届け! 鳥さえも届かぬ高みにいる人よ。 届け! いつも一羽で飛ぶ鳥は、彼の人に向けて羽ばたき続ける。 届け! 風をとらえ、風を叩き、高く――もっと、もっと高く! 強く願い、羽ばたき続けるうちに、日が傾いていく。 嗚呼―― 鳥は、声を上げた。 待ってくれ! 追いかける相手が、はるか遠くで滲んでしまう。 嗚呼―― 茜と藍が折り重なり、藍が茜を侵食していく。 嗚呼――! 蒼が――濃密な蒼が眼前に広がり、無数の光をちりばめて君臨する先には、鳥をあざ笑うかのように、静かな笑みをたたえた月が、輝いていた。 寝癖のついたまま、ぼんやりと腫れぼったい瞼を瞬かせつつ井戸に向かった猿飛佐助は「おお――珍しいな」 もろ肌脱ぎで体を拭っている主、真田幸村と出くわした。「ん〜」 眠たげな声を出したまま、水を汲んで顔を洗う佐助に、幸村の目が丸くなる。「どうした。遅うまで、任についておったのか」 問いかけに、顔を拭きながら「ちょっと、夢見が悪くてさぁ」 吐息と共に、答えた。「夢見――?」「そ。夢見」 幸村が、首をかしげる。「以前、忍はいかな時でも夢を見ることなく、眠りに入り休むことが出来ると申しておったではないか」「そうなんだけどさぁ……夢なんて、見た記憶が無いくらい久しぶりっていうか、初めてなような感覚だから、妙に疲れちまって」 顔を拭いた手ぬぐいで、寝癖のついた髪を乱暴に揉む。そうして手櫛で整えると「ま、俺様も繊細ってことだよねぇ」 呟いた。「何か、心配事でもあるのでは無いか――」「心配事ぉ?」 はて、と首をかしげる。「大将と旦那が、また屋敷を壊しちゃったら、次の修繕費はどうやって賄おうかな、とか……そういう心配は、毎度の事すぎていまさらだよね」 嫌味を少し滲ませて、横目で幸村を見てみる。が、鈍い彼は気付く様子も無く「任務で、何か気になる事柄でも、あったか」 片方の眉根を、ぎゅっと絞るように下げて顔を覗いてきた。「気になる事柄、ねぇ」 ふむ、と手を顎に寄せてみる。「特に、無いかなぁ。いつも通り、完璧にこなしているからさ」「さすがは、佐助」「まぁねぇ」 称賛の声を、当然のごとく受ける。忍と主の態度ではないが、幼少のころより、それこそ兄弟のように育ち、幸村がまだ弁丸と呼ばれていた頃から彼の世話役を務めてきた佐助に、幸村は忍としての態度ではなく、彼を兄のように友のように扱っていた。佐助も、正そうと諭しても幸村が一向に聞く耳を持たず、また甲斐の忍は領主である武田信玄が忍も人として扱うので、他所からすれば打ち首ものの態度で主にも、主の主である信玄にも、接していた。「ならば、何が要因で悪い夢見になど、なるのだろうな」「それがわかったら、こんな顔してないって。あ〜あ。男前が台無し」 肩をすくめれば「しばし、お館様に暇をいただけぬか、聞いてみるか」「なんでさ」「疲れが、知らず知らずのうちにたまっておるやもしれぬ。ゆるりと休み、気をくつろげてみては、どうだ」 ふうむ、と腕を組んで「出湯にでも入り、ゆるりとしてみては、どうだ」「出湯、ねぇ」「岩櫃にまで足を延ばし、出湯につかり休め、佐助」「でもほら、このご時世だしさぁ。俺様が抜けちゃって、大丈夫?」「それは、お館様が決める事。まずは申し上げてみよう」 早速に言いに行く気でいるらしい幸村は、くるりと佐助に背を向けて、大股で歩きだす。「佐助――お館様に気兼ねがあらば、俺一人で伝えに行くゆえ、俺の部屋で待て」「いやいや、そういうわけにも、いかないでしょ」 昨夜の報告も、まだだったしねと付け加え、佐助は幸村の後に続いた。 胡坐をかき、幸村と対峙した信玄は、顎をさすって「ちと、佐助には無理を強いてきたからのう」 幸村の、佐助を岩櫃の城へ行かせ、出湯にて休ませたいとの申し出に、つぶやいた。「では――」「うむ。……佐助よ」「――は」「岩櫃へ向かい、ゆるりとせよ。その後に、上杉以北の情勢を探ってまいれ」「承知」「幸村よ」「は!」「おぬしも、同道するがよい」「いえ――某は……」「幸村!」 断りを遮り呼べば、幸村の伸びていた背がさらに伸び、顔に緊張が走る。それを解すように目元を緩め「佐助の様子がすぐれぬであれば、気にもなろう。共に行け。ついでに、岩櫃城下の様子を見て参れ」「は」「時に、佐助」「はい」「夢見が悪いと言うたが、どのような夢を見る」 幸村の少し後ろに控えていた佐助が、頭を掻いた。「いやね――それが、よくわからないんっスよねぇ。鳥が空に向かって飛んでいくんですけど、日が暮れていくんですよ。で、鳥は焦る。その鳥の焦りが、自分のものみたいに感じられて、必死に羽根を動かすんスけど、日暮れに間に合わず、夜になっちまうっていう内容なだけで」「その鳥は、何を目指して飛んでいる」 少し考えて「どうも、太陽を追いかけているみたいで」 ほう、と信玄の眉が上がった。「何故、そう感じた」 少し考え「日が滲んで茜色が藍色に押し出されるというか、覆われるというか……そうなったときに、鳥がひどく不安になるんですよね。それで、いっそう力を込めて羽ばたくんスけど――最後は夜になって、月が浮かんで、そこで体の芯から冷えたような心地になって、目が覚めるっていう」「は、どのような茜じゃ」「燃えるような、感じスかねぇ」「藍色は」「ん〜……夕闇にしては、鮮やか、かなぁ」「月は、弓張月では無いか」 面白そうに信玄が目を細め「え、なんで」 佐助が目を丸くするのに含み笑いを浮かべながら近づき「成程のう」 さも可笑しそうに言いながら、時折幸村にするように、佐助の髪を掻きまわすように撫でた。「う、わ――え、ちょっと何ッ」 され慣れぬ佐助が慌てるのに「まだまだ、幼いのう」 嬉しげに信玄が言うのへ「へ?」 頓狂な声を上げた。「わからぬか」 顔覗きこまれ「さっぱり」 答えると「なんと。佐助のわからぬことを、お館様は解明なされたということにございますか」 拳を握り、幸村が顔を寄せてきた。「佐助が、このように小さき頃より見知っておるでな。わからいでか」 両手で大きさを示してみせた信玄に「いや、大将。それじゃ、猫の子くらいだから。俺様、そんな小さくなかったから」 佐助が突っ込みを入れる。それを受け流し「人というものは、近しい相手へ自分で思う以上の執着を覚える時があるものよ。それと知らずに、な」 いたずらっぽく、信玄が笑う。「共に育った仲睦まじい兄弟は、兄あるいは弟に、親しい友などが出来た折、言い知れぬ不安と不満を抱えるものじゃ」「――はぁ」 わかったような、わからないような声で佐助がつぶやき、幸村は懸命に言葉の意味を考える。「佐助は、下手に頭のめぐりが良く大人びておったから、そちらのほうがおろそかになっておったのじゃな」 うむ、うむと腕を組んで頷く信玄は、ほんとうにうれしそうで「あの、大将――さっぱりわからないんですけど」「某も、わかり申さぬ」 佐助が困惑し、幸村は難しい顔をした。「おぬしらは、兄弟のようなもので繋がっておるということよ」 佐助と幸村の肩を同時に叩く。「主従の絆とは、それほどでなくではならぬ」 信玄の目は、子を見守る父親のそれのようであった。 そうして送り出された二人は、馬の背に揺られて岩櫃を目指して進んでいた。 照りつける日差しを木の葉が和らげ、時折吹く風が心地よい。のんびりとした気持ちで馬を進めながら「しかし、お館様の申されたことは、いかな事であったのだろうな」 幸村が、横を進む佐助に声をかけた。「謎解きみたいだったよねぇ」「うむ。――俺とおまえを、兄弟のようだと申されたな」「そうだねぇ」「兄弟に親しい友が出来れば、不安や不満を持つとも、申された」「俺様の夢が、そこに原因があるって思ったってことだよなぁ」「うむ」「でも、それだとしたら旦那が親しい友達を作って、俺様が不安になってるってことになるよね」「ふうむ――だが、それに思い当たるような御仁は、とんと浮かばぬ」「俺様も、浮かばない」 ふうむ、と二人して不思議がる。緑が鮮やかに目を楽しませ、その先に直視できぬほどの光を放つ空があった。「夢の符号から、何か導きだせぬだろうか」「太陽を目指した鳥が、夜になって不安になった――ってだけなんだけど」「お館様は何ゆえ、茜の色と藍の色を詳しく求めたのであろうか」「そこに、手掛かりがあるって事だよね」「そしてそれを聞いたお館様は、夢に現れた月の形を言い当てられた」「大将には、全部見通されたってことだよなぁ」 ふうむ、と再び二人して唸る。「弓張月、と申されたな」「言われたねぇ」「弓張月に符合する事柄は、何か無いのか、佐助」「ん〜…………弓張月、弓張月……別名で考えてみたら、いいのかな」 そこでふと浮かんだ単語に、夕闇にしては鮮やかな藍に、佐助の記憶から導き出された人物があった。「――佐助」 あ、と声を上げかけた口を手で覆った佐助に、首をかしげる。その顔がみるみる赤くなっていくのに「どうした」 問うた。「いや、うん――うわぁ…………」 頭を抱えた佐助に、さらに問いを重ねようとすれば、それを振り切るように佐助が馬腹を蹴った。「佐助ッ」 幸村も、あわてて馬の足を速める。「どうしたのだ」「なんでも無い!」 そういう佐助の姿は、なんでもないとはとうてい思えぬほどの狼狽を、幸村の目にも明らかなほどに示していた。 その彼の脳裏に ――天と大地を繋ぐ役は、選ばれた鳥にしかできぬ。日は、鳥を手放すことはせんだろうから、安心せい。 送り出す折の信玄の声が、響いていた。2012/08/01