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Tide Moon River

 少し路地に入るだけで、街の喧騒はひどく遠いものになる。ブロック塀とビルの隙間。アンモニア臭や何かの腐敗臭のする空間には、あまり光が届かない。少し先に行けば、夜だというのに昼間よりも明るい色とりどりの光があるというのに――――。
  目的の無い足はそこを避けるように、この場所にたどり着いた。どうしてここにいるのか、何故ここに来たかったのか、何故この場所で立ち止まったのか。
 わからない。
 わからないが、彼は暗く薄い隙間にたどり着いた。そして、足を止めた。唇が乾いている。空腹など、とうに忘れてしまった。
 
 ここは、どこなのだろう。
 自分は、誰なのだろう。
 どこに、行くのだろう
 どこまで、行けるんだろう。
 誰に、会いに行くんだろう。
 誰に、会いたいのだろう。
 脳裏に、ひとつの言葉がある。
 たぶんそれは、誰かの名前。
 脳裏に、一人の面影がある。
 たぶんそれは、言葉の相手。
 
「どこに、行く気だ」
 声がかかり、ゆっくりと顔を向ける。逆光で見えない。黒い影にしか、見えない。影は応えない自分に、ゆっくりと近づいてくる。
「喋れないのか」
  何も思いつかない。答えるための言葉が、わからない。影は真直ぐ自分に向かってくる。何者なのだろうか。自分が誰なのかを、教えてくれるのだろうか。
「ついてこいよ。ひでぇツラだぜ?」
  伸ばされた手を取る。どこに連れて行かれたとしても、今よりはずっとマシだと思えた。何も見えない、何もわからない今よりは、ずっと――――――――
 
 アパートというよりも、下宿先と呼んだほうがしっくりくる場所で、八神庵は寝返りを打つのも苦労しそうなくらい狭いベッドで横になっていた。自分の動く目的は、あの日から――――漆黒の太陽に照らされたあの日から、草薙京に関することだけだと知っている。確固たる証拠がなくとも、本能といおうか嗅覚といおうか、そういうものが京の居場所を教えてくる。ソレが漠然としたものであっても、庵は直感に従うことにしている。そしてその直感のままに到達した先で、庵は女に拾われ、このアパートでしばらく飼われていた。無論、京の気配があればすぐに去るつもりでいる。だが、手がかりが無い。このあたりに京の居るような気がしてはいる。だから、大人しく女の管理しているというアパートの一室で飼われてやっていた。ここに居れば、不要な金銭を使わなくてもいい。無尽蔵に金が出てくるわけではない。ストリートファイトで稼ぐという方法もあるが、もともと争いは好まない。草薙京以外に拳を振るう気などない。時間と労力の無駄だ。だから、女の申し出を受けた。断る理由が無い。
 女は、庵が思っていたよりも庵の扱いが巧かった。何も言わない。何も求めない。ただ、庵の世話をするのが楽しい、という風情だった。だからといって、あれこれと細やかに構ってくるわけでもない。一体、庵の何を気に入って連れてきたのかはわからないし、そんなことは庵にとってどうでもよかった。食住が手に入る。居心地も悪くない。京の気配を探り、疲れれば――空腹になれば戻ればいい。一日の出来事を女は喋ってきたりするが、庵が何の反応も示さなくとも嫌な顔などしない。だから、庵はここに居た。
「ねぇ。今日はどこまで行ってきたの」
  女が話しかけてくる。庵は当然のように無言で、女はそれを気にする様子もなくオーブンで何かを焼いている。芳ばしい香りが漂ってきた。
「今日はチキンの香草焼きよ。それと、マッシュポテトにビーンズサラダ」
楽しそうな女を眺め、ボウルいっぱいのビーンズサラダを眺め、オーブンに目を留めて、籠に入っているバケットを見た。
「もうすぐ出来るから、座っていらっしゃい」
  女は、庵の母くらいというには若く、姉というには上のようだった。世話を焼くのが楽しいと体中からにじみ出ている。男として、庵に惹かれて拾ったわけでは無さそうだった。従うわけでもなく、かといって拒絶するでもなく、庵はテーブルに着く。ぼんやりと女の動きを眺め、窓の外に目を向けた。
  女の気配が動いている。
  楽しそうに。
  踊るように。
 それを違う世界の出来事のように感じながら、庵はただ、窓の外を眺め続ける。
 ふと、その眉間にしわが寄った。
  音を立てて立ち上がる。
「庵ッ?」
 窓を開けて、身を乗り出す。夕闇が迫っている。一眠りしてから、月明かりを頼りに草薙京の気配を求める予定でいた。だが、それも必要なくなりそうだ。
「どうしたの、急に――――っ!」
  背後で女が息を飲む音が聞こえた。アパート三階の窓枠を乗り越え、庵はそのまま空中に飛び出す。建物の壁を蹴りながら勢いを殺し、下まで降りる。見下ろしてくる女に、一度顔を向けて走り出した。かすかだが、はっきりとしている。これは、間違いなく草薙京の気配だ。もうひとつ、何かの気配を感じるが、それが何なのか庵にとってはどうでも良かった。
――――京ッ!
 それだけが、目的なのだから




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