柔らかく降る雨が裾に絡んでくるのを楽しむように、前田慶次は京の町を闊歩する。鼻歌でも始まりそうな気色に、小料理屋の主が声をかけた。「おっ、慶ちゃん。なんや楽しそうやなぁ。良いことでも、あったかい」「春の気配を感じるってぇのに、沈んだ顔は出来ないだろう」「そらそやな」 からからと笑いあい、せっかく声をかけてもらったんだし上がらせてもらおうか、と裾に寄り添う滴を払い、案内に出た女中に連れられて座に上がる。「慶ちゃんが上がってくれたんは、春が一足先にウチにやってきたみたいな気ぃするな」 手が空いているのか、主人がやってきて慶次の前に座った。「かまわへんねやったら、店の客としてではのうで、個人的な客として茶を一緒にさしてもろて、えぇか」「ああ、そりゃあかまわないよ。なぁ、夢吉」 ひょい、と慶次の胸元から小猿が顔を出して同意を示すと、店主は礼を言って手を打ち、茶と菓子を運ばせた。「おっ。鶯の菓子とは、風流だねぇ」 慶次の前に差し出されたのは、新緑鮮やかな鳥の形を模した生菓子であった。「んっ、こいつぁ上品な甘味で、舌触りも滑らかだ。相当な代物だよ」 その言葉に、店主は顔をほころばせた。「せやろ。こいつはね、二の娘が嫁いだ先の、冨久堂っちゅう和菓子屋から取り寄せたんや。その跡取り息子の腕が、親父よりもずっと繊細で鮮らかに季節を表現するっちゅうて、そらもう大評判でなぁ。早う親父が隠居したらえぇんちゃか、とまで言われとる」「へぇえ。そいつぁすごいや。二の娘っていったら、お染ちゃんか。いいところに、嫁いだねぇ」「見る目があったってぇ事だろうね。長女のお清も、いい婿をもらって家をよく手伝ってくれているし、ありがたいことだよ」 ふ、と店主の語尾が曇ったことに、慶次はおやと眉を上げる。「何か、気がかりでもあんのかい」「いやぁ、まぁ、気がかりて言うたら、気がかりなんやが」「水臭いなぁ。遠慮せずに、聞かせてくれよ」「ほな、聞いてもらおか」 店主が再び手をたたくと、代わりの茶と、今度は梅の花を模した生菓子が出された。「こいつもまた、可憐だねぇ」「飾っておきたくなるほどやろ」 目じりを下げる店主に勧められるまま、慶次は口に運ぶ。苦味を強くしてある茶に、涼やかな甘さが舌に心地よい。「こいつもまた、見事だなぁ」「冨久堂の菓子が最後に添えられるってことで、うちの客足も伸びてなぁ。ありがたいことや」 うんうん、と言いながら茶を飲めば、生菓子の後味が香立つ。ほう、と息を漏らした慶次の顔を伺うように、店主は膝を寄せた。「そこや」「えっ、何処だい」「その、たまらんような顔」 慶次が手を頬にあてる。「これほどのモンやったら、と公家の真似事で茶を楽しむ武家の方々も、こぞって求めてきやる」 さもありなん、と慶次が、夢吉が頷く。「中には、物騒なお人もおらはるんや」「物騒?」 きょろきょろと辺りをうかがってから、店主は口元に手を添えて、身を乗り出した。「自分とこだけに出せぇ、言わはるんや」 それほどの味と見目であることは、慶次は舌を持って確認済みだ。「なるほどなぁ。けど、何処かをひいきするつもりはないんだろ」「召し抱えられて腕を振るうんが好きな職人もおるけどなぁ、冨久堂の主人は、もとが境の出ぇやし、そういうことは好まはらへん。やんわり断ってはるみたいやけど、荒い方も居はるよってなぁ」 侍は無粋でいかんとつぶやき、あわてて店主がとりなす。「慶ちゃんは別やで。粋でいなせな、えぇ若者や」「はは、ありがとう。けど、どんなことでも力でなんとかしようっていう奴が居ることは、確かだ。それに屈するのも釈然としないだろうし、そうなりゃあ他の連中も黙っていないだろうなぁ」 ききぃと鳴いて、夢吉が思案顔で腕を組む。「何か、穏便に事が収まることは無いだろうかねぇ」 慶次も腕を組み、夢吉と共にうぅむと唸ってから、ぽんと膝をたたいた。「冨久堂の傍で茶は飲めるかい」「せやなぁ。茶店が無いでは無いけども、自分の店のモン出しとるから、冨久堂のもんは味わえへんやろ」「そうかぁ」 ぱくり、と最後の一口を味わって、茶で口内を洗ってから慶次は腰を上げた。「ま、なんとかしてみるよ」 雨のちの雲から漏れる晴れ間を拝むように、店主は慶次に目を細めた。 その日、慶次は質素な身なりの文化人らしき男と共に有った。文化人らしき男は、質素ながら見るものが見れば上等の布で着物をしつらえてある。二人と夢吉は冨久堂の前で止まると、大声で話始めた。「ほぉう。こいつが今評判の、冨久堂の菓子かぁ。なるほど、見た目も鮮やかで繊細。歌詠みをしたくなるくらいの出来栄えだねぇ」「なぁになに、前田殿。見るも惜しいが食せば口内より失うことを悔やむほどの美味なれば、是非にご賞味いただきたい」「それほどの物かい」「それはもう。茶をたしなむ者が、こぞって求めたくなるほどの代物。中には自分の為のみに菓子を作れと迫る者も居るほどに」 慶次が目を配り、言葉に反応する者を探る。人が身を固くした気配ににやりとし、大仰な会話を続けた。「そいつはまた、すごい評判だなぁ。しかし、自分のみとは強欲にすぎやしないかい」「さればこそ、無粋なものが居るものよと茶席で話題に上るのよ」「こういう愉しみを一人の物にしようなんて、料簡の狭い男は出世しないね。なぁ、アンタもそう思うだろ」 ふいに振られた男は、目を丸くしながらも首を縦に振る。「お、おお」「懐の浅い男になんざぁ、誰もついてこないだろうし、なぁ」 今度は別の男に振って、再び同意を求める慶次に意図を察したらしい町人が話に混ざり始めた。「どうせやったら、快く皆で旨いものをとおっしゃる方の茶席に、呼ばれたいですな」「せやせや。どんだけ旨い茶菓子やっても、強欲なお人の茶は、うけとうあらしまへん」 次々と上がる声に、口惜しそうにしている男の姿を見止め、慶次は手を伸ばし肩を叩いた。「なぁ、兄さんもそう思うだろ」 そういわれ、この場で違うと言えようはずもなく、男は苦り切った顔で「さようにござるな」と絞り出す。「せっかく盛り上がったんだ。この、当代きっての茶人と言っても過言じゃない今井宗久に茶をたててもらって、皆で楽しもうじゃないか」 慶次の提案に、その場にいた者たちが賛同の意を示す。渋面だった男は今井宗久の名に目を丸くし、兄さんもどうだいと言う慶次の申し出を受け、彼に相談を持ちかけた店で皆が茶と生菓子に舌つづみを打った。「芸道を独り占めするなんざぁ、無粋の極みよ」 声高に響いた慶次の声が、早春の京に東風を吹かせた。2012/02/25