この潮の香りは、偽りだろうか。 待ち焦がれすぎて、幻の香りを感じているのだろうか。 予感のようなものに囚われ、足音が聞こえないかと雨音に耳を打たせていれば、すらりと戸が開いた。ほんの一瞬、雨音が近くなる。けれどすぐに戸は閉ざされ、雨音はまた元の距離に戻った。 近くも無く、遠くも無く。ただ全てを取り囲み、世界とこの空間を隔絶する距離に。「辛気臭ぇ面してんなよな」 むせるような潮の香りを纏った白い鬼が、私に笑いかけてくる。勝手に足を洗って家に上がる。ずかずかと、私の心に上がりこむ。「久しぶりすぎて、俺のこと、忘れちまったか?」 歯を見せて、少年のように屈託無く笑う鬼に、私はゆるくかぶりをふった。忘れない。忘れられるわけが無い。――思い出そうと思わなくても、潮の香りが鼻腔に触れると、貴方の面影が浮かび上がる。「この雨が止むまでは、一緒にいられる」 声を沈めて、ささやくように静かに告げる貴方の言葉が、その通りにならない事を、私は知っている。だって貴方は、大切なものを守るためなら、嵐の海でも出航してしまうから。 西海の鬼と呼ばれる長曾我部元親は、女ひとりに縛られるような人じゃないから。「――すまねぇな」 雨が地を打ち大地にしみこむように、滲むような元親の声が私の胸を打ち、魂にしみこんでく。私はまた、首を振った。「紗江」 耳に元親の声が触れると共に、大きな手のひらが私の頬に触れた。ゆっくりと引き寄せられるままに、私は貴方の胸に身を落とす。 たくましく盛り上がった胸に、私の耳が吸いついて、筋肉の奥にある元親の命の音を拾った。 とくん、とくん――。 耳から元親の体温が私に流れてくる。呼気と同じ速度で上下する胸の動きに、私は目を閉じた。意識の全てを、この人が生きているという証を感じることに、使いたいから。 とくん、とくん――。 ああ、生きている。 とくん、とくん――。 元親は、生きている。 今、こうして脈打つ元親の命を、私は感じている。 私の髪に、元親の頬が触れる。丸太のように太い腕で、元親が私をくるむ。 とくん、とくん――。 あたたかい。 元親も、私の命を感じてくれているのだろうか。生きている事を、私を通して実感しているのだろうか。 とくん、とくん――。「紗江」 元親の呼気の中に、私の名前が紛れ込む。「紗江」 何かを確かめるように、元親が腕に力を込めて私を呼ぶ。そっと背中に腕を回して元親を抱きしめた。私の腕では、元親にしがみついているようにしかならないけれど。「あったけぇな」 しみじみと、元親がこぼす。そっと目をあげて見たけれど、見えたのは紫色の眼帯で。「あったけぇ」 元親の表情が見えなくて、私は再び目を閉じた。 とくん、とくん――。 元親の命の証。元親の熱を生み出している音。元親が生きていると示すもの。 とくん、とくん――。 押し付けている耳が、元親の鼓動と私の鼓動、両方を拾った。元親の命の音と、私の命の音が混ざり合う。「紗江」 促すように呼ばれて顎をあげれば、やわらかなもので唇を押された。私の目に映るのは、紫と白銀。表情を映す右目が、私の目に触れぬように元親は接吻をする。 ああ、そうなのね。 また誰か、大切な誰かの命が奪われたのね。「元親」 名を呼べば、元親が私の胸に顔を埋めた。人よりもずいぶんと体躯の大きな元親が、私の腰に子どものように縋って、胸に顔を埋めている。「元親」「あったけぇ」 どこかで。ここに来る前にいたところで、体温を、魂を体から流して冷える誰かを、貴方は抱きしめたのね。どうしようもなく失せていく命を、感じてきたのね。「紗江」 元親の髪に指を絡めて、そっと唇を押し付ける。潮の香と男の香を織り混ぜた、貴方の香が私に触れる。その香りがもっと欲しくて。体中をその香りで満たしたくて。 私は貴方の頭を抱きしめて、髪に顔を埋めた。 元親の腕に力が篭る。少し息苦しいけれど、私は身じろぐ事もせず、元親に縋られながら抱きしめられた。 私の胸に顔を埋めた元親は、私の命の音を確かめているのだろうか。自分の鼓動と私の鼓動を重ねて、聞いているのだろうか。 生きているという事を、私を通して感じてくれているのだろうか。 誰かの死を、互いの命の音を通して悼んでいるのだろうか。 雨音が耳に触れる。元親の鼓動を思い出して、私は深く息をした。 胸の奥深くに、元親の香りを取り込む。 ああ――。 音にならず、息だけが漏れて元親の髪を揺らす。 おおきくて逞しくて、鬼と称されるほどに強い元親。深く広い海のような魂を持っている貴方。 私は元親の抜けるように白い肌に、目を細めた。広くて大きくて、たくましい背中が眩しくて、息が苦しくなる。「紗江」 元親がささやく。私の名を、呼んでいる。 途切れる事も乱れる事もない雨音が、私と元親を世界から切り離している。 貴方はこの肩に、この広い背中に、どれほどのものを負っているの。 元親の背をなでながら、心で訪ねてみる。声に出しても、きっと答えてはくれないだろうから。 静かに上下する広い背中をなでて、貴方の髪に顔を埋める。「元親」 余計な言葉を発してはいけない。そうすれば、きっと貴方を傷つける。 どこにも行かないで。 ひとりにしないで。 そんなことを言えば、貴方はとても困ってしまう。長曾我部元親という名の武将は、私ひとりの魂を背負っているわけでは無いのだから。 どれだけ海上で日を浴びていても、染まることのない白い肌。元親の魂を象徴しているようで眩しくて、憎らしい。「紗江」 顔を上げた元親が、首を伸ばして唇を求めてくる。私はただ黙って、それを受け止める。「紗江」 今度は元親の右目が見えた。包みこむようにやさしい光を宿している瞳が、私の胸をくすぐる。 愛されている。想われている。 そんな実感を与えてくれる瞳に、私の魂が包まれる。 照れくさくてうれしくて、気付いたら私の唇は笑みの形に変わっていた。 元親の唇が私の笑みを包みこむ。 ねぇ、元親。 私は、貴方の帰る場所になれているの。 貴方の帰るべき場所になれているの。 貴方の帰りたい場所になれているの。 ねぇ、元親。 真っ直ぐな貴方の瞳に、泣きそうな私が映っている。 ああ、違う。 こんな顔で貴方を迎えたいわけじゃないのに。 笑顔で「おかえりなさい」と受け止めたいのに。 笑顔で「いってらっしゃい」と送り出したいのに。 それなのに、元親の瞳に映る私は、泣きだしそうに笑っている。「紗江」 どこにも行かないで。 ひとりにしないで。 そんな私の言葉にしない声を、貴方はとっくに知っていたのね。だから、そんな目をして私を包んでくれるのね。 どこかで命を失うかも知れないことを覚悟して、それでも私の所に帰ってきてくれる貴方の「すまねぇ」は、私を縛っていることに対する謝罪なのね。 人の気持ちに聡い分、傷つかなくてもいいことに傷ついて。心の機微に聡い分、気にしなくてもいいことに気を使って。 ねぇ、元親。 今は、雨音が私たちを世界から隔絶してくれているわ。 西海の鬼、長曾我部元親ではなくていいの。 今は、多くの民の命や人生を背負って生きる武将じゃなくていいの。 途切れる事の無い、旋律を変えない雨音が隠してくれるから。「元親」 雨が止んだ後のことなんて、気にしないで。 ここの扉をくぐったときから、貴方は何者でもない貴方でいいの。 ねぇ。 ここには、戦は無いわ。 そうよ。 今は、戦も何も無いの。 存在しているのは、命ある貴方と私。 ただ、それだけ。 求め合っている、貴方と私。 ただ、それだけ。 元親の瞳の中にいた私が、心底の笑みを浮かべている。「紗江」 安堵を含んだ元親の声に、私は気付いた。 貴方に「すまねぇ」と言わせていたのは、私の弱さだったんだと。 貴方の帰る場所として、胸を張って迎え入れることが出来なかった私の弱さが、貴方に「すまねぇ」と言わせていたのね。「大丈夫」 元親の頬に手を伸ばして、私は顔を寄せた。 元親の香を胸一杯に吸い込んで、とびきりの笑顔を浮かべる。「紗江」 ほんの少しの劣情を滲ませた貴方の声に、私は愛おしさの全てを込めた吐息を返した。「謝らないで」 そう。貴方は謝る必要なんて無いの。「次に貴方が来るまで、貴方と共にいられるように、貴方の香りを私に移して」 体の隅々まで、貴方の香りで満たし尽くして。 ほんの少し驚いたように、貴方は目をぱちくりさせた。じっと私の顔を見て、いたずらを思いついた子どもみたいな顔で、歯をむき出した貴方が愛おしくてたまらない。「紗江」 ほんの少し獰猛に、牙を剥いた白い鬼が私を覆い尽くす。「愛し尽くしてやるから、覚悟しやがれ」 望むところよと喉元までせり上がった声は、元親の口内に吸い込まれた。2014/05/31