風が通りすぎる時、名前を呼ばれたような気がして伊達政宗は振り向いた。屋敷そばの寺の境内で振るっていた刀をおろし、周囲を見渡す。空の藍と日没の茜が、雲を染めて趣味の良い重ねを織る。 黄昏時――――誰彼時。 人の姿は影となり、滲んでしまう時間帯。 誰も居ない事を確かめて、政宗はつまらなそうな顔で向き直る。 夕闇迫る空の下。あちらこちらで、生活の火が灯る。そろそろ帰らなければ、失ったはずの彼の右目――右目に収まるような相手ではないが――と呼ばれる男、片倉小十郎に小言を言われることは明らかで、刀を一振りしてから収め、ゆっくりと歩きだした。 夕食を終えた政宗が六爪の手入れをしていると、部屋に小十郎が現れる。庭を眺めながらで障子は開いているというのに、彼は政宗が許可を出すまで部屋に入ろうとはしない。 規律を重んじているのか、融通の利かないだけなのか、またはその両方か――――。 「政宗様」 「Ya 入れ」 「失礼致します」 渡り廊下で座した小十郎に声をかけると、彼は政宗の正面より少しずれた場所に膝を揃えて控えた。次の言葉がかかるまで、政宗が手入れをしているのを眺めている。 背筋を伸ばし座している小十郎を呼んだのは政宗だ。しかし、彼は入れと言っただけで小十郎に目を向けようともせずに手入れを続けている。小十郎はそれを気にする風でもなく、当たり前のように、初めからずっとその場に居たように座していた。 手入れを終えた政宗が刀をかざし、刀身に月を捕らえる。その光を小十郎に当てるように角度を変えると、眩しさに小十郎は目を細めた。 「どうだ」 「――――どこもまだ、何の動きも見せず、城下にも特に問題は無さそうです」 「そうか――――」 刀を鳴らしてから収め、月光に滲む庭を眺める。風のない、音もない景色は作り物であるかのように――――遥かに遠い場所のように見えた。 沈黙が訪れる。 政宗が小十郎を呼んだのは、問うたことの答えが欲しかったわけではない。そんなことは、昼間の軍議で知っている。小十郎もまた、自分が呼ばれた理由は先ほどの応えとは別のところにあると知っていた。知っていたが、それが何かまでは政宗にしかわからない。ただ違っていることだけを悟り、傍に居る。 しばらくして―――― 「小十郎」 「は」 政宗が口を開き、小十郎が返事をして再び沈黙が戻る。何かを言い淀む気色の政宗を急かすでも促すでもなく、小十郎は静かに座して政宗を見つめる。 「視線を、感じる」 「――――視線、ですか」 「視線というか、気配というか――――多分、視線と言うのが一番合っているんだろうが…………」 迷いながらの言葉に、珍しそうに小十郎の眉が動いた。 「とにかく、なにかが居るような気がする。よくわからねぇが――――今日は、呼ばれたような気がした。空耳かとも思ったが、どうもそういう気がしねぇ。だからといって、気持ちが悪いとか、そういう不快な感じは無ぇ」 考えながらの言葉に、小十郎は静かに視線を向けている。 「――――どうも、気になる」 うまく言葉に出来ないもどかしさからか、顔をしかめて呻く政宗に、小十郎は唇の緊張を解き、笑みを乗せる。 「この小十郎、どのような些細な事でも尽力いたします」 「ああ、Thanks 小十郎」 自らの兜の前立てと同じ形に唇をしならせた政宗が、小十郎に目を向ける。その瞳が困惑した色を見せて伏せられた。