想いを手にした時は、ほんの小さな子どもだったのに―― 真田幸村は、目の前にいる少女を、丸く見開いた目に映した。「まことに、茜殿……か」 少女は、はにかみながら頷いた。 幸村の知る姿と寸分変わらぬ彼女は、とても小さく「信じられぬ」「私も――」 首を振った幸村に、茜も同意を口にした。 あれは、そう――幸村がまだ、弁丸と呼ばれていた時の事。弁丸は退屈をもてあまし、裏山へ入っていった。きらきらと日の光を受けた木の葉が、自分を誘っている。そう思え、導かれるままに上り、小川の傍で倒れている彼女を見つけたのだ。「――?」 初めは、妖物のたぐいかと、思った。見たことの無い衣を見に纏っている。おそるおそる近づき、顔を覗き、頬をつついてみた。「ん――」 小さく身じろぎをされ、飛びのき、じっと様子を見つめ、再び近づいて「おい」 肩を、ゆすってみた。「ん……」 ゆっくりと重たげに瞼を上げた彼女は、焦点の合わぬ目で弁丸を見た。「大丈夫か」 声をかけてみる。しばらく弁丸を見つめ続けた彼女は「――私」 ぼんやりとつぶやいた。「しばし、待て」 背後の小川に向かい、両手で水を掬って彼女の傍に寄る。けれど、手の中の水は指の間から零れ落ちてしまって「あ――」 彼女の前に来るころには、無くなってしまった。戻り、また水を掬い、彼女の傍へ――何度か繰り返し、結果が同じことに頭をめぐらせ、大きな木の葉を千切って、それに水を包むように入れれば、少しだけ、運ぶことが出来た。「飲め」 葉先を彼女の口につけ、水を流す。わずかに唇を湿らせた彼女が「ここは」 力なくつぶやき「お館様の屋敷の裏山だ」「おや、かたさま?」「そうだ――俺は、弁丸という。そなた、名は」「――茜」「茜殿か。しばし、待っておれ。佐助を呼んで来る」「さすけ?」「俺の、優秀な忍だ」「しの、び」「そうだ。じっとしておれよ」 ぼんやりとしたままの茜が、身を起して頷いたのに頷き返し、弁丸は駆けた。「佐助ぇえぇええ!」 大声で呼ばわりながら戻り「どうしたのさ」 現れた忍へ「連れ帰りたい者がおるのだ。手伝え」 顔を輝かせて言う幼君に「子犬とか、見つけちゃったんじゃないでしょうねぇ」 いやそうに言った。「違う。とにかく、来てくれ!」 ぐいぐいと袖を引かれるままに、佐助は裏山に入り「茜殿!」 弁丸が、ぼんやりと座っている少女の傍に駆け寄るのを見て、鋭く目を細めた。「待たせたな。大丈夫か?」 顔を覗き込み、茜と呼ばれた少女を気遣う弁丸の肩を掴み少し後ろに押しやって「アンタ――どこから来た」 冷たい声を放った。「どこ――」 うつろに繰り返した茜は、みるみるうちに瞳を潤ませ「私、どこに居るの?」 泣き出した。 虚を突かれた佐助の横から進み出て「茜殿――大丈夫だ。泣かずとも、大丈夫だ」 弁丸が懸命に彼女を撫でて、慰める。その様子に「連れて帰るしか、なさそうだねぇ」 頬を掻きながら、佐助がぼやいた。 茜が泣き止むと、とにかく屋敷で話を聞くからと伝え、弁丸が彼女の手を握りしめ、安心させるように力強く頷いて見せた。その手を握り返し、不安を顔中に表した茜は屋敷に入り、弁丸の部屋に通され、茶と茶菓子を前にして、ぽつりぽつりと、買い物をしようと出かけていたら、ふと道端に咲いていた花が目に入ったこと。なんとなく近づき、指を伸ばして花弁に触れると、抗いがたいほどの気怠さと眠気に襲われたこと。気が付けば、あの場所に居たということを、語った。「神隠し、かな」「神隠し?」 佐助の言葉に、弁丸と茜が首をかしげる。「信じらんないことだけど、茜の言うことを信用するとすれば、そう言うしかないよね」「茜殿は、嘘はついておらぬ」「はいはい」「――そんな…………神隠しなんて、物語の中だけだと」「俺様も、そう思っていたんだけどねぇ――実際、アンタが目の前に居る。嘘をついているようには見えないから、そうだとしか思えないだろ。アンタの所持品も着物も、見たことが無いしね」「なんと! 佐助でも見たことが無いものがあるのか」 驚く弁丸に「ルソンより向こうのこととかは、わかんないけどさ」 肩をすくめて見せて「言葉が通じているってことは、よっぽど勉強したか、もともとの日ノ本の人間か、なんだけど」 ちらりと茜を見ると「私、日本人です」 胸元を握りしめ、答えられた。「よくわかんないけどさ、坊主とかが言う仏の国とかあるだろ。そんな感じで、同じ日ノ本でも、なんか違う日ノ本があって、そこで神隠しに会った、って――俺様がこんなことを考えるとか、ありえないんだけど、そう思うしか、無いよなぁ」 大きなため息をついて「で、拾っちゃって、どうすんのさ若様」「無論、世話をする!」「言うと思った――犬猫じゃないんだよ? 人間なんだよ」「放っては、おけぬではないか」「ま、そうだけどさ――ああもう、仕方ねぇなぁ」 厳しい顔で茜に向いた佐助が「おいてもらえるだけでも、有りがたいと思って過ごせよ。この、お人よしに拾われなきゃ、野たれ死ぬか乱暴されて殺されるか、どっちかだったんだぜ」 唇を引き結んだ茜が頷くのに「佐助、帰してやる方法を、探せぬのか」「冗談――そんな余裕も余力も無ぇよ。そんなワガママを言うようなら、彼女、放り出すぜ」 言葉の中に本気を見とり「わかった」 しぶしぶながら弁丸が引き下がり「俺が、面倒を見てやる。心配するな」 まっすぐに茜の目を見て言った。「――――ありがとう」 力強さにか、真摯さにか、ふっと気色を緩めた茜が、初めて笑みを浮かべた。 それから、弁丸は片時も茜を傍より離さずにいた。着物の着方すらもわからなかった茜だが、少しずつここでの生活を覚え、否応なくなじまなければいけない状態に、自ら必要と思うことを率先して問い、憶えるように努めていた。「茜殿は、勤勉だな」 そんな茜に、そのような感想を述べる弁丸を膝に抱き上げ「弁丸様が、いてくださるから」 柔らかく彼女が笑うと、心底嬉しそうに「そうか」 と、弁丸は誇らしげな顔をする。そんな二人の様子を、屋敷の者たちは微笑ましく感じていたのだが「――ちょっと、まずいかもね」 佐助は、危ぶんでいた。茜は、もともとは遠い世界の人間のはずだ。神隠しに会って、たまたまたどり着いただけで、ずっとここに居続けられるとは思えない。いつか、唐突に帰ってしまうかもしれない。別の場所に行ってしまうかもしれない。もし、その日が来たなら、弁丸はどうなるか――「言っても、聞かないだろうけど」 忠告くらいは、していたほうがいいかもしれない。そう、考えていた。そうでなくとも、茜に対する弁丸の執着は、不埒なことを考える輩に利用されかねない。彼女をだまし、弁丸を籠絡し、内部から崩壊を促し外から軍を率いて攻める――そんな事を、されかねないと危ぶむほどに、二人は血のつながりのある兄弟のような関係となっていた。「茜殿ッ」 何かあれば、弁丸はすぐに彼女を呼び「はぁい」 明るく応えた茜に、さまざまのことを話し、あちらこちらに手を引いて連れ出し、夜は共に眠った。時折、さびしげに遠くを見る茜の姿に唇を噛み、彼女のいない所で「佐助――なんとか、ならんのか」 そう、相談をしたりもした。そのたびに佐助は「神様のしたことを、どうにかなんて出来やしないし――それに、茜が帰ってしまったら、もう二度と会えなくなるよ」 それでもいいの、と聞けば唇を引き結び、うつむいてしまう。そんな弁丸の頭を撫でて「でも、そういう日が来るかもしれないって、覚悟はしておきなよ」 伝えると、うなだれたまま頷いた。 そんな日々が、季節をいくつかまたいで進み、昔から共に過ごしているような感覚になり始めた頃「茜殿」「ん?」 里へ出かけた帰り道、共に手をつないで歩いている時に、真剣な顔をして弁丸が見上げ、立ち止まった茜が首をかしげると「その……先の夫婦のことだが」「ああ――仲が好さそうでしたね」 結ばれたばかりという二人の姿を思い出し、茜の目がまぶしそうに細められた。「――うらやましいと、申しておったな」「うん」 素直に頷くと、目を落とした弁丸が「茜殿」 ぎゅ、と手に力を込めた。「俺が元服すれば――嫁御に、なってはくれぬか」「――え?」 聞き返した茜の手を、痛いほどに握りしめて「俺も、あのように――あの二人のように、茜殿と過ごしたいと、思うた」 常になく、硬い口調は真剣そのもので「弁丸様が元服するころには、私、おばちゃんになってるよ」「かまわぬ!」 勢いよく顔を上げた弁丸が「俺は、茜殿が良いのだ! 茜殿でなくば――添い遂げようなどとは、思わぬ! ずっと、ずっと俺が、そなたを守る!」 体中から発するように告げた。「……ほんとに?」「嘘は、言わぬ」「そっか」 ふっ、と息を吐いた茜が微笑み「嬉しい」 その言葉に、決心を口にした緊張を解いた弁丸が笑みを浮かべかけた瞬間――――茜の姿は霧消した。 あれから数年がたち、弁丸は幸村と名を改め、一目置かれる武将となった。そんな彼に娘を差し出したいと申し出る者は多く、そのたびに「某はまだ、未熟ゆえ――」 そう、断っていた。あきれるほど勤勉に修練を行い、年よりもずっと色事に対して幼い幸村の言は、皆が納得する者であり、無理に押し進めようとする者はいなかったが、ただ一人、彼の忍、猿飛佐助だけは、彼が断わる本当の理由を、知っていた。「まだ、茜を探すつもり?」 任務で遠出をするたびに、幸村は茜の姿を探すよう、仕事の負担にならない程度で良いからと、佐助に言い続けている。そうして彼の帰りを待ち、気が遠くなるほどに首を振られてもまだ、あきらめずにいた。「約束を、したのだ」 あきらめろと言うたびに、老成した笑みを浮かべて幸村は言う。「茜殿以外など、考えられぬのだ」「初恋は、成就しないって言うよ」「そのような慣例など、我が心の槍で打ち砕いて見せる!」 ふっ、と呆れたように気を吐いた佐助が、薬草を摘みに裏山に入り、呆然と立ち尽くしている茜の姿を見つけた時は、彼にしては珍しく警戒をすることなく「茜ッ!」 呼びかけ、傍に寄った。 びくりと体をこわばらせた彼女に「ああ――茜だ」 安堵の笑みを浮かべた。「え、と――」 不思議そうな顔をした茜は「佐助君の、お兄さん?」 首をかしげ「本人だよ」 どうしてここに居るのかと問われ、疑う顔をしながらも、弁丸と里に行った帰りであったはずなのに、気が付けばここに立っていたのだと、告げた。「そっか――だから、あの時の姿のままなんだ」 納得した佐助が、あれから何年もたっていて、弁丸が幸村と名を改め、立派な武将となっていることを話し「行こう」 手を差し出した。 そうして連れ帰った茜の姿に、屋敷の者たちは目を丸くし、神隠しは本当に有るのだと感心した。そうして「早く幸村様の所へ」 茜を促し、幸村に彼女の帰還を告げるために駆け、祝いの宴を開こうと、明るい声をかけあった。 知らせを受けた幸村が廊下を駆けて「佐助ッ!」「旦那」 得意げに、茜の姿を前に出せば、目を丸くした幸村が、言葉を出せずにただ見つめた。「あの後、すぐにここに飛ばされたらしいぜ」 佐助が幸村の肩をたたき、幸村に報告をしに来た者を促して、退散する。――と、見せかけ、姿を隠して様子を見つめた。「まことに、茜殿……か」 少女は、はにかみながら頷いた。 幸村の知る姿と寸分変わらぬ彼女は、とても小さく「信じられぬ」「私も――」 首を振った幸村に、茜も同意を口にした。「茜殿」 思いが渦巻き言葉にならない幸村は、一歩前に出て手を伸ばし、彼女の手を取った。「――あのころは、茜殿のほうが、大きゅうござった」「うん」 恥ずかしそうに答える姿に、胸が熱くなる。「俺を厭うて消えてしまったのではないかと、時折、思うておった」 茜が、首を振る。「嬉しかった――本当に、嬉しかったんだよ」 にこりとすれば、感極まった幸村が茜を抱きしめた。「――ッ!」「茜殿――俺の気持ちは、あの頃と寸分たがわぬ…………こうして、あの頃のまま変わらぬ姿で、いや――茜殿からすれば、俺が突然大人になったように思えるのだろうが…………」 幸村の腕の力が強まり、茜の髪に頬を寄せて「年の差を気にする茜殿と、俺の年を近めるために、神がこのようにしたとしか、思えぬ」「弁丸様――」「今は、幸村と」「幸村」 言いなおした茜の顔を覗き込み「天も祝福してくれておるのだと、そう、感じておるのだ――茜殿……今一度、言わせてくれ。子どもの戯言と思うて、了承してくれたのやもしれぬが、俺は、あの頃も、今も、茜殿と添いたいと、思うている。――――嫁御に、なってはくれぬか」 静かに、力強く、あの頃よりずっと抱え続けた想いを、伝えた。 しばしの沈黙の後「嬉しい」 にこりと茜が想いを受け止めて、決心を口にした緊張を解いた幸村が笑みを浮かべた瞬間「わぁあああっ!」 集まり、物陰から様子を見守っていた屋敷中の人間が歓声を上げ「祝言じゃ! 祝言の用意じゃあ!」「お館様へご報告せねば」 屋敷が揺れるほどの歓喜をほとばしらせた。 目を丸くし、騒ぐ彼らを見つめた二人は、ゆっくりと顔を見合わせ「ずっと、ずっと俺が、そなたを守る」「うん」 面映ゆく約束を交わし、心を重ねた。 2012/07/10