庭木に、こいつがいてな」 セミの抜け殻を取り、小十郎の胸に止まらせ「なんとなく、つけてみたんだよ」 実際は、佐助が政宗に着けたのだが、取らずにいたのだから、同意だろう。「なかなかCoolなAccessoryじゃねぇか」 似合ってるぜ、と言えば「懐かしいですな」 遠くを懐かしむ目をした小十郎が「梵天丸様に、セミの抜け殻をいただいたことが、ございました」 微笑みながら言われ「――覚えてねぇ」「そうでしょうな」 小十郎が頷いた。「たわいもない、なんのことも無い事でしたから」「そんなことを、憶えているのかよ」「政宗様より頂くものは、どのようなものであれ、この小十郎にとっては大切な物ですから」 さらりと言われ、妙に照れくさく「そうかよ」 ぷい、とそっぽを向き「聞かせろよ」 ぶっきらぼうに、言った。「お恥ずかしい事ですが、私が熱を出し、寝込んでしまったことがございました」 何事にも余念のない小十郎が、体調を崩すなど珍しい。幼い政宗も、それはそれは驚き、心配をしたのだという。「夏風邪だと診断されまして、梵天丸様は見舞いに来られたいと申し出てくださったのです」 思い出を噛みしめるような小十郎は、幸村とのことを語る佐助と、同じ顔をしていた。「誰かから、セミの抜け殻は解熱剤になるのだと言われたのでしょう。万一にもうつしてしまわぬよう、襖の向こうよりの対面となりましたが、その折、梵天丸様は隙をついて私の枕元へ駆け寄ってくださり」 小十郎の目が持ち上がり、心底嬉しそうに政宗を見つめ「両手いっぱいのセミの抜け殻を持って、死ぬなと、涙ながらに仰って下さいました」「――誇張してねぇよな」 気恥ずかしさに唇を尖らせると「うれしゅうございました」 小十郎の目が、とろけるほどに柔らかくなり「そうか」 なんとなく可笑しくなって、小十郎の胸に着けた抜け殻を見た。「小十郎」「は」「馬を、用意しろ」「どこかへ、行かれるのですか」「手紙を出すんだよ――猿に」「猿飛に、ですか」 手紙をくれたのは、武田信玄だ。それの返答ではなく、届けた忍に出すとは、どういう事なのだろう。 疑問がそのまま顔に出ていたらしい。「もちろん、オッサンへの返事のついでだ。――ああ、猿宛じゃ無く幸村宛に、したためるか」 そういう政宗は、とても楽しそうで「何と――?」 思わず問うてみると「アンタの忍の言った通りだったってな」 首をかしげる小十郎に「いいんだよ。わかんねぇで」 そう言って、どの紙を使おうかと悩み始める政宗に「すぐに、用意してまいります」 セミの抜け殻をつけたまま、小十郎が辞した。 後日、真田幸村の手に、たった一文だけの手紙が、届けられた。それを開き、意味が分からぬと佐助へ見せると「ほら、やっぱりね」「何がやっぱりなのか、俺にはさっぱりわからぬ」「いいんだよ、こっちの話」 怪訝な顔で首をかしげる幸村に「旦那、セミの抜け殻、取りにいこっか」「抜け殻を――?」「そ。抜け殻」 何やら楽しげな佐助の様子に「うむ、行こう」 あの頃のことなど、憶えていない幸村が頷いた。 咽るほどに命が爆ぜる夏が、目の前にある。――記憶が、夏の向こうで輝いていた。2012/07/09