小川で野菜が冷えている。山間を駆け、鍛錬をしていた真田幸村は、清水に口をつけてそれを見つけた。「このようなところに……」 このあたりに、里は無いはずだ。だとすれば、これは猟師が山に入り、のどを潤すために冷やしているのか、川釣りの折に冷やしているのか。 あたりを見回したが、人の気配は無い。だが、目の前には野菜がある。みずみずしいキュウリや瓜が、清水に浮いているのに、幸村の腹が鳴った。「ぬ、ぅ…………」 恥じ入るように腹を抑え、もう一度周囲を見回し、冷えていると思しき野菜を見、首を振って「いかん、いかん」 律した。 腰にある巾着に手を置き、握り飯を持たされていたことを思い出し、その横にあった竹筒に水を汲んでから坐して、包を開いた。大きな丸い握り飯と、漬物が二切れ、入っている。「ありがたく、頂戴いたす」 手を合わせ、目を閉じ米を作った者たちへ感謝を示し、さて食べようかと目を開けると「ぬ?」 握り飯がひとつ、消えていた。 きょろきょろと辺りを見回してみても、落とした様子は無い。はて、と首をかしげて見れば、消えた握り飯の代わりに、キュウリがあった。「これは……」 いかな事であろうか、と首をかしげた幸村の腹が、そんなことよりも食事をはじめろと訴えてくる。なので、幸村は誰ぞ忍びの者でも居て、このようなことをしたのではないかと、結論付けた。「うまい」 こり、と小気味よい音をさせ、キュウリを食べる。芯までよく冷え、肉厚の美味であった。「うむ、うむ」 キュウリと握り飯を交互にかじれば、塩気が丁度良い。すべてを平らげ、指についた米粒も食べ終えて「馳走になり申した」 小川の、冷やされている野菜に向けて手を合わせ、礼を言い、鍛錬の続きに戻った。「――と、そのようなことがあったのだが。佐助、誰の仕業か、わからぬか」 屋敷に戻り、自身の忍びでもあり友でもある――と幸村は思っている――猿飛佐助に問うと「そんなことをする奴に、心当たりなんて、無いけどなぁ」 首を傾げられた。「無いのか」「無いよ」「なれど、あのような場所で、俺に姿をみられずに、あのような事を成せるは、武田忍び以外に思い当たらぬ」「俺様も。かりに、よその忍びだったとしたら、相当な手練れだよね」 佐助の目が、鋭く細められた。「しかし、敵意などは何も感じなかったぞ。それどころか、気配すらなかった」「旦那の野生の勘を欺くなんて、なかなかな相手だよな」 ふうむ、と腕を組んでから「もしかして、河童だったんじゃない」 冗談めかして佐助が言った。「河童?」「そう、河童。キュウリが好物だって言うしさ」「むぅ」「河童なら、旦那のめをあざむいて、そんなことが出来たのかもしれないよ」「そうか、河童か」「そうそう」「なれば佐助」「ん?」「天狐仮面殿に、渡りをつけてはもらえぬか」「は? なんで」「天狐仮面殿なら、妖物にも通じていよう。河童殿と、お会いしたい」「はぁあ? なんで? 用事あるんなら、手紙を書いてくれたら、渡しておくからさ」「いや、直接、俺が話をしたいのだ」 きり、と眉を澄ませて言う幸村が、引き下がることが無いと知っている佐助は盛大にため息をつき「お八つの後に、天狐仮面に来るように、伝えておくよ」「すまぬな」 嬉しげな主とは対照的な顔で、辞した。 天狐仮面の姿に身をやつした佐助が「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャ〜ンってねぇ。俺様に、用事があるんだってぇ?」 半分ヤケクソの態で陽気に幸村の前に現れた。「おお。お呼び立てして申し訳ござらぬ」 さあ、と円座に促して「佐助、佐助!」 彼の忍びを呼ばわった。「――? 佐助、おらぬのか」「ああ、佐助なら、なんか急な用事が出来たとかで、出かけてったよ。旦那の用事しっかり聞いてあげてって言い置いてさ」「ぬう――そうでござったか。茶の一つでもと思ったのだが……。あいにく、不調法ゆえ某には出来申さぬ」「ああ、いいって気を遣わなくて。俺様の姿、そうそう人に見せるわけにはいかないからね。で、何なのさ、用事って」「そのことなのですが――河童に、つなぎを渡していただきとうございまする」「は? なんでまた」「この世は戦続き――民・百姓も駆り出されることがありまする。被害に会うこともござる。田畑も踏み荒らされぬようと思うても、乱されることもござる。これが豊作の折であるならば、なんともなりましょうが、不作となれば飢えてしまいまする」「旦那――ちゃあんと、そこまで見られるようになったんだねェ」 しみじみとする天狐仮面へ「佐助のようなことを、申されまするな」 幸村が首をかしげた。「ああ――ほら、俺様ってば、竹馬の友っての? 昔からの知り合いだからさ。旦那が弁丸って呼ばれてた頃の話とかも、知ってんだよ」「なんと、そうでござったか。なにやら、面映ゆうござるな」 ふわりと笑む幸村に頷いて「で、それがなんで、河童につながるのさ」「おお――。そう、なればこそ、河童殿に田畑の豊作を願いたく存じておる所存にて、つなぎをつけて頂きたく、お頼み申す」 手を突き、頭を下げた。「ええ〜…………ううん、気紛れな奴だから、俺様だって、めったに姿を見られないんだぜぇ」「そこを、なんとか」 食い下がる幸村に「姿が見えなくても、そこに居れば、問題無いんじゃない? 要は声が届けばいいんだからさ」 天狐仮面の言葉に「おお」 幸村が頷き「なら、一緒にいこっか」 そういうことになった。 河童への土産に、キュウリと団子を手にした幸村は、出会った場所へと向かった。天狐仮面は、先導をするフリをして幸村に続く。やがて目的の場所にたどり着き、幸村は手ごろな岩の上に土産を広げておき「河童殿!」 声を張り上げた。「さきほどは、大変美味なキュウリをいただき、ありがたく存じまする!」 声の余韻が山に吸い込まれてから「河童殿に、お願いいたしたき儀がござり、参上仕った」 幸村の声が消えてしばらくしても、河童が現れる様子は無い。「天狐仮面殿」「ん?」「河童殿は、いらっしゃるのだろうか」「大丈夫。ちゃんと、旦那の声は聞こえてるよ」 その言葉に背中を押され、幸村は続けた。「戦の耐えぬ世、民は苦しんでおり申す。守るべき民を苦しめて、何が武将かと河童殿はじめ、山に住まう方々が思われているかと存じておりまする」 一呼吸おいてから「都合の良いこととは、重々承知しておりまする。なれど――どうか、民が迷うたとき、助けてはいただけませぬか。河童殿は、田畑のことを良くしてくださると伺っておりまする。どうか、助けてはくださりませぬか」 声が吸いこまれ、川音のみとなった場所で、幸村はじっと、返事を待った。「旦那」 天㰦仮面が声をかける。「帰ろう、旦那」 幸村は、動かない。「旦那」「――情けない」「え」「情けないな……」「旦那――」 拳を握る手を包み「一人で、全部できようと思わなくって、いいんだよ」 いつの間にか、仮面を外して微笑みかける。「佐助、いつの間に」「旦那は、旦那が出来ることを精一杯すればいいんだ。俺様は、俺様のできることをする。大将だって、大将のできることを、してる。みんながそうやって、自分のできることをして、それを作用させ合って、いるんだ。だから――旦那、一人で全部、しようとしなくていいんだよ」 やわらかなそれに「うむ」 頷き「なにやら、幼き頃に戻ったような気がするな」 照れくさそうに笑うのに「それじゃ、帰りは、おんぶしてあげよっか。弁丸様」 くすくす笑いあい、川に向かって一礼し、二人が去っていく。 岩に置かれた団子が一つ、いつの間にやら無くなっていた。2012/07/18