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双竜3
  しくじった、と思いながら獣は走る。縄張りに入ってきた者を追い払おうとして、力量を見誤った。まさか相手がこれほど強いとは――――
 息を切らしながら走る獣は、やがて足をもつれさせて転がる。走った勢いのまま、もんどりうって動けなくなった。身体中が熱を持っているようだ。
――――ここまでか。
 観念をして瞳を閉じ、再びあけると冴えた剣のような月が見える。火照る体を癒すような柔らかく冷たいそれを見ながら、獣の意識は濁っていった。

 意識が浮上してきたのは、物音が聞こえたから。近づいてくる者が居るのを聞きながら、獣は体を動かせずにいた。熱を感じないかわりに、四肢の感覚も無くしている。耳だけは鮮明に音を捉えるのに、他のどこも何も伝えてこない。
「あっ」
幼く高い声がした。慌てたような声音で、それが言う。
「小十郎、小十郎」
 その声に誘われ、近づいてくるものがあった。
「どうなさいました、梵天丸様――――ああ、猫でございまするな」
「まだ、息がある」
「梵天丸様、何を」
「手当てをする」
「しかし――――」
「ちいさきものを守れるようにと、言っていただろう」
「申しましたが……」
「ならば、手当てをするぞ」
「――――はっ」
 会話の具合からして、高い声の方が低い声より身分が上らしい。獣は体が浮き上がるのを感じた。抱き上げられたようだ。どうせこのまま朽ちるだけ、好きにすればいいと、興味を捨てて獣が心で苦笑する。砂利を踏む音がして、移動しているのがわかる。しばらくして、人の声がした。
「梵天丸様、なんと汚らしい。そのようなものは、捨て置けば良いものを」
「どうせ助かりますまい。ささ、早よう手を清めて着替えを」
「うるさい。俺はこいつを助けると決めた。さっさと医者を用意しろ」
「しかし――――」
「梵天丸様が、こう仰ってんだ。さっさと用意しねぇか」
 ドスの効いた声が一喝したとたん、空気が変わったのを感じた。どうやら、なかなかの身分の者に拾われたらしい。
――――単なる、気紛れだ。
 ままごとのようなもので、飽いて捨てられるのが早いか、自分の命がおわるのが早いか、どちらかだろう。そう踏んだ獣は、ぱたりと耳を倒した。

 梵天丸と呼ばれた子どもは、どうやら本気で獣が回癒するのを願っているらしい。朝な夕なと気配を感じる。その甲斐があってか、獣の傷は少しずつではあるが回復に向かっていた。
――――梵天丸
 獣の脳裏に名前が刻まれる。感覚の戻ってきた体に優しく触れてくる手の主に、興味が沸いてくる。
「梵天丸様、そろそろお休みになられては」
「もう少し」
 きっぱりとした声の主が、頭を撫でてくる。それが心地好くて、獣は喉を鳴らした。
「小十郎、猫が鳴いたぞ」
「鳴きましたな」
 嬉しそうな梵天丸の声に、小十郎と呼ばれる男も嬉しそうに答える。ずいぶんと愛されているようだ。だから、自分にもこうして慈悲を与えてくるのだ。そう思いながら、ゆっくりと瞼を上げた獣は梵天丸の顔を見て息を飲んだ。瞳の光が、一つしか見えない。梵天丸の右の瞳は、暗く深い闇夜のようだった。残る瞳は、冴え冴えとして月を思わせる。子どもの瞳には、見えなかった。
「梵天丸様」
「わかった」
 頷いた梵天丸が小十郎に向き、小十郎が彼の顔に布を巻くのを眺める。くるりと振り向いた梵天丸の右目は、布で覆われていた。
「ゆっくり休め」
 言い置いて、去っていく背中に小十郎が深く頭を下げる。次の間が梵天丸の寝所らしい。おやすみなさいませと挨拶をした小十郎が、すらりと襖を閉めて獣の傍による。目があった。反らすわけにもいかず見つめていると、手が伸びてきた。
 そっと額に指が触れ、ゆっくり右目に下りる。そこは、縄張りを侵した者に抉られて空洞が出来ていた。
「梵天丸様は、お前と自分を重ねていらっしゃるのかもしれん」
 小十郎は年よりも落ち着いているように感じる。その理由を考えかけて――――馬鹿馬鹿しいと獣は自分を笑った。知ってどうするつもりなのか。
「お前には、必ず回復をしてもらう」
――――梵天丸様の為に。
 声にしない声が聞こえて、獣は苦笑する。自分もまた、似たような気持ちになっていた。

 獣の回復力は、医師も目を丸くするほどのもので傷痕は残るが問題なく動けるだろうと見立てられた。その報告に自慢気な笑みを浮かべ、梵天丸が言う。
「助かっただろう」
「は、これはしたり。梵天丸様のお気持ちが通じたのでしょう」
 白髪まじりの男が恐縮したように頭を下げる。それに向かって胸を張る梵天丸に、獣は微笑を浮かべた。
 片目を失い、腹に傷痕を抱えた獣が脅威の回復力を見せたのは、これがただの猫ではなく猫又になりかけているからで、獣もそれを自覚していた。しっぽの先が割れはじめている。人には気付かれないであろうそれに、梵天丸は気が付いた。固形物を食べられるようになりはじめた獣を抱き上げ、そっと耳に打ち明ける。
「書物で見た、猫又だろう」
 はっとして獣が梵天丸を見ると、ニンマリと笑んだ顔があった。
「誰も気付いていないようだが――――」
 口にされれば、祓われるかもしれない。そうなれば、まだ妖になりはじめた獣は逃げおおせる気がしない。獣が体を強ばらせていることに気付いて、あやすように梵天丸が撫でてくる。
「二人だけの、秘密だ」
 誓いを立てるように、梵天丸は左目を合わせた。
「梵天丸様、そろそろ」
「わかった」
 そっと獣は下ろされ、梵天丸が去っていく。付き従う小十郎が、部屋を出る前に一度深く、獣に向かって頭を下げた。
 その夜、獣はそっと起き上がり外への道を求めた。もう十分に回復している。自分の縄張りがどうなったのか気になる。本当は、もう少し早く去るつもりでいたが、梵天丸が気になって立ち去るのが憚られた。何故そのような気持ちになるのかはわからないが、獣は梵天丸に意識を失いかけた時に見た月を重ねていた。しかし、これ以上居るわけにはいかない。
 とん、と月明かりの入る格子窓に飛ぶ。ちらりと梵天丸の寝所に顔を向けて、にゃあと声を上げ去った。空には、細い細い月が浮かんでいた。


 あれから獣は立派な猫又へと成長した。縄張りも取り戻した。十分に満足のいく生活をしている獣の心には、ふと浮かぶ気掛かりがあった。――――梵天丸。その名を忘れた事は無い。獣は梵天丸が右目を失った理由や、どういう立場の者かを調べた。今は、伊達政宗と呼ばれているらしい。傍らには、あの小十郎が変わらず付き従っていると聞いた。人の間では、独眼竜と呼ばれているらしい。
――――竜に、成ったのか。
 獣は、月に梵天丸の姿を見る。冴え冴えとした細い月の夜は、特に彼の事を思い起こした。
――――見に、行って見ようか。
 思い立ち、獣は駆けた。梵天丸――――伊達政宗が居る場所へ。
 猫又となった獣の足は、すぐにそこへたどり着いた。天を仰ぐようにして鼻を動かす。かすかに、知っている香りがした。深い意識に残る香りを追って進むと、はたしてそこには右目に刀の鐔を付けた青年が座して、庭木を眺めながら酒を舐めていた。瞬時に、それが梵天丸だと理解する。傍らには、小十郎の姿もあった。
「いい月だな、小十郎」
「は」
 獣は、成長した梵天丸の姿に、ほうっと息を吐く。月の光が凝り固まって出来ているように見えた。
 刻を忘れて眺めていると、ついと政宗の目が動き、獣は互いの左目が重なったと感じる。身をひそめている自分は見えないだろうと思いながら、目が合った事に打ち震えた。
「どうか、されましたか」
「いや、懐かしい顔が見えた気がしてな」
 口の端を上げる政宗につられたように、小十郎も微笑む。
「それは、ようございましたな政宗様」
「Ya」
 政宗は立ち上がり、獣に向かって笑みを浮かべ、背中を見せる。
「部屋に戻る」
「は」
 返事をした小十郎が政宗の背に従い、ふと足を止めて獣の居る場所へ体を向けて頭を下げた。
「行くぜ」
 ニヤリと笑んだ政宗が小十郎を呼ぶ。去る二人の背中を見つめながら、獣は全てを見届けよう――――そう、思った。
 あの月が、天下を包む刻を思い描いて――――


−了−
2009/09/17



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