「青い空、広い海! 男の冒険心をくすぐる岩場とくれば、楽しまないわけにはいかないだろうっ!」「キッキィ!」 男の声が、潮騒の合間をくぐり波間を駆けて空に響く。見上げれば、おそろしいほどさわやかな青空に、綿のようにもくもくと折り重なった入道雲があった。きらりと日の光に笑みをきらめかせた青年、前田慶次の声に、肩に乗った小猿の夢吉が同じように声を発した。「なっ! 二人とも、そうは思わないかい」 高く結い上げた慶次の髪が、くるりと振られて潮風に躍る。背後にいた長曾我部元親と徳川家康は、少々のぎこちなさを残しつつ、笑みを浮かべた。「ああ。そうだな。さわやかな夏空に、穏やかな風。海を楽しむには、もってこいだ」 うん、と力強く家康が頷けば「腹が減りゃあ、このあたりは豊富に魚やらなんやらが獲れるからな。丸一日いたって、困るこたぁねぇし」 自領を誇る気持ちからか、みっしりと盛り上がった胸筋をわずかに反らせて、元親が答えた。「じゃあさ、さっそく泳ぐとしようか! そうだ、家康。あそこの岩場まで、競争しないか」 慶次が指を指したのは、沖にある岩島だった。大きさからして、大人が五人ほど登れる程度だろう。「おいおい。あそこまでは600間(およそ1キロ)はあるぜ。俺ぁ別に平気だが、海に慣れてねェオメェらじゃ、キツイんじゃねぇか」 ゆったりと腕を組んだ元親は、褌のみの姿である。慶次と家康も、褌姿であった。「どうしてもやるっつうんなら、止めねぇけどよ」 ちらり、と元親は慶次を見た。この真っ直ぐな男が、元親が遊びの話に乗ってから、一度も家康と目を合わせていない。そのことに、気付いていた。 天下人となった家康を、たまには息抜きをしてはどうかと誘い、気の置けぬ場所でなくてはならないからと、家康を連れて元親の所へ顔を出した。元親には断る理由など見当たらなかったので、一泊の後の早朝に、こうして連れ立って褌一丁で波打ち際に来ている。 彼が、家康が倒した男、豊臣秀吉と旧知の間柄であったことは、風のウワサで耳にしたことがある。そのわだかまりのために、目を合わせられないのだろうと、元親は推測した。そして同時に、先の戦で対立の立場となった、旧友同士である家康と元親のぎこちなさを、案じているのだろうとも。「万が一、力尽きてしまった時は、元親が来てくれるだろう」 夏空のような笑みを浮かべた家康もまた、元親や慶次をきっちりと見ているようで、視線が少しずれている。そういう元親も、家康の少しずれている視線を捕らえようとすることが、出来ないでいた。 表面的にはむつまじい、けれど微妙にすれ違う笑みを交わす三人を、夢吉だけがまっすぐに見つめている。「そうだな。元親なら、二人同時に力尽きても、安心して溺れていられるな」「安心して溺れるってなぁ、何だよ。ま、溺れたらそん時ぁ、自慢の碇槍で一本釣りにしてやらぁ」 ぐ、と胸を反らして叩いて見せた元親の歯が、きらりと陽光に輝く。「それは、なんだか痛そうだぞ。元親」 まぶしさに目を細めた家康に「まあでも、助けてもらえるんだから。贅沢は無しってね」 慶次が笑う。「キ、ィイ?」 折り重なり、相互に笑みを交わしているように見えて、すりぬけるようにずれている。それに、夢吉が首をかしげた。 どうして、と問うように夢吉が見上げても、慶次は空っぽの笑顔を浮かべている。元親の目は見るが、家康の目を見ない。 どうして、と夢吉は元親を見る。慶次の視線は受け止めるが、家康からは微妙に視線を逸らしている。 どうして、と夢吉は最後に家康を見た。彼は、まっすぐに二人を見ているようで、気まずそうに視線を揺らして避けている。 ――変な風に歯車がずれちまったのを、戻せないかな。 慶次のつぶやきが、夢吉の胸にあった。 ――せっかく、生きているんだからさ。 徳川家康が天下人となり、大きな戦は治まった。これから日ノ本がひとつとなり、互いを支え笑顔を交わし生きていく世となっていく。 慶次が「生きているんだから」と言った言葉の裏に、誰がいるのかを夢吉は知っていた。かつて、慶次と共にいたずらをし、笑いあった男。豊臣秀吉。彼が、慶次が想いを寄せる女性の命を奪ったことも、それに苦悩しつつ秀吉を赦したがっていたことも、夢吉は知っていた。 過度な悪戯の末に、秀吉に愛する女性を手にかけさせてしまったという自責を、胸深くに抱えていることも。 夢吉は、空虚な親しみを交わす三人を心配げに見つめた。 彼らが気まずく感じている理由を、夢吉は知っている。小猿とはいえ、慶次と共にさまざまな場面を見て、経験をしてきたのだから。 なんとかしたいという慶次の心を、助けたい。からりと晴れた大空のように、てらいのない笑みを交わしあえるように。秀吉がねねを手にかけたことを、悔いながら歯を食いしばり前を向き、笑顔を浮かべていた慶次を、知っているから。秀吉が家康に打たれたと知り、間に合わなかったと血がにじむほど拳を握りしめた慶次を、知っているから。 けれど、どうすればいいのだろう。こうして誘いに乗って顔を合わせているのだから、それぞれが慶次のように、わだかまりを拭いたいと思ってはいるはずだ。「それじゃあ、行こうか」 慶次が海辺に歩み寄り「ああ」 力強く、家康が答える。ゆったりと二人の背後を守るように、元親が構えた。「サメに出会ったら、褌を伸ばせよ。サメよりでけぇと思わせりゃあ、アイツらは襲うのを躊躇うからな」「怖いこと言うなよ、元親」「こんぐれぇのことでビビんなら、あの岩まで泳ぐのはやめときな」 片頬をひきつらせる慶次に、元親がニヤリとする。「もしそうなったら、全力でサメに挑もう」「おいおい。無茶すんなよ、家康。オメェは昔っから、そうやって」 懐かしげに包み込むような目で語る元親と、それを受けた家康の視線が触れて、慌てたように二人が目を逸らす。「いや、まあなんだ。天下人になったんだから、あんま無茶すんじゃねぇぜ」「あ、ああ。わかっている。これから、この国を絆の力で守り育てていかなければ、いけないからな」 うん、と目を逸らしたまま力強く家康が笑みを浮かべた唇を引き結ぶ。「武器を捨て、空いた手で誰かの手を握り、絆を広げて助け合うような、世の中を」 ぐ、と拳を握った家康が、眉根を寄せて湧き上がる痛みを瞳の強さで支えた。「たとえ、どんなことがあろうと。ワシは、必ず作ってみせる」 ふ、と自嘲気味に唇をゆがめた家康が、うつむいて、かぶりを振った。「でなければ、申し訳が立たない」 ぽつりとこぼれた声に、夢吉はきりりと顔を引き締めて飛び上がった。「キッキィイ!」「おっ」「うえっ」「夢吉っ?」 家康によじのぼり肩を蹴り、元親、慶次の順に飛び移った夢吉が、海へ飛び込む。あわてた三人が手を伸ばし、濡れた岩に足を滑らせて「うわっ」「っ!」「っとぉお?!」 海に落ち、派手な水しぶきを上げた。立ち上った水柱に押されて、夢吉は岩場に押し上げられる。ぶるる、と身を震わせた夢吉が海面を覗くと「ぶはっ」「ったはぁ」「げほっ、げほ」 三人の顔が浮かんだ。それぞれが夢吉に気付いて、安堵に頬を緩める。「まったく。危ないだろ、夢吉」「そうだぞ。オメェみてぇにちっせぇ奴は、サメどころかタコにだって食われちまうぜ」「なんで、急に海に飛び込もうとしたんだ? 夢吉」 岩場に手を着き浮いている三人の傍に寄り、夢吉はまず、家康の指を掴んだ。「ん?」 ぐいぐいと引っ張られた家康が、手の力を抜いて夢吉の引くに任せる。家康の腕が伸びきったところで手を離した夢吉は、今度は元親の指を引っ張った。「お?」 元親も夢吉の引くに任せて腕を伸ばせば、家康の手の近くで夢吉に離された。そして夢吉が慶次を見れば、慶次は微笑んで自ら腕を伸ばす。三人の手が、触れることのできる距離に集まった。「キッキィ!」 夢吉が、足と両手を使って三人の指を掴んだ。夢吉を通して、三人が繋がる。「ああ」「そうか」「ありがとな、夢吉」「キィイ」 こくりと、夢吉が満足そうに頷いて手足を離す。すると、三人は一様に照れ笑いを浮かべた。「海はでっけぇし、懐が深いからな。思っていることを吐き出すにゃ、丁度いい」 元親が促すように、きっちりと家康を見た。それに頷きを持って、家康が応える。「ワシは、絆をと言っておきながら、三成と慶次の絆を断ってしまった。それを、悔いていないと言えば、嘘になる。だがワシは」 唇をかみしめた家康の肩に、元親と慶次の手が触れた。 少し潤んだ瞳で、家康は元親を見た。「元親が三成の傍にいてくれて、心から嬉しいと感じた。ありがとう、元親。だがな、あの時……その報告を受けた時、ワシは少し、その、なんというか」 ぐ、と家康の肩を元親が強く掴む。「単純な罠に踊らされて、間違い続けたまま終わらなくて、良かったぜ」 徳川の軍勢の仕業と見せかけた奇襲に激昂し、目を曇らせたまま友に刃を突きつけた自分を思い、太く厚い後悔の息を元親が吐き出す。「後ろを向いていても、はじまらねぇ。家康」「元親」 二人の視線が、ぎこちなくも重なる。「その、なんつうかよぉ」「いいんだ、元親。言葉は無くとも、元親の気持ちは手のひらから伝わっている。ワシも、その、なんだ」「俺の気持ちが伝わってんなら、触れた箇所からオメェの気持ちも伝わってくるに決まってんだろ。家康。オメェはなんにも、変わっちゃいなかった。いや、立派んなった」 夏の陽光に、わだかまりが解ける。「慶次」 家康が、唇を引き結び目の奥に力を込めて、慶次を見た。「慶次」 ぐ、と慶次が緊張に身を引き締める。「すまない、とは言わない。ワシがそれを言えば、冒涜になってしまう」 目の奥に痛みを湛える家康を「家康」 静かに、呆然とした音で慶次が呼ぶ。「何をどう言えばいいのか」 胸のつかえを吐き出そうとするのに、家康の裡に沈んだものは、かけらも浮かび上がらない。「慶次が、ワシを赦そうとして苦しんでいることは、わかっている。ワシと、新たな絆を結べないかと身の裡で葛藤をしていることも」 正直な男だからな、と家康が痛みを堪えて微笑めば、慶次はたまらず腕を伸ばして彼を抱きしめた。「家康っ!」「赦してくれなくていいんだ、慶次。ワシは、それほどのことをした」「違うんだ、家康。俺が、きちんと秀吉を止めていられれば」「それでも、慶次はワシを憎く思う部分はあるだろう」「ううっ」 唸った慶次が、相反する気持ちを腕の力に込める。その強い優しさに「いたた、慶次」 照れくさそうに家康が笑い「とぉりゃあっ」 歯をむき出しにした元親が、がばりと二人を抱きしめた。「うわぁっ」「ぶはっ」 その勢いにしぶきが上がり、海水が二人を襲う。「こんだけカラッといい天気に、湿っぽいのは終わりにしようぜ。ぱーっと全力で遊んで、腹いっぱい旨いもんを食って、呑んで、馬鹿騒ぎしようじゃねぇか!」「ああ、そうだな。元親」「いいねいいねぇ。賛成だよ」「キッキキィ」 三人の様子に、夢吉が手を叩き宙返りをして喜ぶ。 彼らの目が、慈しむように柔らかく、強い感謝の色を込めて夢吉を映した。「ちっせぇのに、心配をかけちまったな」「夢吉は、ワシらのことを気にかけてくれていたんだな」「ありがとな、夢吉」「キキィ」 腰に手を当て、夢吉が胸を反らす。それに、温かな笑いが起こった。「よし。それじゃあ、勝負をさっそく始めようじゃないか! それっ」 家康が岩を蹴って泳ぎ出し「おわっ。ちょ、ずるいぞ家康」 慶次が続く.「途中で、へばんじゃねぇぞう」 元親が腕を振り上げ、ぐんぐんと泳ぎ進む二人に声をかけてから、追いかけた。 灼熱の太陽がわだかまりを溶かし、波がさらう。深く硬く、大きなそれはすぐに砕け溶け去ってはしまわないけれど、時間をかけて少しずつ、小さくなってはいくだろう。 遠ざかっていく三つのしぶきを見つめながら、まぶしく目を細めた夢吉の脳裏に、屈託のない彼らの笑みが浮かぶ。それは、夏の太陽よりも眩しく熱く、輝いていた。2013/07/25