うらやましいと言うのは、間違っているのかな。 友達が恋人と喧嘩をして、それを愚痴っている姿に対して言うのは。 だって、ささいな事で喧嘩が出来るなんて、それだけ相手にぶつかる事ができるって事で、受けとめてもらえるって事を知っているって事で…………やっぱり、うらやましいと思う。 私も、そんなふうになりたい。 あの方と――――幸村様と。 出仕をする事が決まり、私は唇を引き結んで館の通用門をくぐった。こちらにお世話になりながら、良い方に見初められるようにと両親が話を進めているのを知った時から、私は先に別のお屋敷へ出仕した従姉の事を思った。――――彼女は、その先でさる方に見初められ、祝言を上げた。母も、同じように父と出会ったのだと聞いて、私の胸はまだ見ぬ未来の旦那様はどんな方だろうという想いと、出仕先での生活に対する不安とで、いっぱいになっていた。 お世話になるということで、兄に連れられて来た館は、信玄様のもの。 出仕する先のことは聞いていたけれど、まさか本当に私が甲斐を統べる方の傍で生活をするなんて夢にも思わなかったから半信半疑だった。でも、それは本当に本当で、私は更に膨らんだ緊張を、わずかな持ち物を詰めた風呂敷と一緒に抱き締めて一歩を踏み出した。 こちらにお世話になって数日。 侍女のみんなは気さくで、なにくれと私の事を気に掛けてくれる。それはそれで心地がいいのだけれど、それでも夜がくれば淋しさとも悲しみともつかない虚脱感に襲われた。よく眠れない夜もあった。 昼間、仕事も一段落ついて手の空いた時間に、私は一人になりたくてフラフラと歩き中庭にたどり着いた。軍議も来客もないから、広間は静かで人気もない。縁側に座って庭に向け、息をついた。 静かな時間。 一人だけの時間。 みんな優しくて気遣ってくれるけれど、時折それが息苦しくなる。仲良くなった侍女から、慣れるまでは自分もそうだったから、時々こっそり抜け出してみればいいと進められて、私はここに来た。外に出てもいいのだろうけれど、一人での外出は少し不安で淋しかったから。 庭木に小鳥の姿が見える。家にいた頃は、時折スズメの子に米粒を分けたりしていたっけ――――。 急に淋しさが強くなって、じわりと涙がにじんでくる。誰もいないから、我慢なんてしなくてもいい。少しずつたまって零れる涙をそのままに、ぼやける庭を眺めた。 「そのような所で、如何なされた――――っ! どうした 、どこか痛むのか」 声がして、顔を向けると幼さの残るお侍様がいた。手 に、二本の槍を持っている。――――そういえば、誰かが言っていたっけ。赤い鎧の真田幸村様という方が、庭でよく鍛練をされていると。きっと、この方がそうなんだろう。だって、こんな炎のような鎧を着ている人が沢山いるようには思えないから。 幸村様だろう方は、しゃがんで心配そうに私の顔を覗いてくれる。その様子が、なんだか小さな子どものようで、思わず笑ってしまった。――――嬉しいと、感じた。 「大丈夫です。ありがとうございます」 「しかし――――」 「本当に、大丈夫です。――――まだ、来たばかりで慣れていなくて、それで…………」 話しているうちに、また涙がこみあげてきた。泣いちゃいけないと思うのに、我慢が出来ない。しゃくりあげはじめた私に、おろおろしながら悲しそうな顔をしてくれている彼が、すっ くと立ち上がった。 「甘いものは、好きか」 いきなりの質問に驚きながらも頷くと、ふわりと花が舞うような笑顔を向けられた。 「そうか、好きか」 笑顔に、引き込まれる。 「甘いものは、元気が出る。美味い茶屋を知っているから、共に参ろう」 左手が、差し出された。右手には、鍛練をするために手にしてきたであろう槍がある。 「あの、でも――――」 「心配するな。払いは俺が持つ」 ほら、と手のひらで促される。 日だまりのような笑顔。 私は、この手を取ってもいいんだろうか――――。 「じっとしていても、はじまらぬ」 その声に、重量のある足音が重なる。顔をあげると、信玄様がいらっしゃった。 「お館様」 弾む声。あわてて立ち上がり、頭を下げる。こんなに近くに信玄様のお姿があるなんて、緊張してしまう。頭を下げながら盗み見ると、信玄様は私を不思議そうに見られてから、口を開いた。 「幸村よ。今日は鍛練をいたさぬのか」 「は! 某、この者を茶屋に連れて参ろうと存じますれば、まことに申し訳ござりませぬが、本日の鍛練、夕刻より願いたてまつりたく存じます」 「ふうむ」 信玄様が、腕を組んで私を見た。――――やっぱり、この方が幸村様なんだ。 「聞けば、この者、こちらに来てから間が無いとのこと。慣れぬ中には息抜きも必要でございましょう。ここで行き合ったのも、何かの縁かと存じますれば、某、息抜きの手伝いなど致しとうございます」 「うむ、よう言うた。幸村よ。ぬしにも良い休息になろう。行って参れ」 「ありがとうございます、お館様」 にこりと信玄様が私に頷いて下さった。包み込まれたような気がして、素直に行動をしてもいいんだという安心感が生まれる。 「では、行って参ります」 「うむ」 「行こう」 幸村様がまた、手を差し伸べて下さる。ほんの少し躊躇してから、手を伸ばした。 触れた瞬間、胸の内が膨らんで、膨らみすぎて痛くなる。日だまりのような笑顔に、泣きたくなった。 私、一体、どうしてしまったんだろう――――。 震える胸を押さえながら信玄様に見送られ、幸村様にいざなわれて、私は門をくぐった。 「お館様や佐助に、土産も買わねばな」 私の変化に気付かない様子で、幸村様は真っ直ぐ前を向いて歩き始める。 手も、繋いだまま。 無邪気そうな幸村様は、きっと何にも意識なんて、していない。 そのまま、無意識でいて――――この手を、離さないでいて―――― 風がそよぐ。 幸村様の、しっぽのような髪と鉢巻が揺れる。 柔らかな日差し。 優しい時間。 緑の香りがして、田畑を耕す人がいて、子どもたちの遊ぶ声が聞こえる。 この道が、永遠に続けばいい。ずっと、幸村様と共に行けたら――――。 「あ、ゆきむらさまぁ」 子どもたちが、わらわらと集まってくる。手が離れて、子どもの頭に触れる。 残念な気持ちの中で、ほっとした。 突然の、自分の気持ちについていけない。 私は、一体どうしてしまったんだろう。 「ゆきむらしゃま、あとぼう」 舌足らずな子どもの声に、背伸びをした幼い声が言う。 「ばぁか。ゆきむらさまは、ごようじがあるんだよ」 子どもたちの視線が、私に向けられた。 「またこんど、あそぼうな」 ニィッと笑う子どもに頷く幸村様は、おませさんが向ける視線の意味に気付いていない。私だけ、妙に意識をしているみたいで恥ずかしい。 再び歩きだされた幸村様。今度は手を差し伸べては下さらなくて、それが当たり前であるはずなのに、残念な気持ちが浮かんだのは、きっと、もっと傍にいたいから。 ――――私、幸村様のこと…………? はっと気付いた瞬間、気恥ずかしさが襲ってきた。甘酸っぱい憧れに支配される。 どうしよう、どうすればいい――――幸村様は何も意識していらっしゃらない。知られれば、こんなふうに笑いかけてくださらないかもしれない。だったら、気付かれないように、なんでもないように振る舞おう。この幸せな時間が、少しでも長く保たれるように。 幸村様は、それから時々、私のことを気に掛けてくださるようになった。それはもう、あからさまに気に掛けているというような態で。 幸村様の不器用で真っすぐな所は、みんな重々承知のようで、いい仲だなんて噂は欠片も流れなかった。それに、ほっとしつつも残念な思いを抱えて、幸村様のかけてくださる言葉に答える。 ある時、恋人との惚気話を友達がしているときに、いいなぁって言葉が自然と口をついて出てしまった。その瞬間、ニヤリとした友達に「幸村様が好きなんでしょう? 傍から見ていたら、丸分かり」って言われた。あわてる私に、幸村様は鈍感だから気付いていないし安心してと言いながら、意味深な目を向けてくる。 「告白、しないの?」 「できるわけないよ、そんなの」 「どうして」 すぐに答えられずに、俯く。告白なんて、考えてもみなかった。ちら、と友達を見ると、首をかしげられる。 「よく、わからない」 「何が」 「幸村様のこと、好きだけど――――告白とか、なんか、ぴんとこないんだ。憧れみたいなカンジ、なんだと思う」 不思議そうな顔をした友達が、少し考えてから言う。 「今から、私が言うことを想像してみて」 頷くと、友達が頷き返して、私の目を覗き込みながら言う。 「幸村様が、ほほ笑みながら、あんたとは違う女の手を取るの」 目を閉じて、想像してみる。あの日、手を差し伸べて下さった幸村様の姿が浮かぶ。それが、私じゃない誰かに向けられている。 「そして、幸村様はその女を抱き寄せて、優しく口を吸うのよ」 「幸村様が…………」 「そう、幸村様が」 胸が、きゅうと絞られる。そんな所――――見たくない。 「え、ちょ、ちょっと」 友達の焦る声に、目を開ける。そこで、自分が泣いている事に気付いた。 「そんなに、好きなんだ」 友達の言葉が、自分の言葉になって頭に響く。――――そんなに、好きなんだ。 自覚以上に、幸村様を想っている自分に気付き、胸がさらに苦しくなって、私は子どものようにしゃくりあげた。 「ええっ! ちょっと待ってよォ」 友達の困った声が聞こえているのに、私は両手で顔を覆ったまま返事が出来ない。 ごめんね…………自分でも、よくわからないんだ。ただ、苦しくて痛くて、愛おしくて――――。 覚えたての愛しさが溢れて止まらないままに、私は友達を困らせるとわかっていながら、泣き続けた。 たくさん泣いて、自分の気持ちが凝ってしまえば、あとはもう、自覚を持って幸村様に悟られないように気をつけるだけ。 本当にいいのと、付き合ってくれた友達に言われたけれど、きっと幸村様を困らせるだけだから、伝えなくてもかまわない。それに――――。 「おお、おはよう」 こうして気さくに声をかけてくださる時間が無くなってしまうことのほうが、怖いから。 あれから友達は、何も言わずにいてくれる。時々、心配そうな顔をされるけれど。 友達は今日も変わらず、恋人との些細な――――本人たちには重要らしい喧嘩の話をしている。 本音でぶつかりあって、お互いをより好きになれる喧嘩なんて―――― 「いいなぁ」 「何がよ」 「ん、なんとなく」 「うらやましい?」 頷くと、困った顔をした友達が言う。 「他にも、いい人だっているんだし。諦めろとは言わないけどさ…………うぅん、なんて言えばいいんだろ」 「ありがとう。ごめんね」 なんとなく、友達の言いたいことは分かる。先にもあとにも進まない恋心は、きっと幸村様が誰かと一緒になったとしても、終わらない。 幸村様は、きっと気付かない。 いつまで続くかわからない、甘くて痛くて幸せな時間を失いたくなくて、私は現状維持を望んだ。 それなのに、うらやましがるなんて――――。 「ごめんね。やっぱり、ちょっとうらやましい」 「何を、羨むのでござろう」 突然の幸村様の声に、硬直する。友達が、私の背後にいる幸村様と私を交互に見て、悪戯な顔をした。 「聞いてくださいよ、幸村様」 「何をだ」 「私、恋人と喧嘩をして、その話をしていたら、うらやましいって言うんです、この子」 「喧嘩するほど仲が良いと、そういう事でござるな」 「でもそれって、好きな人がいるから、うらやましいって言えるんだと思いませんか」 「――――なんと。そなたは…………好いておる者が、いるというのか」 振り向けない。 今、振り向いたら絶対、わかってしまう。いくら鈍い幸村様だって、わかってしまう。 私、今、そんな顔、してる。 「――――そうか」 静かな声と、遠ざかる足音。 不思議そうな友達の顔が見える。 振り向きたいのに、振り向けない。 「えっと、私――――余計なこと、しちゃったかな」 何かが、崩れる音がした。 あれから幸村様は、私の姿を見ても遠くから挨拶をしてくださるだけで、気軽に傍に来てはくださらなくなってしまった。 友達は、意識をしているから距離をとっているだけで、実は脈があるのかもしれないよって言いながら、本当に申し訳なさそうに私を見る。 いつかは、こうなってしまうのだから、気にしないで。 そう言っているのに、とても気にしてくれている。 そんな彼女の気持ちがうれしくて、心配をかけないようにしなくちゃと思うのに、目が勝手に幸村様を追ってしまう。 もっと傍にいたい。 もっと笑顔を見たい。 声を聞きたい。 そう思うのに、近付けない。 きっと多分、自分に自信がないから。拒絶されることが怖いから。――――拒絶したりなんて、幸村様がなさるとは思えないけれど、でも…………。 自分で決めたことなのに、自分がどうしたいのかが分からない。姿を見ることが出来るだけでもうれしいのに、もっともっとって、望んでしまう。 もう一度、あの時のように、手を差し伸べて下さったなら…………。 昼下がりの空いた時間に、私は一人ふらふらと中庭を歩く。 あの日、幸村様が手を差し伸べて下さった場所に座って、庭を眺めた。 空は、あの時とは違う季節の顔をしはじめている。 あの時のような寂しさは、もう感じない。ここでの生活にも慣れて、信玄様も気に掛けて下さったりするのは、幸村様のおかげ。 そう思うと、とても幸せな気持ちが広がった。 「そのような所で、どうしたのだ」 はっとして、顔を向ける。あの時と同じように、幸村様 が立っている。今日は、槍を手にされていらっしゃらないから、鍛練のためにいらしたのでは無いのかもしれない。もしかしたら、この広間でお館様と何かお話をされるために、いらしたのかも。そう思いつき、私は立ち上がった。 「すみません」 「何を謝るのだ。別に、とがめてなどおらぬぞ」 首をかしげる幸村様。 幸村様が傍にいて、私を見てくださっている。 声をかけてくださっている――――。 「なっ…………。い、如何いたした」 ぎょっとした幸村様の声。 膨らんだ気持ちが溢れて、目から零れる。止めなきゃ困らせてしまうとわかっているのに、どうにも出来なくて、それが情けなくてまた、涙が出てくる。 「ごめんなさい」 「何も、とがめてなどおらぬ」 困った声。 本当に、ごめんなさい。幸村様―――― 「好きなんです」 「えっ――――」 「幸村様が、好き…………」 押さえきれなくて、伝えないと決めていた言葉が口をついて出てしまう。 一度出てしまった気持ちは、止められなくて――――。 「ごめんなさい」 「何を謝る」 「好きなんです――――幸村様が、好き………」 同じ言葉を繰り返す。余計に困らせてしまうだけなのに。 だから、謝る。 好きになって、困らせてしまって、ごめんなさい、幸村様。 「――――甘いものは、好きでござったな」 顔を上げる。 「好いておる者がいると言っておったので、そなたの好いておる者に誤解などされぬようにと思ったのだが…………。その、なんだ――――」 幸村様が、そんなことを思って下さっていたなんて、夢にも思わなかった。 乱暴に頭を掻いて、よし、と気合いを入れた幸村様が、あの日と同じ笑みを浮かべる。 「俺は、団子が好きだが、一人で食すのは味気ないのだ。しかし、その…………共に茶屋に行く者がおらぬ故、そなたが良いのであれば、参ろう」 手が、差し伸べられる。おそるおそる触れると、強く捕まれ引き寄せられた。 「これから、ずっと、共に居てはもらえまいか」 幸村様の腕のなか、望んだ言葉が降り注ぐ。 言葉にならずに泣き出した私に、幸村様はそっと唇を寄せて下さった。 前を見て、まっすぐに進む背中が好き。 振り向いて、手を差し伸べて、共に参ろうと言ってくれた日だまりのような笑顔の隣で、私はこれから、生きていく――――――。オニギリサムライのアンゾ〜様よりいただいたイラストより、話を書かせていただきました。 漢前な幸村を、ありがとうございます! 2010/05/13