からりころりと肩に手ぬぐいを乗せて、湯屋から宿へと帰る前田慶次の目が、ふと道の端にうずくまる影で止まった。首をかしげ、慶次の胸元から顔を覗かせていた小猿の夢吉と目を合わせる。「なんだろうな、夢吉」「キキィ」 懐から出てきた夢吉が、慶次の肩によじ登り座る。一人と一匹は影の傍へ歩み寄った。「なあ、アンタ。そんなところで、いったいどうしたんだい」 うずくまる背中は小さく華奢で、着ているものは男物の長着だが「アンタ、女か」 丸みのある曲線に、男でも子どもでも無いと慶次は見取った。 うずくまる影の横にしゃがんだ慶次が、顔を覗き込む。「なあ、あのさ――」 言いかけて息をのんだ慶次は、思うよりも先に女を抱きかかえ、宿への道を全速力で駆け抜けた。「どいたどいたぁああっ!」「あっ、慶ちゃん」「慶次の旦那っ」「ちょいと、ごめん! 通してもらうよっ」 人よりも立派な体躯をしている慶次は、体の重さなど無いように人々の間をすり抜け頭上を飛びこし、あっと言う間に宿についた。「誰か、すぐに医者を呼びに行ってくれ!」 入るなり叫んだ慶次の声に驚きつつ、迎えに出た男が驚いた顔のまま草履に足を突っ込んで駆けだしていく。「慶次はん、どないしてん」「病人だよっ」「ええっ」「お登美ちゃん。悪いけど、看護をしてくれないかな。女の子の着替えを、俺がするわけにはいかないからさ」 言いながら部屋に入った慶次は、女を寝かせるとすぐに台所へと向かった。「ずいぶんと体が冷えてるんだ。湯を沸かして運んでくれ。それと、何か温かいものを用意してくれ」「キッキィ!」「あいよぉっ」 威勢のいい声が厨房から返ってくるのと重なるように、表から声が聞こえた。「医者を連れて来たぜぇ!」「すぐに、看てもらってくれ!」 そうしてバタバタとした時間が過ぎて、医者が帰り宿の者らの仕事が通常に戻った頃、慶次は壁に背をもたせ掛け、うつらうつらと舟をこいでいた。 慶次の膝の上で、夢吉も同じように舟をこいでいる。 ふ、と目を開けた女が首を動かしそれを見て、状況を理解できぬままに身を起こし、部屋の中を見回した。「おっ」「キッ」 気配に気づいたひとりと一匹が目を開けて、笑みを浮かべる。「気分はどうだい」「キッキィ」 呆然とした警戒を浮かべる女に近づかず、慶次はそのまま声をかけた。 女は眉根を寄せて、わずかに後ずさる。それに苦笑を浮かべながら頬を掻き、慶次が立ち上がれば膝から夢吉がこぼれ落ちた。 ビクリと女が体をこわばらせる。「おなかが空いているだろう。何か、頼んでくるよ。その間は、夢吉。しっかり看護をしといてくれよ」「キッキィ」 元気いっぱいに夢吉が手を上げて、慶次は部屋を出た。夢吉は、そっと女に近づいて安心をさせるように自分の胸を叩いて見せる。それに目を丸くした女が、ほっと緊張を解いて頬を緩ませた。「キッ」 気遣うように夢吉が両手を伸ばせば、女はその小さな手を、ぎゅっと掴んだ。 薄い粥を用意してもらった慶次は、襖の前で声をかけてから中に入った。夢吉が女の膝の上にいることに目じりを下げて、傍に寄る。「医者の見立てでは、栄養が足りず血の巡りが悪くなっただけだってさ。いきなり食べると良くないらしいから、だいぶん薄い粥だけど」 そう言って差し出した粥を、女は慶次の顔と見比べて夢吉に目を落とした。「キィイ」 夢吉が手振りで促せば、女は頷き粥を受け取る。笑みをにじませた慶次を見ながら、吹き冷ましつつ口を付けた。 するりと粥が喉を通り、米の甘さが口に広がる。ほんのりと聞いた塩が食欲をそそり、女は粥をたいらげた。「食欲は、あるみたいだな」 安堵の声色に、女が手を着いて頭を下げた。「ご迷惑を、おかけいたしました」 艶やかな黒髪が、さらりと女の肩を滑る。女、と言い切ってしまえぬ幼さの名残がある彼女は、顔を上げて目を逸らした。「なんで、あんなところでうずくまっていたのか。よければ訳を聞かせちゃくれないか。何か、俺で力になれることがあるかもしれない」 慶次の言葉を吟味するように、女はじっと床に目を落とす。しばらくして夢吉に目を向けて、そっと両手で掬い持ち上げた。「大道芸人なんですか」 済んだ丸みのある声が、弱々しく発せられた。少し目を丸くした慶次が、破顔する。「そう、見えるかい」 女はコクリと首を縦に動かした。 簡素な長着姿だが、慶次の放つ華やかな空気と人を惹きつけずにはおれない健康的な美貌。みっしりとした、どのような着物を着ても各塩推すことのできぬほど立派で均整のとれた体躯をしていながら、朗らかな様子には武家の鋭さはどこにも見受けられない。そのような所と夢吉の存在から、彼女はそう判じたらしい。「まあ、似たような感じだけど。これでも侍なんだ。気楽な浪人ってね」「キキッ」「さ、むらい」 つぶやいた女が俯き、ぎゅっと眉根を寄せて拳を握りしめた。「俺は、前田慶次。そっちの小猿は、夢吉。何があったのかは知らないけれど、今夜はゆっくりとここで眠ったらいい」 慶次が立ち上がり、警戒を肌に乗せた女にニッコリとした。「夢吉が傍にいるから、安心して休んでくれよ。頼んだぞ、夢吉」「キッキィイ」 胸を張った夢吉に、しっかりと慶次が頷く。「それじゃ、おやすみ」 女が言葉を発する前に、慶次は廊下に滑り出た。 朝の光と小鳥のさえずりが、慶次に目覚めを促す。ぱちりと目を開けた慶次は、眠い目を擦りながら起き上がり、あくびをしながら伸びをして、寝乱れた着物を脱いで何時もの着物に手を伸ばす。ふ、と隣室に意識を向けてみるが人の動く気配は感じられなかった。 手早く着替えを済ませた慶次が部屋を出れば、にこにこと宿の店主が顔を出した。「慶次はん。あの娘さんは、なかなか気の利くエェ娘やねぇ」「ん?」「まだ、夜も明けんうちから起き出して、裏の掃除をしたり湯を沸かしたりと、働いてくれよったんや。自分は銭を持っとらんから、泊まった代金は働いて返す言うて」「へえ?」 店主が慶次を手招いて案内し、台所へつれて行けば髪を手ぬぐいでまとめた女が、せわしなく立ち働いていた。「なかなかに手際の良い娘やし、行くところが無いんなら、このまま雇い入れてもエェんやがなぁ」 胸の裡をポロリとこぼしたような口調に、慶次が目を細めた。「行く場所が無いんなら、ここで預かってもらえるんなら拾った俺も、安心できるな」「ほな、話してみてもエェね」「ああ、頼むよ」 にっこりとした慶次は、店主の肩を軽く叩いて夢吉を呼び、町へと繰り出した。 街をふらついた慶次が空が朱音と紫を織り交ぜはじめた頃に宿に戻れば、きっちりと正座をした娘が出迎えた。「おかえりなさいませ」「なんだか、昔から勤めているみたいに、しっくりしているなぁ」「キキィ」 顔を上げた娘の表情は硬く、何か言いたげな目は迷うように動いている。「俺の部屋で、話をしようか」 慶次の提案に、ほっと表情を和らげた娘を伴って、慶次は部屋へ入った。「お助けいただき、ありがとうございました」 入るなり手を着いて頭を下げた娘に、慶次はやんわりとした目を向ける。「宿の手伝いが出来るくらいに、元気になって良かったよ」「キィイ」 ゆったりと慶次が胡坐をかけば、娘が膝を寄せてきた。「私は、とある武家の娘です。とは言っても、前田様のような高名な家ではありません。けれど人を使うほどの身分ではありました」 それに、慶次が頷く。なるほど人を使う立場であれば、誰かをもてなすこともある。下男下女にまかせきれぬ家柄であれば、妻や娘が立ち働かなければならない。それで宿の手伝いも見事にこなせたのだろう。「その家ですが、先の戦で父が討たれ、兄が討たれ、私と母が残されることとなりました。尽くしてくれた者らに、わずかばかりの財を分け、母と私は逃れ流れておりましたところ、うっかりと騙され母は私を逃がすために、犠牲となりました」 ぐっと喉を詰まらせた娘の目に光るものを見て、慶次は胸の痛みに顔を歪めた。何がどうしてそうなったのか、深く問う事は傷つけることになると判じ、慶次は黙して彼女の話に耳を傾けた。「女の姿では、どのような目にあうかしれません。私は着物を売り、代わりに粗末な男物の着物を手に入れました。傘を被り顔を隠し、堺に行けば雑多な人が集まり素性を隠したままでも、生きていけると聞いていましたので、目指しました」 娘が一呼吸置き、慶次が言葉を受け止めたと示しながら、先を促す様に頷いた。夢吉も、慶次に習う。「売れるものを売りながら進み、とうとう路銀が尽きてしまい、あと少しというところで激しいめまいに襲われ動けなくなっていたところを、お助けいただきました」 手を着き、再び礼を言う娘は「お登貴」と名乗った。「お登貴ちゃん。もう言われたかもしれないけど、ここの店主が雇ってもいいって言ってくれている。そういうことなら、話を受けてくれるかい」「女郎になるほかは無いかと思っていた矢先の、有り難いお申し出。それもこれも、前田様のおかげでございます」「よしてくれよ。俺は、そんなたいそうなことをした覚えは無いよ。たださ、この目に映る、手の届く範囲の誰かを助けることが出来るなら、助けたい。それだけだよ。それは、お登貴ちゃんだって思う事があるだろう」 心からの声に、お登貴はハッと目を開いた。何かを堪えるように唇を噛みしめ、再び顔を伏せる。「そうやって、誰かが誰かを思いやって、手を差し伸べあって行けばきっと、こんな戦ばかりの世の中は終わるはずだ」「キイィ」 同意する夢吉の声の後で、胸を使えさせながら、お登貴は「ありがとうございます」とかすれた声で呟いた。 堺の町を、血相を変えた慶次が疾駆していた。「どいてくれっ! 通してくれっ」 必死の形相で走る慶次の襟元から、心配げな夢吉の顔が覗いてる。「おやっさんっ!」 悲鳴に近い声で慶次が飛びこんだのは、番所だった。「慶次はん!」 飛びこんだ慶次を受け止めるように、宿屋の店主が飛び付いてきた。「どういうことなんだよ。いったい、何がどうなってるんだっ!」 慶次の問いに、苦りきった沈痛な面持ちの侍が、口を開いた。「仇討らしい」「仇討?」「この娘は、父と兄の仇を追い求めて、ここまで来たそうだ」「――えっ」「詳しい事情は、まだ調べている途中だからわからぬが、そう叫んで切りかかり、返り討ちにあった」「そんな、なんで……」 ふらりと、慶次が足を踏み出して、筵(むしろ)に包まれた娘の遺骸へ歩み寄る。掛けられている蓆をめくれば、一刀のうちに伏したことが見て取れた。「なんで、こんな、こんなことを」「骨の髄まで、武家の娘だったということだろう」「っ……おかしいよ。こんなの、なんで、せっかく、せっかく生きる道があるってぇのに。血なまぐさい場所から遠のける場所に、来たってぇのに」「前田の。それは違うぜ」 他所ものらしい侍が、東の発音で声をかけた。「堺の町は、商人の町だ。名目上は金蔵のここは中立の立場にある。裏を返せば、どの侍にも戦の道具を売りつける。血なまぐさい戦を生む場所だと、言えなくはないんじゃないか」 ごつん、と慶次の胸に重い石のように言葉がぶち当たった。わなわなと腕を振るわせながら、冬の石よりもなお冷たく硬いお登貴を抱き上げる。「どうして、こんな……なんでっ……なんでだよぉおおおっ!」 吠えた慶次の慟哭は、空しく戦乱の世にかき消された。2013/05/21