うららかな昼下がりに似つかわしくない渋面で、猿飛佐助は腕を組んで立っていた。その目線の先には、きっちりと膝を揃えて正座し、しゅんとしている子どもがひとり。「あのねぇ、弁丸様」 盛大にため息をつきながら、言う。「そうやって毎回、反省をしてみせるのに、どうして同じことをするの」「――つい」「つい、で戸棚のぼたもち、食べちゃったらダメだって、毎回言っているでしょ。どうして、おやつの時間まで待てないのさ」「すまぬ」「あのね――謝っても、同じこと繰り返したら意味ないんだよ」「すまぬ」 しおらしく下がっている髪が、日の光に照らされて柔らかく輝いている。「ふぅ」 毒気を抜かれ、息を吐いた佐助に弁丸はビクリと体をこわばらせた。「まったく。どこにどんなものが仕込まれているか、わからないんだからね。毒入りだったら、どうするのさ」 伝える、というよりは自分の考えが口からこぼれた、という声に弁丸の顔が上がった。不安そうに見上げてくる。「どこかへ、行くのか」 佐助の言葉ではなく、声音に外出の気配を感じて顔を上げたらしい。「ん。俺様、優秀だからお仕事いっぱいたまってんの。弁丸様の傍に、ずっとはいられないんだよ」「そうか」 飽きるほどに繰り返しているやりとりなのに、いちいち頼りなげな顔をされると離れがたくなる。「今回は、すぐに済むから。おひるねの時間くらいには、帰ってこれるよ」 つい、そんなことを言ってしまった。「まことか」 わかりやすいほどに、顔を輝かせた幼君に「俺様、優秀だから」 小首をかしげて笑って見せた。「なれば、佐助。帰ってきた折、俺が眠っておったら、横で休め」「えぇ?」「よいなっ!」 すっくと立ち上がり、本人にしては威厳をたっぷりと発揮しているつもりの態で命じた。「はいはい、了解しました」 困ったように微笑んだ佐助に、よし、と満足そうに弁丸が頷き、彼を送り出した。 任務につきながら、佐助は弁丸のことを思う。彼は、戸棚に入れてあるものを勝手に食べてはいけないと、きちんと知っている。佐助が任務のために長期屋敷を空けるとき、おやつの時間以外で何かを勝手に食べることはしないと、知っていた。(まったく、困った主様だよなぁ) 彼は、佐助を傍に置きたくて、わざとしているのだ。(ほんと、不器用っていうか、浅知恵っていうか) 子どもだから、仕方が無いと言えば仕方が無い。彼は佐助を自分の忍だと言っておきながら、まるで友か兄のように思っているフシがある。傍に居よ、と命じて侍らすことは、思っていたとしても口にしない。(だから――) 今回の命令は、とても珍しいことで(この任務が終われば、今日は俺様が暇になると、思ったんだろうなぁ) でなければ、邪魔になるのではないかと気にして言うはずが無い。(ま、暇になるけど) 任務は、だ。こまごまとした仕事は――仕事の為の準備は、たんとある。けれど(たまのワガママくらいは、時間を作って聞いてあげなきゃね) 弁丸は、我慢強い子だ。大人たちが忙しいことを察し、手放しで甘えることをこらえている。けれど、それが許されると判じた時は「ふふ」 思い出し、くすぐったさに笑みが漏れた。 満面の笑みで、小さな手でしっかりと佐助を掴み、体全体を預けて甘えてくるぬくもりに、目尻が下がる。「約束したし、さっさと終わらせて添い寝してあげなくっちゃな」 つぶやき、風になった。 今日の佐助は、昼寝の時間までには帰ってくると言っていた。 それが、弁丸にはこの上もなくうれしい知らせだった。「それまでに、支度をせねば」 いつもよりも少し大きめの、佐助も共に眠れる褥を用意しなければいけない。いつも世話をしてくれる侍女に、その旨を告げた。「すまぬが、今日は佐助もともに昼寝をするゆえ、いつもよりも大きめにしては、もらえぬか」「まぁ。弁丸様。いつも弁丸様がお休みになられているものでも、十二分に一緒にお昼寝がおできになれますよ。お二人とも、おちいさくあらせられますから」 ふふ、と笑われ、そうか――と思う。弁丸からすれば、佐助はもう大人のようなものだが、侍女からすれば、佐助はまだ子どもに見えるらしい。それが、少し不思議な気がした。「佐助様は、今日はゆるりとおできになるのですね」「昼寝の時間には、帰ってこれると申しておった」「それは、ようございましたね」「うむっ」 本当に、良いことだと思う。 佐助は、自分でも優秀な忍だと口にする。しょっちゅう任務で屋敷に居ないことを思えば、過信ではなく本当にそうなのだろう。「今日は、けがもなく帰ってこれば良いが」「お昼寝の時間までに帰ってこられるのなら、危ないお仕事ではありませんよ」「そうだな――」 佐助は隠しているつもりだろうが、彼が帰ってきてしばらくも、任務に出ているふりをしている時があることを、聡い子どもは知っていた。そういうときは、佐助はたいていけがをしていたり、ひどく消耗をしていたりする、ということも。(わずかな時間でも、休ませたい) そう思っての、今日の命であった。弁丸は、めったに佐助に命令をしない。ワガママも、言わない。言う前に、佐助はたいてい叶えてしまうからだ。そんな佐助に「佐助の望みは、なんだ」 一度、そう聞いてみたことがあったが、困った顔で首を傾げられ、話題をさらりと流されてしまった。 忍の仲間たちに聞いても、答えを得ることはかなわなかった。けれど、何か望みはあるようだと、気付いている。「ああもう、俺様ってば大忙し。ちょっとは羽を広げて休みたいぜ」 そう、冗談めかして仲間に言っていたのを偶然耳にしたことがあった。「ゆっくり、佐助も休めればよいのだが」「おやすみに、なられますよ」 さあ、と侍女に促され、横になる。「おやすみなさいませ、弁丸様」「うむ。佐助が帰ってきたら、遠慮のう横で休めと伝えてくれ」「はいはい」 口元を抑えながら笑う侍女を見ながら、弁丸は瞼を下した。 すうすうと寝息を立てている幼君の姿に、任務を終えた佐助は目を細める。「遠慮なく、横で休めと伝えるように申しつけられました」 侍女から聞いて、照れくささに鼻の頭を掻き「それじゃ、言いつけどおりにしますかね」 そう言って、部屋に来た。 そっと弁丸を起さないように、横になる。ぐっすりと眠っている弁丸に、頬が緩んだ。胸に、温かく柔らかなものが込み上げる。 これが、自分が守り仕えていく主なのだ、と幾度目かの確認を胸に刻んだ。「あったかい」 子ども特有の香りに、日向のようなぬくもりがある。そっと抱きしめるようにして、身を寄せた。「ただいま、弁丸様」 つぶやき、良い夢が見られそうだと目を閉じた。 それからしばらくして、ぱちりと弁丸は目を覚ました。 目覚める気配を少し前に感じた佐助は、弁丸を抱きしめる手を離し、彼に背を向けて眠るふりをする。体を起こした弁丸は、佐助が横に居る事に安堵したような息を漏らした。「佐助」「……」「佐助」「……」 そ、と顔を覗き込んでみる。静かに、一定の呼吸を繰り返す佐助の寝顔は穏やかで、弁丸は目尻を下げた。 鼻先を近づけ、けがの匂いも手当の匂いも無いことを確認し、よかったと呟く。「佐助」「……」「俺は、おまえが好きだ」「……」「だから、弁丸のそばに、ずっと健やかでおれ」 小さな手が、せいいっぱいの優しさとねぎらいを乗せて佐助の髪を撫でた。「ゆっくり、休め」 ささやき、再び横になり、寝息を立て始める。 弁丸が完全に寝入ったと判じてから、今度は佐助が身を起した。照れくささに浮かぶ笑みをこらえて、唇を妙な形にゆがませながら、自分を大切に思ってくれる主の、ふくよかな幼い頬を見つめる。 自分の心に、それと同じくらい丸くて柔らかなものを与えてくれる幼君に、男惚れをしはじめている自分に、気付いていた。「ほんと、弁丸様ってば」 後々がすごそうだ、と笑む。忍も人と扱う気質は、吉と出るか、凶と出るか。そして、ほだされている自分の、忍にあるまじき傾倒は、どちらになるのだろうか。「ま、そんときゃそんとき考えれば、いいか」 今は、このあたたかく柔らかで、清い時間を楽しめばいい。この時代、それはとても貴重なのだから。 一寸先は、ためらいもなく命のやり取りに身を投じる自分を、こんなにも案じ、大切に思ってくれる幼君を「俺様も、大好きだよ」 戦国の世で、わずかでも穏やかに生きながらえ、天寿を全うさせるために、己は存在しているのだと噛みしめる。 ふたたび横になり、浅いながらも眠りについた佐助と、何の警戒も無く夢の中に沈んでいる弁丸を、清穏な空気が包んでいた。2012/04/23