海。 それは、山に囲まれた甲斐育ちの真田幸村にすれば、未知の存在で――「おお」 打ち寄せる波打ち際で、目を輝かせる幸村の傍で、彼の忍である猿飛佐助は眉尻を下げて頭の後ろで手を組み、興奮気味な幸村の後姿を眺めている。「佐助ぇッ!」 勢いよく振り返った顔は、夏の日差しのように輝いており、年端のいかぬ子どものようであった。「あんまり、遠くに行っちゃダメだよ」「うむっ」 言うが早いか、下帯姿となった幸村は、海に向かって駆けだした。「やれやれ」「毎度、思うが――戦場とは、ずいぶんと印象が変わるな」 幸村の姿を見ながら近寄ってきた男、片倉小十郎がつぶやく。「いつも、戦場みたいな状態じゃあ、剣呑すぎて困るでしょ」「まぁ、そうだが――」 それにしても、と言いたくなる気持ちは、佐助にもわかる。幸村は、年のころよりもずっと幼くなる。それは、彼を好敵手と定めた男に仕えている小十郎に、複雑な気持ちを与えるのだろう。「先に言っておくけど、竜の旦那と比べないでよね。育ちも環境も何もかもが違うんだし、俺様は、旦那のああいうとこ、結構気に入ってるんだから」「ああ、わかっている。政宗様と真田を比べるつもりは無ぇ」「どうだか」「さぁあああすけぇええええ! わぶっ」 波間に漂いつつ手を上げた幸村の背後から波が押し寄せ、飲まれる。「わ、ちょっと!」 あわてて駆け寄ろうとした佐助が、水に足をつける前に幸村は顔を出し、手を振った。「ああもう。危なっかしいったら」 そんな佐助に目を細めた小十郎が「世話が焼けるな」「そっちよりは、マジだと思うけど」 佐助は、ひょいと肩をすくめた。 小十郎の主、伊達政宗は漁に出る小舟に乗っている。共に海に来たのだが、遊び半分の漁に向かう子どもたちの姿を見止め、乗り込んでしまったのだ。「旦那はまだ、目の届く範囲に居てくれるからねぇ」「お互い、主には苦労するな」 ふ、と笑いあう。そこに「さすけぇえええええ!」 叫びながら、幸村が手に何かを握りしめ、戻ってきた。「見ろ! 佐助!」 大きなウニを突き出す幸村は、得意満面で「妙なものを捕まえたぞ!」 佐助に受け取れと言わんばかりに、鼻先に見せてくる。「ああ、旦那は見るのは初めてだねぇ」「なんと。佐助は見たことがあるのか」 目を丸くする幸村の横から、小十郎が手を伸ばした。 小刀を取り出し、ウニに突き立てて割ると「食ってみろ」 柿色の身を示す。不思議そうな顔をした幸村が、恐れる様子も無く口に入れて「うまい!」 目を輝かせた。「生のウニなんて、甲斐じゃあ手に入らないからねぇ」「佐助は、食べたことがあるのか」「無いよ」「そうか!」 言えば、くるりと踵を返して海に戻る。そんな幸村の姿に「さわがしいな」「まぁねぇ」 保護者の目を、二人が向けた。そこに「なんだ。どうした」「政宗様」「あ、おかえり」 伊達政宗が、漁から帰ってきた。その手にある魚篭が、重たそうに沈んでいる。「大漁だったみたいだね」「武田のオッサンに、味噌漬けにでもして土産にしてやるよ」「そりゃ、ありがたい」「で、あいつは、どうした」 幸村の姿が見えないことに、政宗が首をめぐらせる。「あそこ」 佐助が指差した先に、ぽこ、と茶色の塊が浮かび上がり、猛然とこちらに泳いできた。「海は初めてだって聞いていたが、泳げるじゃねぇか」「海は無いけど、川や湖はあるからねぇ」「勝手が違うだろうが」「まぁ、そうだけど――ほら、そこは旦那だから」 わかるような、わからないような理由を述べる佐助の目の前に、幸村が戻ってきた。「佐助!」 両手には、ウニが三匹乗っている。「ああ、大きいの捕ってきたねぇ」「うむ!」 嬉しげに頷き「片倉殿。申し訳ござらぬが、先ほどのように割ってはいただけませぬか」 小十郎に、差し出した。「なんだ。素潜りも出来るのか」「おお。政宗殿。海とは、まこと面白き所にございますな。風が無くとも波が立ち続け、水が流れておるというのに川とはまた、違った様子。しかも、塩辛い」「海水から、塩が採れるからな」 はぁ、と感心したようにため息をつく幸村に、政宗の唇が柔らかく歪んだ。「猿飛」 小十郎がウニを差し出し「ありがと。いただきます――ん、おいしいよ旦那。ありがと」 佐助が食し、にこりとすれば幸村も満足そうな顔をする。「ほら、真田」 残り二つを小十郎が差し出せば「ああ、いえ――それは、片倉殿と政宗殿のぶんにござる」 そう言われた。「それじゃあ、いただくか」 政宗が先に口をつけ、小十郎も口にする。「Good――酒が、欲しくなるな」「お館様にも、お召し上がりいただきとうござるが……」「甲斐に戻る前に、ダメになっちゃうと思うぜ」「そうか」 佐助の言葉に、しゅんと項垂れた幸村に「Do not feel sorry。オッサンには、別のモンを土産にすればいい。味噌に漬けて、日持ちをするようにしてやるよ」 政宗が、魚篭を持ち上げた。「おお、それはかたじけのうござる」「甲斐では、海のものは手に入りづれぇだろうしな」「味噌漬けなら、ご飯にも酒の肴にもなりそうだねぇ」 にこりと佐助が幸村に顔を向ければ、うれしげな幸村が頷いた。それに、政宗も小十郎も、やわらかな顔をする。「どうだ、真田幸村。あそこの岩場まで、俺と泳ぎで勝負しねぇか」「望む所でござる!」 政宗が下帯姿になり「猿――合図を頼むぜ」「はいはい。それじゃ――位置について…………用意」 幸村と政宗が、真剣なまなざしを目的の岩場に向けた。 ピィイー! 甲高く響く、佐助の指笛を合図に、二人が駆けて海に飛び込み、しぶきを上げて泳ぎ進む。それを見つめながら「元気だねぇ」「まったくだ」 二人の従者は、まぶしそうに彼らを見つめた。 大乱が終息し、命の取り合いをする必要が無くなった。こうして互いの領地を行き来できるようになった二人は、前田の風来坊、慶次の言う「戦と喧嘩の違い」の「喧嘩」を仲良く楽しむようになり、しばしの休息をと武田信玄に言われるたびに幸村は、嬉々として佐助を連れて奥州に出向くようになっていた。 政宗は奥州筆頭であり、領地をおいそれと空けることが出来ない身分なので、自然、そういう運びになっており、また政宗も幸村が訪れることを楽しみとしていた。「猿飛」「ん?」「どうだ――様子は」「何なに。他所の忍の情報が、欲しいっての? ま、世話になってるから、出せる範囲では教えてあげるけどさ。平和なもんだよ。こうやって、旦那を連れて奥州くんだりまで遊びにこれるくらいだからねぇ」「そうか」「そうそう――そっちも、平和を噛みしめているんじゃないの」「何故、そう思う」「やんちゃな竜が、どっかに飛んでいかないか、はらはらする必要が無くなったんじゃない」 にやりとする佐助に「そうでもねぇ」 あまり困ってもいないふうに、ため息をついて見せた小十郎が「連れ出そうと誘ってくる、どうにも政宗様と馬の合うらしい西国の男がいるんでな」「ああ――なるほど」 佐助の脳裏に、兄貴と慕われている西海の鬼、長曾我部元親の姿が浮かんだ。「一緒に海に出ないかって、誘われたんだっけ」「迷惑な話だ」 文句を言う小十郎の顔は、楽しそうにしか見えない。「手のかかる主に似た相手だもんで、気にかかってんじゃないの」「似ても、似つかねぇ」「ふうん」 含むように、からかいの目を向ければ「そっちは、どうなんだ」「何が」「甲斐の虎の意志を受け継ぐ相手、だ」「ああ」 間近で、甲斐の虎――武田信玄の薫陶を受けてきた幸村よりも、信玄の好敵手である上杉謙信が、魂を継いでいると認めた男、徳川家康。彼の存在は、いまや日ノ本全土が意識をせずにはいられないほどと、なっていた。「なんで、俺様に聞くのさ」「真田が、気にしているんじゃねぇかと、思ってな」「ううん、まぁ……気にしてはいるけど――心配するほどじゃないよ。俺様も、竜の旦那ほど嫌いじゃないけど、あっちもあんまり、好きじゃないしなぁ」 ぬけぬけと、訪れている領地を治める男を嫌いと言ってのける佐助に「そうか」「そうだよ。――旦那は、旦那。あっちは、あっち。そっちはそっちってね」「そうだな」「うん、そう」 穏やかな笑みを浮かべて、沖に目を向ける。 目指す岩場に上がった幸村と政宗が、何やら楽しげに言いあっているのが見えた。「茶と茶菓子を、用意しておくか」「戻ってきたら、小腹が減ったとか、良いそうだもんね」 突き抜けるような青い空と海の境界に、入道雲がそびえたっている――。2012/08/04