ふわ、と鼻に触れた香りに、猿飛佐助は振り向いた。背後に流れていく人々の間に、胸に浮かんだ人の背は見えない。 ふ、と自嘲気味にあたたかみのある笑みを浮かべた佐助は、顔を前に戻して何事も無かったかのように、人波を進んでいく。 彼の香りを覚えたのは、いつだったか。 いつから、彼の香りに安らぎとときめきを覚えるようになったのだろうか。 始まりの記憶は淡く曖昧で、人に言えぬ仲となった理由が自分でもわからなかった。 彼は、理由がわかっているのだろうか。 手に、スーパーのビニール袋が食い込んで、持ち直す。食材よりも缶ビールの重さが、佐助の指を赤くさせていた。 オートロックのマンションの鍵をあけて、エレベーターで押し慣れた階数を指定する。ぽーん、と間の抜けた音をさせてエレベーターが到着し、佐助は目を閉じていても進めるほど、足が憶えている部屋の前に立った。 鍵を開けて、先ほど町中で嗅いだ匂いに目を細める。ここは、彼の香りが滲み込んでいる。 足を踏み入れた佐助を、彼の香りが包み込んだ。ふうっと息を吐き出して鍵を閉め、上がりこみ台所にビニール袋を置いてリビングに入った。赤く染まる空をベランダの窓から見つめ、几帳面に片付けられている、物も色味も少ない部屋を眺めて掃除をする必要が無いことを確認すると、台所に立った。「さて、と」 エプロンを取り出し、調理を始める。まずは米を洗い炊飯器をセットして、野菜を切り魚の血を拭いて下味をつけた。慣れた手つきで三台あるコンロをフル稼働させ、あっという間に一汁三菜の夕食を作り上げる。「うん」 出来栄えに納得をした佐助が時計を確認し、窓の外を見れば茜が藍色に変わり始めていた。 電気ポットに湯を入れて沸かし、テーブルに料理を並べていく。箸を用意し、湧いた湯で茶を入れてスマホを取り出しメールが着ていないかを確認しようとすると、鍵穴が回される音がした。「おかえり」 ひょいと顔を出して言えば「ああ、ただいま」 温和な笑みを浮かべた片倉小十郎が微笑んだ。「時間通りだね」「オメェとの約束があったからな。早々に、切り上げてきた」 ネクタイを緩める小十郎の仕草に、ドキリと胸を震わせながら「そりゃ、ありがたいねぇ」 気持ちが面に現れないように、おどけてみせる。「いい匂いだ」「着替えている間に、御飯、よそっとく」「ああ」 寝室に入る小十郎を見送り、蒸らしも終えた炊飯器を開ければ、ふわりと湧き上がる湯気と香りに食欲がそそられる。艶々とした御飯を茶碗によそい、具だくさんの味噌汁を注いで並べたところで、ラフな格好になった小十郎が出てきた。「ああ、旨そうだ」 穏やかな低音に、佐助の胸が包まれる。温まった心を抱きしめ席に着いた佐助が、冷めないうちにと小十郎に勧め、二人は箸を手に取った。 佐助の幼馴染であり、弟のような存在である真田幸村と、小十郎の勤める会社社長の息子である伊達政宗が同じ高校に通っている。二人が互いを好敵手と認め良き友となり、その縁で佐助と小十郎は顔を合わせることとなった。 それが、いつからこういう事になったのか。 佐助の耳奥で、別れる時には理由がいるけど 好きになるのに理由なんか必要ないの、という歌が流れる。 理由を考える方が、おかしいのかもしれない。そう思いつつ食後のお茶を喫し、佐助は食器を片づけて小十郎はリビングのソファに座り、テレビを点ける。食器を洗い終えた佐助が、冷蔵庫で冷やしておいた缶ビールを取り出し、小十郎に差し出しながら横に座った。「すまねぇな」「どういたしまして」 真横にある小十郎の香りを胸に吸い込みながら、プルタブをあける。ぷしっと軽い音とともに立ち上った匂いが、小十郎の香りの邪魔をした。 無意味な笑い、けれど日常の緊張を緩和させるために必要な笑いを提供してくれる、バラエティー番組。それを観るともなしに観ながら、佐助と小十郎はチビチビと缶ビールを傾ける。ふ、と佐助のソファに置いた手に小十郎の指が触れた。甘い痛みを胸に走らせた佐助は、それを伝えるように小十郎の指に指を絡める。 つないだ指をそのままに、テレビを見つめる目は何も見えてはいなかった。意識のすべてが、小十郎に向けられている。小十郎は、どうなんだろうか。テレビを楽しむ余裕を残しているのだろうか。佐助の事など何も感じていないのではないか。こんなふうに、意識を全て注いでいるのは自分だけなのではないだろうか。 そんな弱気が佐助の胸に差しこみ始め頃に、小十郎の指が動き佐助の手の甲を撫ではじめた。佐助が身を寄せれば、ふう、と小十郎が身にまとった社会というものをはがす様に、息をつく。そしてリモコンに手を伸ばしテレビを消して、缶ビールをローテーブルに置いた。「猿飛」 静かに、何かを確認するように小十郎の声が響く。「片倉の旦……小十郎」 言いさして、言いなおした佐助に目を細め、小十郎が佐助の手から缶ビールを奪うと唇を重ねてきた。目を閉じて、それを受け止める。「んっ」 鼻孔に、小十郎の香りが充満する。それが肺に落ちて広がり、血液に溶け込んで全身に流れていく。体内から、小十郎の香りに抱きしめられる。「久しぶりだね」「ああ、久しぶりだ」 額を重ね、同じ笑みを浮かべあう。仕事の忙しい小十郎は、なかなか佐助とゆっくりと過ごす時間が取れない。大学生の佐助が、いつも彼に予定を合わせることとなる。けれどそれがいつも上手くいくとは、限らない。佐助に予定があることもある。顔を合わせなかったわけではないが、こうして二人だけの時間を過ごすのは、二か月ぶりだった。「すまなかったな」「なんで、謝るのさ」「会えなかったからな」「会ってはいただろ」「……佐助」 ぞく、と佐助の背骨が甘く疼いた。「ずるい」「何がだ」 わかっているくせに、と口にするのが悔しくて、佐助は小十郎の口をふさぐ。「んっ、ふ」 すぐに小十郎が舌を伸ばして、佐助の唇をくすぐった。促されるままに薄く開けば、そのまま小十郎は佐助の口内に忍び入る。佐助が舌を差し出して、互いの舌先をくすぐり合えば、小十郎の腕が佐助の腰に回った。「んふっ、ふっ、んぅうっ」 唐突に激しく口腔を掻き乱されて、息苦しさに佐助の眉根に皺が寄る。ソファの背に押し付けられ、顎をのけぞらせた佐助に小十郎が覆いかぶさる。「んふっ、んっ、んんっ」 飲みきれぬ唾液が佐助の口の端から零れ、首を伝った。「んはっ、はっ、ぁ、ちょっと待って」 唇がわずかに離れたすきに、首を横に振って逃れた。「なんだ。嫌か」「嫌じゃないけど、性急すぎるだろ」 軽くにらめば、小十郎が言葉を喉に詰まらせた。目を逸らし恥じ入る小十郎に、佐助の胸に愛おしさが湧き起る。ふふっと鼻を鳴らして首に腕を回し、鼻先に口づけた。「そんなに、俺様が欲しかった?」 声を弾ませ首をかしげて見せれば、小十郎が憮然とする。「悪いか」「悪かないけど、なんかガツガツしてて、ガキみたいだなぁって」 ぐう、と小十郎が喉を鳴らして佐助を抱きしめ、肩に顔を摺り寄せた。「佐助」 くぐもった声に、胸の奥がくすぐられる。「なぁに? 小十郎」 二人きりの時にしか、甘い時間を過ごす時にしか口にしない呼び名で、小十郎の髪に頬を摺り寄せた。「久しぶりだ」「久しぶりだねぇ」 しみじみとした声に、しみじみと返す。「オメェの匂いは、久しぶりだ」 ドキリ、と佐助の胸が鳴った。「会社の奴が、彼女と同じ髪の匂いに思わず振り向いたって言っていた奴がいたが、オメェの匂いはオメェでしか感じられねぇ」 ここに来る前に、小十郎に似た香りを感じた佐助は、ほんの少しの罪悪感を胸に沸かせた。 小十郎の腕に、力がこもる。「んっ、ちょっと、苦しい」 身じろげば、ますます小十郎の力が強くなった。「ちょっと、片倉の旦那」 文句を言えば「小十郎、だろう」 咎められた。「もう」 小十郎の耳朶に唇を寄せ、甘噛みをする。「小十郎に似た香りを、嗅いだよ」 そっとささやけば、不思議そうに小十郎が顔を上げた。「同じ銘柄の煙草、吸ってたんじゃないかな」「そんなモンで、俺の匂いになるのか」 不服そうな小十郎の頬に、唇を寄せた。「アンタに会えなくて、寂しかったのは俺様も同じだって事だよ」 実際に傍で嗅げば、微細な違いに気が付くものだ。けれど、乞い求めている間はわずかでも、似たものがあれば惹かれてしまう。 小十郎の首に顔を摺り寄せた佐助が、スンと鼻を鳴らした。不思議そうに身を起こした小十郎の胸に顔をうずめ、鼻をうごめかせる佐助の髪に、小十郎の指がからむ。「犬みてぇだな」「犬みたいに、従順?」 上目づかいに薄く笑って見せれば、頬を両手で包まれた。「オメェが従順なら、世の中の人間は、みんなそうなんじゃねぇか」「何それ。ひっでぇ」 クスクス喉を鳴らしあいながら、唇を重ねる。「小十郎だって、俺様の匂いがどうのって言いだして、犬みたいじゃん」「なら、犬みてぇにじゃれあうとするか」「んふ。賛成」 指をからめ、腕をからめ、肌身を寄せ合い互いの香りを自分の肌に擦り付けて、悦びに胸を震わせながら唇を合わせる。「小十郎」「なんだ」「もっと、アンタの香りを俺様に与えてくれないと、困ったことになっちまうぜ」「困ったことだと?」「そう。――アンタに似た香りを感じちまうと、一瞬で体温が蘇っちまうから、ついて行きたくなるんだよ」 視線を絡ませた小十郎が、深く佐助の胸に愛おしさの楔を打ち込む。「――っ」 息をのんだ佐助のすべてが、爆ぜた小十郎の香りに覆い尽くされた。2013/05/27