コツコツと無機質な音が響くアスファルトを進んでいく。外套が足元を月明かりよりも強く照らしてはいるが、数メートル先に人がいても顔を判別することができるほどではない。 もっとも、八神庵にとっては、日中であろうとそうでなかろうと見える見えない以前に、他人に興味がないのでどちらも同じことではあった。 唯一、興味の対象である男は漆黒の闇に塗りつぶされた空間であったとしても、瞬時に判別をすることが可能だと自負している。ゆえに、庵にとって街灯の明かりは存在をしようがしまいが同じことであった。 だが、ふとマンションに帰り着き、見上げた自分の部屋から明かりが漏れている事には、怪訝そうに片目をわずかに細めた。 鼻から小さく息を吐き、先ほどまでと変わらぬ様子でマンションに入って鍵を取り出そうとし、その手を止めてドアノブへ移動させる。ひねると、鍵がかかっていた。「……」 鍵を取出し、改めてドアを開ける。バラエティ番組でも観ているのだろうか。複数人の笑い声が聞こえた。 玄関にある靴を一瞥し、リビングに入るとソファですっかりくつろいだ風情の男が振り返った。「おう、おかえり」 合わせた目をすぐに外し、部屋に向かおうとする庵の背中に声がかかる。「台所に鳥買ってきてあるから、食えよ」 顔を向けると、赤と白の大きなバスケットに、白いひげを蓄えた柔和な笑顔が描かれているものがあった。肩からベースのハードケースをおろし、近づく。「おまえん家、いっつも何も無ぇからさ」 大きな独り言のようにも、話しかけているようにも聞こえる声を聞きながら蓋をあける。ぎっしりと、フライドチキンが詰まっていた。手に取ってみる。すっかり冷たくなっていた。「もう冷めてるだろ。チンして食えよ」 面倒くさく、従う気にもなれず、そのまま齧る。冷え切った肉が歯にあたる感覚に、何の感慨も示さず食いちぎると、背後から覗きこまれた。「あぁ、やっぱり。温めて食えっつったろ」 ほら貸せよと庵の手からバスケットを奪うと、大きな皿の上に鶏肉を乗せ、電子レンジに突っ込んでボタンを押す。電子レンジは暖かそうな色を発し、肉を温め始めた。「ワイン、持ってきてるからさ。ソファ行っとけよ」「――貴様、何しに来た」「聞くの、遅くねぇ?」 驚いた風も笑う風もなく言われ、再度問う気にもなれずにソファに向かう。ワインのボトルと空のグラスが二つ、散らかったチーカマの空き袋とビールの空き缶、それにサラミの包みがあった。「なかなか帰って来ねぇからよ」「鍵は、どうした」「あ? 管理人に開けてもらった。俺の顔、覚えてたぜ」 にやりとする顔から、テレビに目を向ける。観る者が見れば楽しめるであろう番組は、庵にはただ煩いとしか感じられずリモコンを手にした。「あっ――まぁ、そんな真剣に観てたわけじゃ無ぇけどさ。一言、断ってから切れよな」「ここは、俺の部屋だ」「そうだけどよ」 まぁいいや、と声に出さずに呟き、庵の部屋に勝手に上り込んでいた男―草薙京は軽い音を立てたレンジからフライドチキンを取り出した。「よし、食おうぜ」 ローテーブルの上にある空き袋を捨ても除けもせず、そのまま上に皿を置く。いちいち言うのも面倒で、ワインを開ける京を眺めた。「紅丸がくれたんだけどさ、一人で飲むのもつまんねぇだろ」「知るか」「お前が寂しがってんじゃないかと思ってな」「下らん」 口内で吐き捨てながら、フライドチキンに手を伸ばす。「あ、これまだ全部あったまって無ぇじゃん」 大量に温めさせられた電子レンジは、表面の熱だけを感知していたらしい。温かい場所から冷たい場所へ、歯が差し込まれる。歯茎に感じる熱の変化にさほど何かを思うことなく、庵は租借し続ける。文句を言った京も、温めなおす様子も無く、そのまま食べ続けている。 ワインを手に取り、口に運んだ。「初物だってんで、貰ったんだよ」 わずかにしかめられた庵の眉に気づいたのだろう。「今年は、結構いいブドウが採れたって聞いてたらしくてよ」 そんな言い訳をした。「でもまぁ、好みもあるからな。俺は嫌いじゃねぇけど、お前には、甘いかもな」 ラベルには【カーヴド リラックス ボジョレー ヴィラージュ ヌーヴォー】と記載されている。澱の出ているこれは、なるほど良質で旨いのだろうが庵の口には合わなかったらしい。それでも彼は、次々とフライドチキンを平らげ、口内の油分を流すためにワインを飲み続けた。それを見ながら、京も食を進める。 黙々とした食事の時間。それが済むと、ふぅと一息ついてから立ち上がり、当然のように京が言った。「んじゃ、行くぜ」「何処にだ」「大門とこ」「――――用は無い。貴様が一人で勝手に行け」「お前が行かねぇと、意味が無ぇの」「知らん。貴様が貰ったというワインを消費するのには付き合っただろう」「もう少し、付き合えよ」「暇ならば、他を当たれ」「他じゃ、満足できないんでな」 いぶかるように、目線だけを京に向ける。「寒いからさ。運動しようぜ運動。体の芯から熱くなるだろ」「それならば、その辺でかまわんだろう」「誰かに警察呼ばれたら、困るだろ」 しばしの間があって、のそりと庵が立ち上がる。「そうこねぇとな」 京の唇がニヤリと歪んだ。「大門、わりぃ。道場借りるぜ」 前もって連絡をしていた、とかではないらしい。いきなり訪ねてこられ、そのようなことを言われても、いやな顔ひとつせず無口な友人は道場へ二人を案内した。少し大きくなった大門の息子が見学したいと言うのを、大門が止める。「近づくのは、危険だ」「火は出さねぇよ」「そうしてもらえると、ありがたい」 息子を抱え去っていく背中を見送る庵に、腕を伸ばして軽く体をほぐすように飛びながら言う。「ってわけで、大技は無しな。壊さない程度に、楽しもうぜ」 ゆらりと、庵が動く。「下らん」「やらねえの?」 返事の変わりに、庵が床を蹴った。 まっすぐに京に向かう鉤状になった指が、獲物の肉を引き裂くために伸ばされた。「おおっと」 左足を重心に半身をひねり、かわす。目の前に来た庵の肩めがけて肘を下ろすと、それより深く沈んだ庵にふくらはぎを囚われた。「くっ」 バランスが崩れる前に、囚われていない足で背を逸らしながら自ら飛ぶ。両手で床を押し上げるように体を後方に移動させ、距離を取った――はずが眼前に鋭い爪があった。「ッ!」 顔をひねる。かすった爪が、頬に赤い線を描いた。「チッ」 舌打ちをした庵の腕が、横に払われる。それを両手で捉え、体の回転を交えて捻った。「クッ」 ミシと筋が軋む。そのまま捻りきろうとした京のわき腹に、庵の爪が刺さった。「ッ、ウ」「ガッ」 京の足が捻っていた腕の肩を蹴り上げる。同時に後方にとび、二人の距離が十二分に離れた。庵の片腕が、伸びている。肩が外れたらしい。 忌々しそうに目をくれた後、自分ではめ直し軽く動かして稼動域を確かめる。 どうやら庵は問題なさそうだと判断した京は、えぐられたわき腹に手を添えた。血が滲んでいる。が、動けないほどではない。無視が出来ない痛みはあるが、それは向こうも同じだろう。「ふっ」 軽く息を出して、今度は京から仕掛けた。放物線を描くように飛んだ京の踵が、先ほど外した庵の肩を狙う。足を受け止めようと伸ばされた庵の手を、足の起動を変えて弾く。中空でバランスの崩れた京の体を掬い上げるように、庵の腕が振り上げられた。「くっ、ぉ」 体を捻り、なんとか逃れる。床に落ちた京の顔めがけ、庵の足が下ろされた。「っ、の」 受け止め、膝で脛を狙う。足が弾かれ、わずかな隙が出来た。持ち上がった足をもう一度反動をつけて振り上げ、腕と肩で体を持ち上げる。「ゴッ――」 庵の顎を、踵が捉えた。そのまま身を起こそうとする前に、足首が掴まれる。「ぐはっ」 膝が、みぞおちに埋め込まれた。思わず両手で抱えたところを、床に放り投げられる。「――ッ」 床板が軋む。蹴り上げようと迫ってきた足にタイミングをあわせ、それが伸びきる前に拳を叩きつけた。「ぉ、ぐ」 骨の軋む音がする。後方に動いた庵の足を追いかけ、起き上がりざま膝頭に拳をたたきつけた。「ッ、ア」 確かな手ごたえを感じながら、身を起こす。 空気がしわひとつ無く伸ばされ、向かい合う二人を世界から切り離していた。「行くぜ」「フン」 腰を落とし、同時に床を蹴った。 頃合を見て、大門が医療用具を持って道場に現れた。ついてきた彼の息子は庵と京の姿を見て、目を丸くする。それに細い目をさらに細めた大門は、頭を撫でてから二人の治療に取り掛かった。 治療を終えた後、風呂に入るのは辛いだろうと湯とタオルを用意され、体を拭いて与えられた服に着替える。門下生たちのために用意してある部屋には、布団が敷かれていた。「飲酒運転は、出来ねぇしな」 遠慮なく泊まることにした京に、付き合う形で庵も好意に甘えることになった。「用意が、いいな」「大門だからな」 よくわかるようなわからないような返答をして、早々に布団にくるまった京を眺め、庵も横になった。 なにやら騒がしい。 瞼を上げて、身を起こす。横の京はまだ眠ったままだ。少し考えてから、騒がしいほうへ足を向けた。「あ、八神さん」 大門の脇越しに、矢吹真吾が顔を出す。人懐こい笑みを浮かべ、近寄ってきた。「うわ、痛そうッスね」「大門から、来てるって聞いてな」 二階堂紅丸が、軽く片手を挙げて見せた。「朝食の用意が、出来ているが」「あ、俺もご相伴に預かりたいッス!」 庵が食べるとも食べないとも返事をしていないのに、真吾が応える。「たくさんありますから、大丈夫ですよ」 大門の妻だろうか。柔和に応えた女性に「手伝います」と真吾が言って共に去っていく。じっと見上げてくる視線に気づき、顔を向けると足元に大門の息子がいた。表情無く見上げてくる顔に、表情なく見下ろす顔。「気に入ったようだな」「俺には、よくわからないけど」 大門と紅丸が言うのが、耳に入った。「はやく食べましょうよ。うまそうッスよ」 真吾に促され、大門と息子が良い香りの方へ移動する。それを目で追う庵の横に、紅丸が立った。「京が、昨日行ったんだろ」「――――」「それで、連れてきたんだろ」 何が言いたい、と険のある目を向ける。「人は、人でしか居られないってことだ」 ふっと胸に溜まっているものを吐き出すような暖かな苦笑を浮かべ、紅丸の手が庵の肩を軽く叩く。「どんなに人外っぽくなったって、人は人の間でしか、生きられねぇんだよ」「それが、どうした」「忘れてるんじゃないかってさ」「何をだ」「さあな」 軽く肩をすくめて、紅丸が庵を促す。しぶしぶ足を進めた先では温かな朝食と笑顔が用意されていた。「もう、早く席についてくださいよ二人とも」「はは、悪い悪い」 その空間に、紅丸が当たり前のように溶け込む。「八神さんも、ほら」 真吾が、自分の横の椅子をわずかに引いた。そこに、庵が座る。「いただきます」 異口同音のあいさつの後、皆が箸を手に食事を始めた。「あ、俺のは?」 食事がある程度進んでから、寝ぐせの残ったままの京が顔を出す。「起きてこない草薙さんが、悪いんスよ」「すぐに用意いたしますね」「あ、サンキュ」 真吾の頭を軽く小突きながら、席を立った女性に言い、当然のように庵の横に座った京が、からかうような笑みを浮かべた。「――なんだ」「悪く、ねぇだろ」「知らん」 ふわりとした空気に包まれ、憮然とした顔のまま庵は箸を進めていく。 ほんのわずか、あるかなしかの笑みを口の端に浮かべて――――。 2011/11/25