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薊ーあざみー 何故、彼女は時々遠くを哀しげな目で見ているのだろう。
 一人、誰もいない庭先で。
 何故、俺は彼女を見つけてしまうのだろう。
 一人、彼女しかいない庭先で。

  ふ、と彼女が振り向き、慌てて身を隠す。ゆっくりと去ってしまったあとに、彼女の立っていた場所に降りてみた。
 同じ方向を、見つめる。
  少し上向いた顎を真似てみる。
  膝を折り曲げ、彼女の目の高さと同じくらいにして見える景色は、塀と、空。
  薄い刷毛で刷いたような雲があるだけの、あさぎ色が見える。
  その向こうに、彼女は何時も、何を見ているのだろう。
 どうして、こんなに気になるのだろう。
 どうして、声をかけられないのだろう。
 どうして、見つけてしまうのだろう。
――――薊。
 彼女の名を、想ってしまうのだろう。


 ぱたぱたと、軽く騒がしい足音が聞こえる。その音を発している人物を思い、真田幸村は唇に薄く笑みを浮かべた。
「あ、おはようございます」
 少し鼻に掛かった高い声。日が射したようであるのに、柔和な気色のある笑みを受け、足を止める。
「薊殿――おはようございまする」
 一礼をした彼女は、忙しなく横を通り過ぎていく。その背中を見送り、幸村は敬愛する信玄へ挨拶に向かった。
 彼女が、この館に勤め始めたのは数ヶ月前。誰がしかの紹介で奉公するようにな ったと聞いた。元は裕福な商家の娘で、実家に兄嫁が来るので気遣われたくない と、外に出ることを希望し、どういう経緯かはわからないが、ここに来るように なったらしい。
 働き者だという紹介どおり、薊は懸命に働いた。一つでも多く、早く仕事を覚え たいという姿勢と、飲み込みの速さ、時々の失敗で落ち込んだりはするものの、 笑みを絶やさない姿に、館のもの達は彼女に直ぐ馴染んだ。
――――薊は、ここに馴染んではいないのだろうか。
 だから、一人庭先で遠くを見つめているのだろうか。
 心中で彼女を呼ぶとき、幸村は呼び捨てている。けれど、幸村は薊が自分を「 幸村様」と呼ぶ限りは「薊殿」と呼び続けるだろうと思っていた。それが、彼女 と自分との距離なのだと感じるために。
「お館様」
「よぉ、赤い兄さん」
 信玄に挨拶をしようと道場を覗くと、派手な出で立ちの男が信玄と座していた。
 二人の間には茶と、茶請けがあったと思しき皿がある。
「貴殿は、前田殿……」
 驚く幸村に、上杉に身を寄せていること、信玄の好敵手である上杉謙信より文を 言付かってきたことを説明した前田慶次は、しばらく厄介にならせてもらうよと 笑った。
「たまには、かすがちゃんと謙信、水入らずにしてあげたいしねっ」
 その言葉に、そう言えばと思い出す。恋は良いものだと言う彼に、破廉恥である と口にしたことがあった。この男は、恋愛に精通しているのだろうか――――。
  湧いた言葉を飲み下し、幸村は笑みを浮かべて歓迎の意を示した。
――――どうかしている。薊の事を、相談してみようかなど。
 口に出せるものではない。言葉に出来るものでもない。自分自身でも表現しづら いものを、どう人に説明をすればいいと、どう相談をすればいいというのか。
「幸村様」
 何用かあったらしく、場に顔を覗かせた薊が幸村の居る事に目を丸くする。そんな薊を身中に収めたいという淡い衝動は 、どのように現せば彼女に伝わり、受けとめられるのだろうか。
「すみません、すぐに幸村様のお茶もお持ちいたします」
「あぁ、かまわぬ。何か、用があって参ったのだろう」
「はい、お客人様がいらっしゃれば、いつまで逗留なされるのか伺うようにと、 仰せつかりました」
 そのようなことは館の主である信玄が達し、皆が用意をするものなのだが、風に 吹かれる雲のようだと称される風来坊が、信玄の意と同じく振る舞うとは思えな かったらしい侍女頭が、直接問うてくるようにと薊に言ったらしい。それを聞い た信玄は、気分を害するどころか大声で笑い出し、まことにしっかり者じゃと侍 女頭を誉めて、返答を促すように慶次を見た。
「そうだなぁ……」
 言いながら立ち上がった彼が、薊に近づく。
「ね、名前は」
「――――薊、です」
「薊ちゃんかぁ。俺は、前田慶次。こいつは、夢吉ってんだ。よろしくな、薊ち ゃん」
「キキィ」
「あ、はい。よろしくお願いします」
 ぺこりと慶次には頭を下げ、夢吉には手を伸ばして頭を撫でる薊の頭の位置は、 慶次の胸元に触れそうなほどに近い。前田慶次という男の空気がそうさせるのか 、小猿の夢吉がいるからなのか、警戒する様子もなく、薊は慶次の手中に収めら れてもおかしくないほど、側に立っていた。
 チリ、と腹の底に火傷のような痛みが生まれる。
――――俺は、あのように近くに立ったことは、一度たりと、無い。
 楽しそうな二人に、苦痛を持って目を細める。
「それじゃあ、これからお世話になりますって、侍女頭さんに挨拶に行ってこよ うかな。薊ちゃん、案内よろしく」
 信玄、幸村に挨拶をして、慶次と薊が並んで退室をする。後ろを向く前に慶次が 物言いたげな顔をしたように思えたのは――わずかに自慢気に笑んだように感じ たのは、気のせいだろうか。
――――薊ちゃんと、呼んでいた。
 彼女は、それを素直に受けとめた。自分が呼ぶよりも、ずっと距離の近い呼び方 。
――――薊。
 心中のように名を呼ぶことができる日が、来るのだろうか。
「幸村よ。悩んでおるな」
 はっとして振り向くと、信玄が柔和な瞳をしていた。
「はっ、いえ……悩みなど、ございませぬ」
「隠さずとも良い。幸村よ、悩みがあるのなら、大いに悩み、自分と向き合うこ とも肝要と覚えておくがよい」
「自分と、向き合う…………」
「うむ。悩みとは、自分と向き合う好機。何故かと、周りを見る好機でもある。 誤魔化さず、しかと受け止め、答えを見つけよ」
「お館様……」
「わしも、若い頃は大いに悩んだ。恥じることはない」
「――――お館様」
 力強く頷いて見せた信玄に一礼をして、その場を辞する。――自分のこれは、悩 みというのだろうか。薊と、幸村と呼び合うほどの距離に在りたいと願うのは。 そうなるためには、という事が悩みとなるならば、自分はそれを考えつつ、周り を見なくてはならない。
――――このような破廉恥な望みを悩むのか、俺は。
 信玄は恥じることはないと言ったが、それは内容を知らないからだという考えと 、なにがしか感付かれているのではという思いが交錯する。
――――薊。
 何故、これほどに気に掛かり、焦がれてしまうのか。彼女に笑みかけられるたび 、幸村様と柔らかく呼ばれるたびに、体内に生まれる甘く淡い鈍痛は癒えるのだ ろうか。
――――薊。
 心中の口癖になってしまった名を、繰り返す。
 しっかりと立ち、自立しているように見えた彼女の、庭先に一人佇む姿がたおや かで、夕凪に吹かれてさらさらと崩れてしまうのではないかと、手を伸ばしても 夕陽となって霧散してしまうのではないかと、身中に収めたいと、欲しいと、生 々しく息づいた想いを、悩みとして良いのだろうか。
――――薊。
 上の空で、自室へ足をすすめる。ゆっくりと、ゆったりと、床を踏みしめる。
――――薊。
 いつしか、踏み出すたびに名を呼んでいた。
 薊、薊、薊、薊、薊…………。
 そのたびに、記憶にある彼女の表情が、仕草が浮かぶ。
 薊、薊、薊、薊、薊――――。
 初めて目にした姿。
 幾度も目にした笑み。
 柔らかく響く自分の名。
 懸命に働く横顔。
 真っ直ぐに向けられる瞳。
 彼女から、俺はどんな風に見えているのだろう。
 数多の者の一人だろうか。
 唯一人としてだろうか。
 薊、薊、薊、薊、薊…………。
 自室に入っても、思考は同じところを繰り返す。
 彼女の姿を浮かべ、想いを思い、幾度も腕を伸ばしたいと、薊が欲しいと願う。
 では、どうすればいいのか。
 それが、わからない。
 具体的に、どうなりたいのか、どうすればいいのか。
「いかん」
 頭を振り、内々に落ちていく意識を引き戻す。
 このままでは、泥沼に自ら足を踏み進めているようなものだ。
 すっくと立ち上がり、取り敢えずは外へ行こうと、当もなく里を歩こうと、無心 になろうと思い立つ。
 信玄は悩めと言ったが、これは違う気がする。正しい悩み方があるのかどうかは わからないが、幸村は一旦気分を変えることにした。
 槍を振るっても良かったのだが、こんな状態では濁り、鈍った扱いしか出来ない だろう。――――よき相手がいない限りは。
 はっとする。
 慶次は、腕がたつと聞いている。一人で振るうよりも、普段仕合わない相手とす るほうが集中し、形容し難い心中を晴れさせることが出来るかもしれない。
 そうと決れば、と彼が今、何処にいるのかと近くにいたものに訊ねると、里に散 歩に出ているという。
――丁度良い。
 どの辺りに居るのかはわからないが、歩いていれば手合わせを願う前に意識を変 えることも出来るだろう。
 草鞋を履き、澄んだ空と鎮座する山を見ながら里への道を歩く。
 一歩進むごとに、憂いが晴れていくような心持ちになり首をかしげた。――――  憂うものなど、何も無いはずなのに。

 里のもの達と挨拶を交わしながら、雲一つない空の下を幸村は歩く。澄んだ空気 に、体が軽くなってゆくような気がする。段々と気分がよくなり、ついでだから 茶屋まで足を伸ばして団子を買おうと思い立つ。するとそれが名案のような気が して、彼の足取りは少し軽いものに変わった。
――――少し多めに団子を買おう。前田殿も食されるだろうし…………。
 幸村の脳裏に、はにかむように礼を言う薊の姿が浮かぶ。別に、おかしなことで も特別なことでも無いだろう。もののついで、とすれば恐縮せずに受け取るはず だ。
 幸村の足取りが、さらに軽くなって地に触れる。
 茶屋が見えてくる。
 いかほど買おうか。
 そう思いながら店表を見た足が、止まった。
 背骨から全身に、雪が積もったような、樹氷となってしまったかのような冷たさ が広がる。
 店の軒先に、楽しそうな男女の姿がある。親しげで昔からの知己のように会話を している二人は、幸村の認識が間違いでなければ、今日が初対面だったはずだ。
――――何故、前田殿と薊が。
 茶屋に居るのだろう。
 親しげに、笑みあっているのだろう。
 呆然と眺める幸村の視線に気付いたらしい慶次が、片手を挙げて挨拶をしてくる。薊がそれに気付き、頭を下げてきた。――――幸村とのほうが、ずっと遠く面識の薄い存在であるかのように。
 団子の包みを受け取った薊から、慶次が手を伸ばしてそれを持つ。あまりにも自然で、横にいることが当たり前のような二人の姿に、焼け付くような痛みが走る。怒りに似た熱が湧き上がる。
「アンタも団子を買いに来たのかい? お世話になるんだから、手土産の一つでもって思ってさ」
 手に持っている団子を見せてくる慶次の横の、薊に目を向ける。
「幸村様の分も、あるんですよ」
「――――何故、薊殿と」
「ん? あぁ。薊ちゃんが、美味しい団子を出す茶屋を知っているって言うからさ」
「慶次さんが、何か差し入れをと仰ったので」
 語尾に薊を見た慶次に目を向けて、微笑む彼女の姿に、言葉に、幸村は我知らず拳を握り締めた。それに気付いた慶次が、ニヤリと笑う。
「好物なんだろ、アンタの」
「――――そうで、ござるが」
「団子はどうかって言ったのは、薊ちゃんだよ」
 慶次の言っている言葉の意味が、わからない。怪訝な顔をする幸村の目が、はにかむ薊を映す。
「じゃ、俺は先に戻ってるから」
 ぽんと軽く肩を叩き、青春だねぇと言いながら幸村の横を通り過ぎざま「ちゃんと言ってやんなよ色男」と呟かれ、振り向く。鼻歌を歌いながら去る背中をしばらく眺めてから、薊に向き直った。
「慶次殿のことは、慶次さんと、呼ぶのだな」
えっ、とわずかに目を大きく開いた薊に、息を吐きながら言葉を続ける。
「俺のことは、幸村様と呼ぶ」
「――――幸村様」
 疑問符を浮かべた彼女の、自分を呼ぶ声に目を細めた。
「――――薊」
「はい」
 不思議そうな顔で、小首をかしげながら返事をしてくる瞳を覗く。彼女と自分の立ち居地は、先ほど慶次と共にいたときよりも離れている。握っていた拳を解き、もう一度握りなおして一歩、近づいた。――――腕の中に彼女を納められるほどの距離に、立つ。
「薊」
「はい」
 少し緊張気味に、彼女が応える。
「薊」
「はい、幸村様」
 ゆるくかぶりを降り、言う。
「幸村――と、呼んでくれ」
「――――――ゆき、むら」
 おそるおそる呼ぶ彼女に笑いかける幸村は、泣き出しそうにも見えた。
「薊」
「――幸村」
「薊」
「幸村」
「薊」
「幸村――――ッ」
 だんだんと、彼女が自然に呼ぶようになる。呼び合う感覚が短くなり、言葉を出すより早く、幸村の腕は彼女を抱きしめた。
「薊――――」
 体を強張らせていた彼女から、緊張を残したまま力が抜ける。抱きしめなおし、耳元で囁く。
「薊」
「――幸村」
そっと呟かれた自分の名前が、酷く高直な玉のように思えた。
「呼び捨てて、かまわぬか」
「――はい」
「そなたも、俺を呼び捨ててくれ」
 戸惑いが、腕から伝わる。
「他の者と共にある折に呼びにくければ、今までどおりで良い――――だが、二人の時には、呼び捨ててはくれぬか」
 腕をゆるめ、薊の顔を覗きこむ。真っ直ぐに互いの瞳が重なってから、噛んで含めるように、言った。
「庭先で一人、寂しそうにしている薊の隣に、立ちたいのだ」
 零れるほど大きく開いた瞳が滲み、透明なものがあふれ出す。うつむく彼女に嫌かと問うと、首を振られた。
「――うれし泣き、です」
 照れくさそうに、顔を上げて笑う彼女にそっと、幸村の顔が重なった。唇越しに、言葉が紡がれる。――――貴方を想い、庭に居たのだと。
 先ほどまで胸にあった痛む熱が、柔らかく甘いものに変わり全身を包んでいく。
「薊」
「幸村」
 互いの名を呼び、くすりと笑いあった唇が、もう一度重なった。


2010/12/17



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