何時ものように、弁丸はご機嫌な足取りで里への道を歩いていた。手には、途中で拾ったりっぱな棒切れがある。弁丸の手に馴染む、長さの丁度いいそれは、子ども達の中に遊びに行けば、きっと羨望を向けられるであろうもので、得意満面意気揚々と、里の子ども達との遊びに混ざるために、歩いていた。「あ、弁丸!」 田んぼの脇の水路で遊んでいた子どものひとりが弁丸に気付き、おおいと手を振る。この年頃の子ども達は、身分など関係ない。子どもには子どもの社会の秩序があり、身分の差など何の意味も無かった。 親しげな声に弁丸も手を振り返すと、他の子ども達も彼の姿を見て手招いた。それに、駆け足になって応える。「何を、しておったのだ」 問うと、得意げに子どもの一人がカエルの卵を、ぞろりと持ち上げて見せた。その中をよく見ると、少しオタマジャクシになりかけているものがあり、くるり、と動いている。「おぉおおっ」「かあちゃんに、見せてやるんだ」 子どもは得意げに鼻の下を擦った。「俺も、負けぬものを捕まえるぞッ」 袴の裾を腰に差し込み、膝までをあらわにした弁丸が、ざぶざぶと水に入る。その手にある木の棒に、ひとりの子どもが興味を示した。「いいもん、持ってんな」 くすぐったそうに弁丸は笑い「来る途中で、見つけたのだ」 突き出して見せた。「それで、カニとか魚とか、つついておびき出そうぜ」 さんせーい、と大きな声が上がり、弁丸が中心となって用水路に居る生き物達の捕獲作戦が始まった。 捕獲作戦といえば聞こえはいいが、要は棒切れで水底を突き、何か出てこれば追い掛け回す、というだけのもので、追い掛け回せば直ぐに水は濁り、何も捕まえられなくなるのは必定で――それでも彼らは、棒切れでつつくと何かが出てくる、ということが面白いらしく、不毛な捕獲作戦を大はしゃぎな上に生真面目に行っていた。「痛ッ!」 そんな中、上がった声に皆の動きが止まる。見ると、声を上げた子どもが草で手を切ったらしく、指を押さえて顔をゆがめていた。「おい、大丈夫か」「痛いよぅ」 唇を尖らせて見せてくる指は、ぷくりと赤いふくらみを浮かべていて「血が出てるぞ」「すぐに傷口を洗って、ヨモギの汁をつけておけ」「ばっか。そんなの舐めときゃ、治るって」 わいわいと、怪我をした子ども達を囲んでさわぐのに、大人が気付いて近づいてきた。「ぼうずら、どうした」「又吉が、怪我したんだ」「どら」 男が、半泣きの又吉の怪我を見て「おうおう、すっぱり切れてんなぁ。なぁに、こんなもん、すぐに塞がる。男が、こんくれぇでメソメソしてちゃあ、好きな女の一人も、守れねぇぜ」「め、メソメソなんか、してねぇっ」「ほおう、そうかい。なら、良かった。ま、怪我には気をつけて、遊べよ」 男が乱暴に又吉の頭を撫でながら皆に言い、鍬を担いで去っていく。その後姿がだいぶん遠くなってから「好きな女の一人も、守れねぇぜ」 一人が男の口真似をして、わぁっと子ども達が沸き立った。「俺、一番槍ぃいッ」 一人が言いながら駆け出すと「おれ、二番〜ッ!」「俺、三番ッ!」「おれっ、次おれッ」 わぁわぁと言いながら走り出した。「負けぬぅあぁあああッ」 弁丸も走り出し、身をかがめ、子ども達の先頭集団に入る。足の速さに自信のある子どもの気持ちに火がつき、歯を食いしばり速度を上げる。抜かれてなるものかと弁丸も速度を速めて走りぬけようとして「わぁあッ」 ドザァ、と倒れて滑った音がして、前に出した足で体を止めて振り向くと、派手に転んだ子どもの周りに、砂埃が舞っていた。「大丈夫かッ」 弁丸と競っていた子どもが、すぐに転んだ子の元へ走り、弁丸も続く。「ううっ」 皆に囲まれ見守られながら起き上がった子どもの膝は、くっついた小石や砂の合間に皮がめくれた肌が見え、血を滲ませていて「お、おれ、泣かねぇからなッ」 拳を握って強がっているものの、傍目からもヒリヒリと傷みが伝わってくるような傷で「手も擦りむいてる」 指摘され、一瞬眉をハの字にしながらも「へ、平気だかんなッ」 強がって見せた。「とりあえず、砂、落そう」 一人が言い出し、そうだそうだと井戸に向かうことになり、皆が彼を名誉の負傷をした戦士のような眼差しで見守りながら、井戸へと向かう。「大丈夫」「ぜ、ぜんぜん平気に決まってんだろ」「すげぇ、痛そう」「痛くなんか、ねぇよッ」 虚勢を張る子どもの膝に滲んだ血は、歩くたびにふくらみを大きくして、見ている弁丸も眉をひそめた。「あったぞ、井戸だ!」 井戸に向かって歩いていたのだから、あるのは当然のことなのだが、声を上げた子どもに追随して「井戸だ」「よかった」と言う子ども達も、待ち焦がれた後方部隊が到着した時のような安堵を滲ませて、井戸に走った。二人が水を引き上げて、怪我をした子どもが来るのを待っている。怪我をした子どもは、凱旋の戦士のような顔をして井戸に進み、他の子ども達は固い顔をして彼の歩みを見守った。そして「ほら、洗え」「おう」 差し出された水で傷口を洗い「よく我慢したな」「平気さ、これくらい」「すげぇな、おまえ」 そんな会話を交わしていたところに「染七」 大人の女の声がした。 途端、今まで強がっていた染七が「かぁちゃぁああん」 情けない声を上げて、女へ駆け寄り腰にしがみつき「痛ぇよぉお」 泣きついた。「おお、よしよし。転んだんだねぇ。わ、こんなに擦りむいて――痛いだろう。すぐ、薬をつけてあげるからね。――ああ、皆、ありがとね。傷を洗う手伝いをしてくれて。ほら、帰るよ」 優しい手で慰められ、全身に甘えた空気を纏い母と帰る姿を見つめ「俺、帰る」「俺も」「おれも」 母が恋しくなったらしい子ども達は、無言で――あるいは「かあちゃぁあん」と叫びながら去っていく。一人残された弁丸は「…………ッ」 ぎゅ、と拳を握り、唇を引き締めて歩き出し、里を少し離れたところで「佐助」 小さく呟いた。すると、ひゅるりとつむじ風が傍で巻き起こり「どうしたのさ、弁丸様。そんな小さな声で。俺様だって、聞き落すことがあるかもしれないんだから、呼ぶときは大きな声で――ッ、て、わぁ」 現れた彼の忍、猿飛佐助の腰に、しがみついた。「弁丸様」 ぎゅう、と応えのように腕に力が篭った。幼いながらも優秀な忍である佐助は、よほど遠くへの任務を言い与えられない限りは、弁丸が屋敷の外へ出る折に必ず自分の意識を少し分けて、様子を見ている。ゆえに、弁丸が自分を呼んだ経緯もすべて知っていて「ほらほら、お屋敷に戻るよ」 けれど、こうしてしがみつかれる理由が、なんとなくしかわからなくて「――――」「ねぇ」 ぽんぽん、と背中を叩いてみても、弁丸が手を離さないことが理解できなくて、困ったな、と空を見た。 母に甘えた子どもの姿に、他の子どもと同様、寂しさを感じたのだろう。けれど、武家の子である手前、我慢したのではないかと、佐助は判じている。甘える母も、傍に居ない。屋敷の大人の誰かに、というわけにもいかず、世話役である自分の名を呼んだのだろう。その声は佐助に届き、幸いにも手すきだったために、こうして現れた。それで、弁丸の気持ちは治まるはずだ、と思ったのだ。 ヒーヨォオオオ 高く遠い場所で、鳥が鳴いている。弁丸が、離れる気配は無い。 ぽり、と鼻先を掻きながら、もうしばらく待ってみるか、ひっぺがして帰るか、と迷った。「――佐助」 ぽつり、と呼ばれて選ぶのを止め「はぁい」 やわらかく、返事をする。「佐助」「はぁい」 少し、声を明るめにしてみた。「佐助」「ここに、居るよ」 ぽんぽん、と背中を叩く。「ここに、ちゃあんと、居るよ」 わかりきったことを口にすると、おそるおそる弁丸が顔を持ち上げた。見えた瞳が、不安に揺れている。 何を不安に思うことがあるのかと、佐助は首を傾けた。すると、また弁丸が佐助の腰に顔を埋め、ぐりぐりと額をこすりつけてくる。「はいはい、大丈夫。ちゃんと居るから」 抱きしめるように、背中を両手で押さえると、うう、とくぐもった声がした。「あ、苦しかった――ごめんごめん」 ぱ、と手を離すと、弁丸の手が伸びて、佐助の指を掴んだ。「――帰る」 目を反らし、唇を尖らせた顔は常に無いもので「どうしたのさ」「別に」 問うと、顔を伏せられた。 弁丸が、こんなに不機嫌になることは、めったにない。大体はすぐに機嫌を直す。なので「帰ったら、お団子、食べようか」 彼の機嫌をとるのに、最高だと思っている言葉を口にしてみたのに「いらぬ」 弁丸の機嫌はますます悪くなったようで、佐助は少しうろたえた。 うろたえながらも、弁丸が出かけてからの後のことを脳裏でたどる。「あ、もしかして。あの棒切れ、なくしちゃったのが嫌だった」 かけっこをするとき、邪魔なので弁丸は棒切れを手放している。それを拾ったときの得意そうな顔を思い出して聞いてみたのだが「違う」 かぶりを振られた。「あ、じゃあ――何か素敵なものを捕まえられなかったのが、残念だったとか」 これには、髪が舞うほどに激しく首を振られた。「え、ぇえっと、じゃあ――」「佐助」「あ、はい」 妙に固く真剣な声音に、かしこまった返事が意図せずに出た。「おまえは、俺の傍に、おるな」「え。ああ――うん。こうして、いるでしょ」 ぎゅ、と佐助の指を握る力が強くなる。「弁丸様――どうしたの」 しゃがみ、顔を覗き込もうとすると、首にしがみつかれた。「佐助」「はぁい」「佐助ぇ」「はいはい」「――佐助」 返事の代わりに、背中を軽く叩いて抱き上げる。「帰ろっか」 こくりと頷いた弁丸の髪が、首を擽る。ぎゅう、と強くしがみつかれて、頑なな気配を持ったままの甘えに、心が擽られた。 よくは判らないが、弁丸は酷く――それはそれはものすごく、寂しさと不安を感じたらしい。そして、どうやらそれを解消できる相手として、自分は選ばれているようだ。 その事が、佐助の心を浮つかせ、足取りも軽やかにさせた。「弁丸様」 返事は無い。「ずっと、一緒だからね」 その言葉に、顔が上がった。「ずっと――」「そ。ずぅうっと。弁丸様が、いやだーって言っても、ずっとずっと」「い、いやだとは、言わぬ」「わかんないよぉ。大きくなったら、佐助などいらぬっ、て言うかもしんないじゃん」「言わぬ」「ほんとかなぁ」「言わぬ。絶対に、言わぬ」 必死の様子に、頬が緩んだ。「ありがと」 思いがけない言葉だったらしい。大きな目を、零れ落ちそうなほど見開いた後に「うむっ」 全身から喜色をほとばしらせ、弁丸の頭が大きく縦に動いた。 それから、その言葉にたがわず、大人になり幸村と改名した弁丸は佐助を重用し、佐助もまた、彼の傍にいる。「佐助」「はいはいっと」 約束をした記憶はなくとも、その時の想いだけはずっと、胸にとどめて――――。2012/05/17