どこまでも続く氷の野に、道があった。対岸へ伸びるその道は、真田幸村の目にはまっすぐに思えた。 御神渡 で、ある。「ふぅ」 吐く息が白い塊となって冬の空気に溶け込む。が、降り注ぐ光が今は春だと告げていた。「見事、ですな」 ふいに声をかけられ振り向くと、蓬髪の男が親しげな様子で近づいてきた。「まこと、見事にござる」 神が渡ったと言われる、広大な諏訪湖に出来る道筋に、二人は目を向けた。「すぐに、山々も春の色が洪水のように溢れるのでしょうなぁ」 冬の気配をはらんだ東風が、男の髪を揺らし、幸村の頬を撫でた。 男の素性を疑念にする気が起らぬことに、幸村は心中でそのようなものだろうと納得した。――知らなくても良いものが、この世にはある。 この男の素性は、そういうたぐいのものであろう。「神は、いずこより参られ、いずこへ向かわれるために、ここを通われたのでしょうなぁ」 吐息に交え、ひとりごちる。それに目を細めた男は、右手をもちあげた。染みひとつない白い袖が、雪と、桜の花弁を思い起こさせた。「山に、春を届けるために――蓄えた命を萌え出ずらせるために」 なるほど、と頷きながら湖から対岸の山へ目を向ける。 そびえる山に囲まれたここでは、春は爆発するように現れる。待ち焦がれていた命が噴き出すさまは、西国では見られないと戦に赴いた折に、また、全国を動き回っている風来坊、前田慶次の言葉より知った。――ゆるゆると順番に現れる春というものは、どういう景色なのだろうか。「すぐに、春が冬を追いやりましょうな」 野に獣が駆け、子を産み、育てる。田畑に活気があふれ、野良仕事の際にさざめかれる歌が耳に届く。その、当たり前に思える光景を思い描きながら、幸村はいまだ白い装束を纏ったままの山々を目に映した。「冬は、お嫌いですかな」 その声音が少しさみしそうに聞こえて、幸村はあわててかぶりを振った。「冬の空気は澄んでおり、身の引き締まる思いがいたす。息をひそめ、力を蓄え、自らを己たらしめんがため、自己を磨く。某、一介の武将なれば余計に、この時期は進軍相成りませぬゆえ、己を磨き、深め、雪解けと共に駆けられるよう、心身ともに鍛錬に励むに適しておると考えておりまする」「戦に出るために、春を待たれておるのか――萌え出ずる命を、屠るために」 はっとして男の顔を見る。咎める色も悲哀の色も、そこには無いことに狼狽えた。「い、生きるとは、命をもらうということにございますれば」 目を落とし、泳がせながら敬愛する人の言葉を口にする幸村の目に、輪のように溶けた雪の中で芽吹く緑が止まった。「生きるということは――命を食らうことに、ございますれば」 呆然とした自分の声が、ひどく遠いところから訴えてくる他人の言葉のようで、目の前にある小さくも力強い目の前の命から発せられたもののようで、ひざを折り、手を伸ばし、指先で緑に触れた。「獣も人も、草花とて――」 頭上から声が降ってくる。朗々と響くようでいて、ひそやかな秘め事の気色のある声は、魂に直接届いた。「生きるということには、あらがえぬ」 潮騒のように、幸村の耳に戦場の喧騒が寄せて返す。そこには、命というものが無造作に転がり、輝き、弾け、消えゆくさまが凝縮されて存在していた。 ぶるり、と体の芯が震える。 恐怖でも、高揚でも無い。ただ、魂が奮えた。「某は、山間の春にござる」 そんな言葉が、口をついて出た。立ち上がり、迷いのない目で男を見据え、笑む。「抑えることが、出来申さぬ」 それに、男は静かに微笑み返した。「田畑だけでなく、野山は戦で荒れましょう。なれど、過去に戦場となった田畑は山々に溢れる命に覆われ、朽ちることがあり申さぬ。かつて焼け野原になったと言われる場所も、飢饉や疫病で多くの命が奪われたという場所も――すべからく人が住み、脈々と命は続いておりまする」 深く、男が頷いた。「いつの世も、同じように」「――戦は、終えて見せまする」 面白そうに、男が首をかしげた。「人々が奪い、争わぬ世を――お館様の元で、天子様と共に国を憂い、民を思い、手を差し伸べあえる世が、参りまする」「ほ」 おもわず、という態で男が声を出し、さもおかしそうに声なく体を折り腹を抱えて身を震わせる。しばらくして落ち着いたのか、堪えたのか――顔を上げた男の目には、童のような光があった。「そのような世が、来ると」「必ず」 言い切る幸村のまなざしは迷いも、揺るぎもなかった。そこにはただ、萌え出ずる命だけが見えている。「ほ」 今度は、声を抑えずに男は高らかに笑った。幸村もつられて笑う。「ぬしは、山間の春よ」 笑みに震えながら、男が言う。「冬は好きか」「好き嫌いではなく、必要なことと存じまする。――今、そのように思い申した」「正直よの」 ふふ、と笑いの残滓を滲ませ男の目が空に向かう。「山々に個々に眠り、凝った命はすぐに、溢れ出す。ぬしの命も、今は凝らせておるのだろう。それに呑まれぬように――振り回されぬように、生きよ」 幸村の目が男の視線を追い、空に向けられた。「面白いものに出会うたわ」 さもおかしそうな声が耳朶に触れ、顔を向けると誰の姿もなかった。 目をしばたたかせ、辺りを見回しても人の気配など感じられない。「一体」 つぶやいた幸村の目が氷の野にできた道で、止まる。それを見つめていると、ゆるゆるとした笑みが唇に広がった。「なるほど、あるいはそうやもしれぬな」 一人合点し、周囲に目を向ける。今はまだひっそりと、それぞれの身のうちに凝らせている命が噴き出す瞬間が近づいていることを肌で感じ、深く息を吸い、吐き出して、幸村は諏訪湖に背を向けた。 もてあますほどの疼きが、彼を駆り立てる。けれどそれはまだ発する時期ではない。 焼けるように滾る熱を、魂を振りかざして熱に打たれ、咽るほどに交し合える時節を迎えるまで、ただ、静かに――――2012/03/02