ぽんっと軽く地面を蹴って、風魔小太郎は中空に身を投げた。重さというものを持ち合わせていないかのように、彼の体はまばゆい空の中に浮かび上がる。 ふわ、と風が彼の体を包み、風魔はしなる竹を広げてムササビのように凧を広げた。 凧が風を受けて、さらに高みへと風魔を持ち上げる。風の流れに乗った風魔は、そのまま空を滑って行った。「あれは――」 作物の育ち具合を確認しつつ、間引きをしていた奥州の右目、片倉小十郎は、かがめていた腰を伸ばし空を見上げ、手庇をつくり目を細めて、空に見えた違和感を見つめた。それは、悠々と大空を舞いながら近づいてくる。「どうした、小十郎」 暇をもてあまし、散歩に来たついでに小十郎の畑へ顔を出した独眼竜、伊達政宗が土手から立ち上がり、小十郎の視線の先に左目を向けた。「アイツは」 だんだんと近づいてくるそれが、人の乗った大凧であること、その人物が風魔小太郎であることに気づき、小十郎と政宗は警戒を滲ませる。「なんで、風魔が昼間っから奥州に来るんだ」「しかも、身を隠すことなく。あれでは、気付いてほしいと言っているようなもの。政宗様、もしや松永か北条あたりからの、なにがしかの文を携えておるのやもしれません」「敵意が無いことを示すために、わざわざ姿を見せてやってきたってぇ事か」 小十郎と政宗の傍へと、風魔は風を受ける位置を微妙に変えながら進み、高度を下げる。ある程度の高さまで下ると、凧をたたんで軽やかに地上に足を着けた。「よぉ、風魔。この俺に、何の用があってきた。今は、誰に雇われてんだ?」 風魔は、不敵に笑う政宗を一瞥し、探るように鋭い目を向けてくる小十郎に顔を向けて、足を踏み出した。「どうやら、俺じゃなく小十郎に用事があるみてぇだな」「そのようですね」 二人の声に、警戒が滲む。以前、風魔を雇っていた松永久秀が小十郎を欲したことがあった。だとすれば、風魔は今、松永に雇われて動いているのだろうか。 ぴたり、と小十郎の前で止まった風魔が、畑に目を向ける。ゆっくりと畑を見回し、目を止めた風魔が片腕を持ち上げた。「なんだ」 風魔が指示した畑には、艶やかに育ったキュウリが、日の光に輝いている。風魔はそれからもう少し指を動かし、次に茄子を指した。「キュウリと、茄子……だと?」 こくり、と風魔が頷く。「政宗様」「ああ」 双竜が視線を交わし、頷きあい、政宗が一歩、風魔に近づいた。「アンタ。もしかして小十郎の野菜を、貰い受けに来たのか」 こっくりと、風魔が頷いた。懐から小さな巾着を取り出し、手の平に中身を出す。一朱銀がころころと現れて、風魔はそれを小十郎に差し出した。「買いたいと言うのか」 再び、風魔が頷いた。「こんだけありゃあ、畑の全部を買って行ける。そうまでして俺の野菜を買いに来た理由は、何だ。理由によっちゃあ、他に役立てそうなものも、融通してやれるかもしれねぇ」「ああ、そうだな。風魔。アンタ誰に雇われて、小十郎の野菜を求めに来たんだ。まさか、小早川あたりに雇われてんじゃ、ねぇだろうな」 ゆるく、風魔が首を振って否定する。そして一朱銀を政宗の手に無理やりに握らせると、印を組んで自身を変化させた。「っ!」「♪〜」 驚く小十郎と政宗の目の前に、北条氏政の姿があった。「見事なもんだな」「excellent!」 二人の感歎をよそに、風魔の化けた氏政は、よろよろと歩き疲れたように地面に手を着き、横になった。苦しげな息を吐きながら、げっそりとしている。「北条が、体調でも崩してんのか」「ジジィだからな。暑さにやられてんのかもしれねぇぜ。――ああ、そうか」 政宗が閃く。「小十郎の野菜は、栄養価が高いってぇ評判がある。キュウリと茄子は、体を冷やす。つまり、北条のジィさんに食わせて、元気にさせてぇってことか」 政宗の言葉に、氏政に化けていた風魔が元の姿に戻り、頷いた。「なんだ。ジィさん、夏バテか」 再び、風魔が頷く。「伝説の忍にも、人の情ってモンがあるってこったな」 ゆったりと腕を組んだ政宗が「小十郎」「はっ」「丹精込めて作った野菜で、ジィさんの夏バテを解消してやろうぜ」「はい、政宗様。少し待ってろ、風魔。食べごろのやつを見繕ってやる」 こくりと風魔が頷く。政宗が、風魔に一朱銀を突き返した。「コイツは、いらねぇよ。ジィさんを案じるアンタの気持ちで、十分だ。ジィさんが元気になったら、コレで湯治にでも行けよ」 ほら、と政宗が促せば、風魔はそれを受けとり巾着に入れて懐にしまった。「ま、そのへんに座って、待ってろよ。遠くから飛んできたんだろ。帰りは野菜を持って帰るんだ。体力を温存しておけよ」 ほら、と政宗が木陰に移動し座れば、おとなしく風魔も従う。そよ、と穏やかな風が吹いて、政宗は目を細めた。「アンタも、人間臭ぇところがあるんだな。そういう忍は、どっかの猿と、くの一ぐれぇなもんだと思っていたけどよ」 風魔は何も答えず、懐から落雁を取り出して、半分に割り政宗に差し出した。「おっ」 かり、と先にかじって毒が無いことを風魔が示す。「thank you」 目じりを細め、政宗も齧る。じわりと上品な甘味が広がり、ふうっと心地よい香りが鼻に抜ける。「旨いな」 かり、と応えるように風魔がまた、かじった。 しばらくして、背負い籠いっぱいに野菜を摘んだ小十郎がやってきた。「茄子やキュウリの他に、色々と食べごろのモンを入れておいた。冬瓜なんかは、風通しがいい暗室に入れておけば、長期間保つからな。食欲が無いんだったら、溶けるほどに煮込んで食わせてやればいい」 立ち上がった風魔が、合唱して頭を下げる。それに微笑んだ小十郎が背負い籠を差し出せば、一瞬にして風魔の姿が背負い籠と共に消えた。「なんてぇ速さだ」「幻を見たみてぇだな」 立ち上がり、土を払った政宗が小十郎の腰帯を示す。そこに、紙包みが挟まれていた。「これは?」 開けば、落雁が現れる。「茶でもしようぜ、小十郎」「ええ。未熟ながら、茶を点てさせていただきましょう」 笑みを交わした双竜は、青空を仰いだ。 畳の上に横になり、時々ごろりと動きながら、北條氏政は呻いていた。「うう、うう――」 暑くてかなわないのに、汗がなかなか出てこない。腹は減るのに食欲がなく、体がだるい。「そろそろ、御先祖様の所に行く頃合いかもしれんなぁ」 そんなことを力なくつぶやく氏政の視界が、暗くなった。「ややっ?」 目を上げれば、風魔がいる。「おお、風魔。どこに行っておったんじゃ。――お? キュウリ。よく冷えておるなぁ」 ぱかん、とキュウリを半分に割った風魔が、片方を氏政に差し出し、もう片方をかじる。「おお。これは。割ったところから水があふれておるぞ。これほど美しいキュウリは、見たことが無い。どおれ」 かりっ、と小気味よい音をさせて氏政がキュウリをかじり、咀嚼する。「むむむ。これは、これはなんと美味なキュウリじゃ」 氏政は、驚きながらキュウリを平らげる。その姿に、風魔は心なしか安堵の気配を滲ませて、彼を抱き上げ井戸端へとつれて行った。「おお、これは」 井戸水を張った桶に、見事に熟れた野菜たちが輝き浮かんでいる。その横に置かれている背負い籠に、見たことのある家紋を見つけた氏政は、首を伸ばしながら背負い籠に近づいた。「むむむむむむむ? これは、この紋は伊達の。風魔、おぬし奥州までわざわざ、ワシの為に」 風魔は黙して、小さく頷く。それに、氏政が孫を見るような顔になった。「そうか、そうか。ワシのことを案じて。そうか、そうか」 うんうんと頷きながら、氏政は冷えた瓜に手を伸ばした。「御先祖様の所に行くのは、まだ先になりそうじゃわい」 ひとりごちて、瓜をふたつ、持ち上げる。「風魔よ。共にどこかで涼みながら、瓜でのどを潤すとしよう」 こくりと風魔が頷いて、穏やかな風が二人を包んだ。「奥州には、何か礼をせねばならんのう」 差し出された瓜を受け取る風魔の手に、瓜から滲んだ命のしずくがポタリと落ちた。2013/06/29