インターフォンがうるさい。 もそ、とベッドの上で迷惑そうに八神庵は姿勢を変えた。 遮光カーテンが室内を闇に閉ざし、今は何時なのか判然としない。けれど、時計を確かめる気など、さらさら無かった。 インターフォンが連続して鳴らされている。左右どちらの隣人への訪問かは知らないが、いい加減諦めて去るだろうと思った矢先「八神! いるんだろ八神!」 ドア越しにくぐもってはいるものの、知りすぎるほどに知っている声と、乱暴にドアを叩く音が聞こえて身を起した。 ――何なんだ。 眉根に自然と皺が寄る。眠りのふちから引きずり出された脳が、鈍く痛む。覚醒をしきっていない体を動かし、近隣の迷惑など考えない大声で呼ばわりながらドアを叩く男に、ぶつける勢いで扉を開けた。「うおっ、と」 避けられたことに、舌を打つ。「ったく。さっさと出て来いよな」 開いたドアに足をかけ、半ば強引に入り込んできた。「何の用だ、京」「ん。珍しい天体ショーへの、お誘い」 ぐいぐいと玄関に入った草薙京が、靴を脱ぎながら突っ立っている庵に言う。「さっさと出かける用意しろよ。待っててやるから」「約束をした覚えなど、無いが」 庵の声を黙殺し、勝手しったる感じで台所に立つと「ほら、珈琲淹れておいてやるから、着替えて……じゃ、無ぇな。服、着て来いよ」 もうすっかり、こちらの都合などお構いなしに決めてしまっているらしい。予定があると言えば、あっさりと引き下がるだろうが、そうすることも面倒で、庵は寝室へ入り「ふ――」 鼻から息を漏らして、ベッドに転がった。 ゆったりとした睡魔が、全身を覆う。とろりとした蜜のような微睡に身を委ね、意識を少しずつこぼしていき「あ! 何、寝なおしてんだよ」 意識を掬われた。「ほら、空は待ってはくれねぇんだぞ」 かぶった布団を剥ぎとられる。迷惑そうな目を向けると、あきれたように息を吐かれた。「ほんっと、寝起き悪いな」 ふい、と顔をそむけて体を丸め、寝なおす、と態度で表した。「こら。寝なおすなら、見てからにしろよ」「何をだ」 眠りに引きずられた声は、常から不機嫌そうに聞こえる庵の声をしゃがれたものにして、凄味を増していたが「金環日食」 もっと剣呑な庵を知っているので、京は意にも解さない。「金環日食――?」 そういえば、そんなようなものがあると誰かが言っていたような気がする。「部分じゃ無いってぇのが、珍しいよな」「どうでもいい」「月が太陽を食うんだぜ」「それがどうした」 に、と京が悪童の顔をする。それに、不快そうに庵が目を細めた。「俺の背中にあった日輪みてぇに、見えるらしいぜ」「一人で見て、喜んでいろ」「つれねぇな」 ぎし、とベッドが軋む。京が端に座ったのに、庵が背を向け目を伏せた。「月を背負ったオマエと、太陽を背負った俺が日食を見るなんて、皮肉っぽくて面白いだろ」「どうでもいい」 本当に、どうでもいい――そんなものに縛られるつもりもない。「貴様がどう思おうが、そんなものは、関係ない」 ふ、と京の気配が滲んだ。「家も何も関係なく、俺を追ってる気がしれねぇな」「知られたいとも、思わん――貴様は、俺が殺す。それだけだ」 ふ、と呆れたような鼻息を漏らし、軽く庵の肩を叩いて立ち上がる。「ま、さっさと着替えろよ。珈琲、出来てるぜ」 気配が十分に去ってから、庵は体を起し、ジーンズに足を入れ、適当なシャツを羽織った。 リビングに出ると、ソファでくつろぐ京が勝手に見繕ったらしいチーズやソーセージの盛り合わせを前に、珈琲を飲んでいる。「寝すぎると、脳みそが溶けて耳から出るぞ」 庵が眠りにつくのは、遅い。そんなこと承知をしているはずの言は、あいさつ程度の意味しか無くて「ふん」 あいさつ程度の意味しかもたない鼻息で応え、京の隣に腰をおろし、珈琲の香りを脳に滲ませ、味を口に含みながら時計を見る。 6時37分。 こんな早朝に、大声で呼ばわりながらドアを叩いていたのかと、眉をひそめた。「なんだよ。珈琲がまずいとでも、言うのか」「いや」 詰る気も注意をする気も無く、じわりと珈琲が体中に染みていくのを感じながら、ゆったりと飲む。京は何も言わず、口を動かし、ふと思い出してテレビをつけた。「こちらの空は、雲があるんですが、流れが速いので――」 レポーターが喋る背後に、空を見上げている人々の姿が映っている。金環日食を見ようとしている人々らしい。 無言でチャンネルを変えていくが、どの局も金環日食に注目をしていた。「ここの屋上からなら、よく見えそうだよな」 あとどれくらいで、とレポーターが見える地域それぞれの地点の時刻を伝えてくる。「面白ぇよな」 いったい何が面白いのか、庵にはわからない。何をそんなに、騒ぐ必要があるのだろう。「――見るための道具なぞ、何も無いぞ」 ふと、画面を見て気づき口にすると、ポケットから油性マジックを得意げに取り出した京が「グラスの底を、これで塗りつぶしゃ、いいだろ」 その言葉を否定するかのように、専用のものを使ってみてください、とテレビが警告をしてきた。「ちょっとぐれぇ――」 テレビに向けて文句を言いかけた京の言葉を、インターフォンが遮った。「誰だよ、こんな時間に」 迷惑そうな声で立ち上がった京は、自分はもっとひどかったことなど棚に上げて、人の家であるのに来客を確かめに行く。「おお」「やっぱり、ここだったか」「よくわかりましたね、紅丸さん」「京は、単純だから読みやすいんだよ」「ンだと」 賑やかな声が、玄関から流れてきた。テレビの音も、その声も無関係のものとして耳に流しながら、珈琲を啜りチーズをひとかけ、口に入れた。お「八神さん、お邪魔します」 最初は自分の事を怖がっていたはずが、いつのまにか懐いた、と言ってもいいくらいに親しげな笑みを向けてくるようになった矢吹真吾が、庵の斜め前に座る。「京にたたき起こされて、まだちゃんと目覚めてないんじゃないか、八神」 シンプルな服装をしているにもかかわらず、派手な印象を纏う二階堂紅丸が柔らかな笑みを浮かべ「紅丸が、車でいい場所に連れてってくれるってさ」「京の事だから、何の準備もしないで見ようとするだろうから、ちゃんと用意をしてきたぜ」 その声に、真吾が嬉しそうに観測用メガネを取り出して見せる。「まだ気だるいだろうけど、車に乗っていたらそのうち目も覚めてくるだろう。ほら、早くしないと、一番いいのを逃しちまう」「八神さん、ほら」「行くぜ、八神」 促され、立ち上がり、人々の興奮を煽ろうとしているのか自分が本当に興奮しているのかわからないテンションのレポーターを横目で見ながら、テレビを消した。「早くしろよ」 ドアを開けて、三人が庵を待っている。「――――」 あるかなしかの笑みを浮かべ、玄関のカギをかけた。 2012/05/21