波が岩にぶつかり、砕ける。 岩の上には松が生きていた。 様々な形の、似たような岩が点々としている海を、男は眺めていた。 若葉色の衣の袖が、海風に揺れている。空は、海の一番薄い色を模写している。 「居るのだろう。姿を見せよ」 声になるかならないかの息をこぼす。ふいに、背後の空気が揺れた。ゆっくりと凝り、人の形を成してゆく。 海を眺める男より、ずいぶんと大きい。髪は白く、左目を眼帯で覆っている。剥き出しの肌は逞しく、声をかけた男など軽く捻ってしまえそうに見えた。 「よお、毛利ぃ」 両手を腰にあてて、親しげに声をかけてくるのは人ではない。 西海の鬼。 名を、長曾我部元親と言う。 縁あって目の前の男、毛利元就の式となっていた。ただの式ではない。命じられたことをするわけではなく、自分の意志で動く。元就に意見もする。友のようなものと言われれば元就は酷く顔を歪めるが、それが二人を表現するのに一番近い言葉であった。 「我が駒が、我に何の用ぞ」 ゆっくりと振り向く元就の瞳は、わずかに不機嫌な色を宿している。 「いずれ、話が来るだろうけどな。――――雨を降らせてぇ」 「雨……だと」 「ああ、雨だ」 頷く元親に怪訝な顔をしてみせ、すぐに興味を失ったらしく鼻を鳴らして表情を消す。 「雨ならば、我ではなく竜神に話をするがよいわ」 「その竜神が来る手助けを、あんたにしてもらいてぇのよ」 「――――貴様のような鬼ならば、竜神に話をつけるくらいは出来よう」 「話くらいは、な。けどよう毛利。話したってぇ、来るための道が塞がれてたんじゃあ、どうしようも無ぇだろう」 元就の目が、鬼の言葉に含まれるものを見ようと細められる。元親は薄く懐こい笑みを浮かべて立っている。 「――――貴様、よもや」 言い掛けて、元就が口をつぐみ元親の背後へ視線を移す。元親が振り向くと、能面のような顔の女が立っていた。 「ほら、きやがったぜ」 「客か」 ニヤリと笑った元親を無視し、元就が女に問う。女はこくりと頷いた。 「ならば、戻ろう」 それを聞いた女の姿はみるみる縮み、ネズミとなって駆けて行った。元就の屋敷には、こうした式が世話をするために住んでいる。人は、いない。一度、元親が人を雇わないのかと問うてみたことがあった。その時の答えは、無駄な駒はいらぬ、というものであった。それ以来、鬼はそれを口にしていない。代わりに、呼ばれてもいないのに現れるようになった。それを、忌々しそうにしながらも、元就は厭わしいと追い払うことはしない。仕事の後に、報酬を分けてやることもあった。 曰く、駒は使うばかりでは疲弊する。使えぬようでは話にならぬ。 元親はそれを楽しそうに甘受していた。先ほどのネズミらにも、何がしかを与えてやったりもしている。そうして、元就は人ならざるものの間で生活をしていた。 屋敷に戻ると、中間役の式が出迎え、元就の足を濯ぐ桶を雑色役の式が抱えてくる。侍女役の式が案内をして、客人の待つ部屋へ元就と元親を通した。 「おお、これはこれは」 部屋には、タヌキを思わせる男が待っていた。服装からして、商家の主といったところか。かなり裕福らしく、着ているものの質はいい。一瞥しただけで何も言わずに円座に座る元就と、そのわずか後ろに立つ元親を見て、男は肉厚な手のひらを擦りあわせながら饅頭のような顔をゆるませた。 「さすがに、名高い陰陽師殿であらせられまするなぁ。屋敷に居るもの全てが麗しい。よくもここまで、と思いましたが成る程。毛利様の神々しさなればと、納得いたしました」 そのようなことを言われても、元就は眉一つ動かさない。それにたじろぐこともなく、男は続ける。 「やっ。これはしたり。毛利様はこのようなこと、言われなれておりますでしょうに、いやはや全く」 ぺちり、とデコを叩いた男が一人で笑う。元就はにこりともしない。元親が口を開いて男を促した。 「で、いってぇ何用でやってきたんだい」 「おお、そうでしたそうでした。あまりに眼福な方ばかりを見ておりまして、本題を忘れる所でした。――――実は、雨を降らせて欲しいのです」 笑顔をひっこめ、真剣な顔で身を乗り出し、声を潜めた男の言葉に元親が眉をひそめた。 「あんた、干上がった池の近くの領主かなんかか」 「なんと、池が干上がったことをご存知でしたか。いやはや、長く雨が降りませんで、難儀をしておるのです。水が無ければ米が出来ぬ所か、人々も乾いて朽ちます。海の水を田畑にひくわけにもいかず、このままでは多くの者が死に絶えてしまいます」 「――――貴様のような者は、多少飢えた方が良いのではないか」 「おい毛利」 「はっはっは。構いません構いません。たしかに、私のようなものならば、多少飢えた方が見目も良くなりますでしょうが、民はそうは参りません。どうぞ、雨を降らせてはいただけないでしょうか」 少しの間、元就は男を眺めていた。男はそれに真っ向から目を向けてくる。ふいに、元就の唇にあるかなしかの笑みが浮かんだ。 「引き受けてやろう」 そういう事になった。 男が去った座敷で、元就は茶を啜っていた。鬼は頭の後ろで腕を組み、空を眺めている。青く澄んだそこには、雨の気配など微塵もない。 「で」 湯飲みに目を落としたまま、元就が声をかける。 「あん?」 「どうやって渡りをつけるつもりでいる」 「何のことでぇ」 「貴様、我に奥州の竜神を呼ぶ助けをせよ、と言いたかったのであろうが」 ニヤリと鬼が笑った。 「手助け、してくれんだろ」 「貴様に恩を売っておくのも、悪くない」 「竜神と顔見知りになっておくのも、だろう?」 ちらり、と元就が元親を見る。ふんと鼻を鳴らして目を逸らす元就に、軽く肩をすくめてみせて、大股に近づきしゃがんで顔を覗いた。 「竜神との話は俺がつける。毛利、あんたは道を作ってくれ」 逸らされた目が、元親の目に戻る。それを逃すまいと、元親は顔を近付けた。 「奥州とここの間にゃ、甲斐がある」 「――――百足衆か」 すぐに思い当たることがあったらしい。呟いた元就に深くうなずき、鬼は続けた。 「そいつらが、竜神が来るのを阻む」 甲斐には、統治をしている妖虎信玄の手足となり働いている百足衆という妖がいた。古来より、竜神は百足を苦手としている。かつて自らの益の為、自作の旱魃(かんばつ)を作り、雨を降らせると人々に言い回った法師が居た。その旱魃(かんばつ)を作るとき、竜神を封じた洞窟の入り口には巨大なしめ縄と二匹の大百足が添えられていたという。戒めを解かれた竜神は怒りのままに豪雨をもたらしたが、高名な陰陽師が説得をして大水害は免れた、という話が残っていた。百年ほど前の話だが、その道の者の間では有名なものであった。 「行きは、海を渡ればすぐに着く。だが、帰りはまずい」 「竜の水に、塩がつく、か…………」 ふむ、とうなずいて、元就は立った。 「行くぞ」